今回は歴史的遺跡を中心に書くことにする。
ただし、最初は途中のことで、八幡平の次の宿泊地である三沢のことだ。三沢では夕食を予約していなかったので、ホテルの人にスーパーマーケットを教えてもらって買い出しに。すると、とにかくものすごい爆音がひっきりなしに聞こえる。三沢基地の戦闘機の音だろう。通常の飛行機の音とは明かに違う。こんな音を日常的、かつ継続的に聞かされるとなると、本当にたいへんだと思う。道々妻と話すが、爆音のときには、全く自分の話し声すら聞こえない。しかし、更に驚いたことに、ホテルに帰って部屋に入ると、まったく聞こえないのだ。ここまで防音設備の性能がいいのかとびっくりした。最近騒音訴訟をあまりきかないのは、防音設備の深化が、騒音被害を緩和しているからなのだろうか。だが、外を歩いている限りでは、絶えがたいほどの爆音だったことは間違いない。
翌日、六ヶ所村を通って、本州の北端である大間までいき、そこからフェリーで函館に渡った。六ヶ所村は、ああこういうところに核施設をつくるのだと、かなり陰鬱な気持になったのが率直なところだ。
さて、函館で歴史的遺跡として有名なのは、もちろん五稜郭だ。ほぼ全体が保存・再建されていて、このような城郭は日本では例がないと思う。日本の江戸時代の城は、当時のものが残っているとしても、城全体ではなく、天守閣と石垣を含んだ敷地であるのがほとんどで、多くは敷地自体が一分であり、また、多くの城は再建されたものである。再建されたものとして、当時の設計図にしたがって再建されているものは、やはり、当時のことがよくわかって、見応えがある。五稜郭でいうと、奉行の役宅が非常に丁寧に再建されていて、参考になった。いくつか武士の原寸大の人間がおかれたりしていて、他にはあまり見ないものだ。函館の観光の象徴なので、力のいれようを感じた。
次は網走刑務所だ。歴史的遺産として観光用に公開されているのは、実際の網走刑務所であったものを移築したものだが、ほぼ全体を移築したものなので、見応えがあった。
ただ、私の歴史的知識の不充分さから、網走刑務所の成り立ちについては、まったく知らなかった。ここにきて、さまざまな説明やビデオをみて知った。
つまり、明治政府が北海道開発を進めるためには、どうしても道路を建設する必要があり、極寒の地方で道路建設するために、囚人たちを集めて工事させることを計画し、まず、囚人たちを収容する刑務所を、囚人たちにつくらせ、そして、刑務所を基地として、200キロにわたる道路を突貫工事で建設したというのだ。多くの囚人と少なくない監視員たちが命を落としたという。同時の常識では考えられない過酷な工事で、短期間にできあがったという。
もちろん、道路建設が一段落したあとも、刑務所は残ったわけだが、自給自足的な運営がなされ、囚人たちが農業で食料生産を行い、自分たちの食べ物は当然として、農産物を売ることによって収益をあげ、刑務所の運営費にしたそうだ。それは今でも続いているような説明があった。
網走刑務所の説明の一節に、網走市と刑務所は切っても切れない関係にあり、相互に尊重しあっている、との表現があったのには正直驚いた。刑務所が市のなかに、重要な位置付けをされているということだ。刑務所はほとんどの地域で迷惑施設として認識されていると思うが、網走は違うらしい。
私自身は、囚人を通常の労働に従事させることは意味があると思う。刑務所での作業は、市民生活のなかで不可欠な製品をつくるというよりは、どちらかというと趣味的なものが多いように思うが、そんな技術を身につけても社会にでてから、あまり役に立たないのではないだろうか。刑務所の外にでて仕事をすることによって、実際の仕事の技術を身につけることができる。現在は、逃亡を防ぐ器具は整備されているのだから、脱走する危険性もほとんどないのではなかろうか。人手不足を補う意味もある。特に農業に携わる人が少ないのだから、農作業などは、囚人へ割りあてることで、農業界も助かるのではないかと思うのだが。
次にアイヌの遺品が集められ、住宅などが移設されている二風谷コタンを訪れた。萱野茂というアイヌ出身の人(最終的には参議院議員になって、アイヌ保護の政策を進めた)が集めたアイヌの道具などを展示したふたつの記念館を中心しとて、住居などがあちこちに立てられている地域である。
さて、アイヌの生活がほぼそのまま継続していることはほとんどないと思われる。国籍としては日本人であり、日本の学校に通学して育つわけだから、当然、倭人に同化しているといえる。そのなかで、アイヌ文化の保存運動があるわけだが、これらの施設をみただけでは、保存運動がどのようなものなのか、判然としなかった。
アイヌは文字をもたない民族で、そのため口承文学の形でさまざまな伝承が残っている。そして、これまでは語り部を育て、彼らが伝えてきた。しかし、語り部は次第に少なくなっており、このまま推移すれば、アイヌの口承文学は消滅してしまう。ではどうやって遺すのか。語り部を育てることと、現在の表音文字を使って、文字化して遺すという二つの方法がある。後者はこれまで何人かのひとたちによってまとめられているし、語り部の育成にも取り組んでいるという。
では、アイヌ語の保存ということはどうなのか。世界的には、消滅してしまった少数言語は多数ある。日本語のなかの方言なども、長い目でみれば、今後消滅していくものが少なくないと思われる。言語が分化していることは、相互のコミュニケーションが取りにくいわけだから、共通語が存在することが望ましい。旧約聖書のバベルの塔の話は、この逆のことを示している。だから、少数の者にしか通じない言語を、特別な方法で、つまり、コストをかけて保存する意味はあるのだろうか、という疑問は当然ある。言語はコミュニケーション手段に過ぎない、そして、文学などもその基礎の上に成立するのだ、と考えれば、共通の言語を皆が母語として習得すれば、コミュニケーション上最も効率的であり、合理的である。しかし、少数民族が議論されるときには、ほとんどの場合、彼らの言語を保護することが重要であるといわれる。おそらく、現在アイヌ語しか話せない人は、ほとんどいないと思われる。そして、今後ますますアイヌ語を話せる人は少なくなっていくだろう。ほとんどの日本に住むアイヌは、日本の学校に通って、日常語としても日本語を使用している。おそらく彼らの多くは、日本語で文学に親しんでいるに違いない。アイヌの口承文学も日本語に翻訳されたものを読むだろう。何もしなければ、アイヌ語は消滅していく。だからこそ保存が主張されるわけである。
言語は日常的に使用されなければ、特別な場合以外は消滅していく。特別な場合とは、ラテン語や古代ギリシャ語、日本では古語のように、古い言語での文学、哲学などの作品が高く評価され、現在でも原典で読むことに意味を見出されている場合である。これらは、古代文明として高度に発達した地域での現象である。そうした古代言語は、それぞれの国で古典として学校教育で教えられる。
アイヌ語も地域での講座として教えることが保存方法としては考えられる。あるいは、ネットによる学習テキストがネットに掲載されることで、世界に学習機会が開かれることもありうる。あるいは、アイヌ語によるyoutubeやラジオ放送などがさかんになれば、世界でアイヌ語を学ぶ人が出てくるかも知れない。しかし、日本の学校で教育言語になることはないだろうし、国際的に広まるかどうかは、アイヌ語による文化の魅力によるだろう。残念ながら、私にはその判断はできない。