教科研から、『検証全国学力調査』という本が出版され、改めて、学力について考えるきっかけになった。この本は、文科省が行っている学力調査の「悉皆」という部分を批判し、抽出調査にすべきである、そうすれば、過度な競争や無意味な事前練習などの弊害がなくなるという主張を明らかにしている。そのこと自体には、反対ではないのだが、もう少し深く考えてみると、では、抽出調査ならいいのかという問題につきあたる。学力を測ることは必要であるし、そもそも勝田守一は、学力を計測可能性との関連で論じていた。だから、学力調査自体は必要だ、そういう認識になっている。
抽出調査なら、競争は起きないかといえば、PISAの例をみればわかるように、十分に起きる可能性がある。競争が起きるかどうかは、悉皆調査か抽出調査かではなく、結果の公表の仕方によるのではないかと思うのである。悉皆調査であっても、一切都道府県や市町村あたりの平均点とか、学力分布状況を公表しなければ、競争にはならないだろうし、抽出調査であっても、県単位の順序などを公表すれば、競争にならざるをえない。もちろん、悉皆調査のほうが、公表圧力が高まることは事実であり、文科省がより激烈な競争を狙って学力調査を行っていることも疑いない。だが、やはり、競争と悉皆・抽出とは直接的な因果関係があるわけではないのだ。
そして、最も本質的な問題は、文科省が学力調査を行うことは、文科省という国家が、学力モデルを設定して、それにそって水準を計測することを意味するという点にある。国家が、これが学力だというモデルを設定することは、妥当なのだろうか。そう考えると、やはり問題を感じざるをえないのである。オランダの全国テストを実施しているCITOという組織は、官と民を揺れ動いたが、現在では民間組織になっている。国家が学力モデルを作成することに対する批判があるからだろう。1960年代の全国学力テストへの批判も、学習指導要領に法的拘束力をもたせ、それを実効的なものにするためにテストを行ったことに対してのものだった。過度な競争がなければ、批判が生じなかったわけではない。過度な競争、不正の横行、そして、競争県における非行の増加などは、文部省ですら、全国学力テストを中止せざるをえなかった理由であって、そのために、民主的な教師たちが反対したわけではないのだ。
当時、全国学力テストをめぐって、学力とは何かという論争も起きた。その中心だった勝田の学力論は、いまでも大きな影響力をもっている。当然、考察する価値がある理論である。
そこで、勝田に戻って、計測可能性ということは、どういうことなのかを考えてみたいのである。
勝田は「学力とは何か」という1962年7月号の『教育』で次のように書いている。
「私は、子どもの学習の効果が計測可能なような手続きを用意できる範囲でまず学力というものを規定しようというのです。」
そして、具体例として、自然数の10までの理解とそれ二桁以上の理解と操作、連続量の観念の理解等をとりあげ
1測られた能力は、その土台となっている能力が既に発達していることを前提することができる。
2測られるある能力が、さらに発達を必要とする能力の可能性を推測させることかできる
という条件をあげている。そして、そのためには、「学習させる内容が、発達の順序の必然的関係という観点をもって、分析された上で組織されなければなりません」と書いている。そして、学力とは、「計測可能な到達度によってあらわされる学習によって発達した能力だ」というのが、勝田の学力定義なのである。そして、「選抜や等級づけのため」ではないとまで断っている。
計測可能性というと、つい、数量化可能性と解釈しがちであるが、勝田のいっているのは、まったく違うことなのである。
私にとっては、より分かりやすく、示しやすい例として、ピアノの教則本をあげてみたい。
いまでも使われているバイエルという教則本がある。これを順番にみていくと、それこそ、ある能力を前提に次のものに移っていく具体的な形態がよくわかる。
最初は、ドからソまでの5本の指だけで弾ける音列を、もっとも単純な右手だけの全音符、その音だけでリズムを変化させる。そして、次は左手だけで同じようなことをする。そして、両手にいくが、左手は同音を全音府だけで、右手が変化する。その逆。そして、少しずつ、リズムの異なる音形や左右の関係が複雑になっていく。それが実に細分化され、ひとつひとつの曲に新しい要素がつけ加わっていくわけだ。そうして、5度からはみ出て、指を広げたり、移動させたりする要素を加えていく。そうした一つ一つの課題をこめた練習曲が104曲にまとめられ、ピアノ学習のもっとも基本的な技術を修得することになる。ひとつひとつの練習曲が求めている課題を克服し、その曲が弾けるようになったと「認定」されると、次のより複雑な課題の練習曲に進むわけだ。
この場合、当然のことながら、この練習曲がマスターできたと判断するかどうかが、計測可能性ということであって、数量化することではない。
ひとつひとつ順番に並べられた練習曲を、できたと判断して、最後までいけば、ピアノを弾くためのもっとも単純な技術(能力)を獲得したと判断される。それを計測可能性と呼べる。だから、何%できたとか、そういう判断ではない。もちろん、それでもひとによってでき具合は異なるが、その違いを計測する必要はないのだ。
基礎教科について、それぞれの構成形態は異なるだろうが、基本的には、あることができたら、次にという、発達の順序に従って、できた、できないの判断が可能なように、学習内容を構成するということによって、その教科の学力が具体化されるということだ。
このような学力の考えでは、基本は個人の学力の測定であって、集団的な調査は便宜的なものに過ぎない。また、ピアノの教則本がバイエルだけではないように、特定教科の学力の構成自体が多様であってもよい。更にいえば、教則本を修得することと、実際にピアノ曲が弾けることとは、同じことではないように、学力の測定でパスすることと、実際に知識を応用して、現実の課題を解決することとは同じことではない。比較的高い段階まで進めば、ベートーヴェンのピアノ曲を練習の素材として使うことだってできるだろう。そのように、国語の読解力という学力を、ある段階から文学作品や哲学作品を使って鍛えることも可能になる。実際に普通に行われていることである。
結論として何がいえるか。
計測可能なように組織されるということから、抽出だろうが、集合的な学力調査が、学力の実態を示すために不可欠だというわけではないということだ。学力の計測は、個々人の到達の度合いを調べるものなのである。