社会は急速にICT化に進んでおり、コロナ禍はそれを圧倒的に促進した。少なくとも、そのように思われる。GIGAスクール構想による一人一台の情報端末の配布ということも、今年度中に実現するという計画になっている。本当に実現しているかは、現時点ではわからないが、そこにもいろいろと、疑問の余地はある。もちろん、ICT化は押しとどめることはできないし、また、押しとどめるべきでもない。大いに進展させる必要がある。しかし、そこに重要ないくつかの観点が、実は、この中教審答申には抜け落ちている。今回は、それを中心に書きたい。
6章と7章は、基本的に同じことを扱っており、教育のICT化の実現形態を提案している。簡単に内容を整理しておこう。提起されていることを、箇条書き的に整理しておいた。
ア ICTを基盤的なツールとして活用
イ 新学習指導要領の趣旨を踏まえる
ウ 従来伸ばせなかった資質・能力の育成に効果
エ 休校にともなう遠隔・オンライン授業への活用
オ 対話的で深い学びの改善に生かす
カ ハイブリッド化による指導の充実
キ スタディログ
ク デジタル教科書の普及促進
ケ ICT人材の確保
コ 学校で学べないひとのためのオンライン授業
サ 一人一台の情報端末・そのための机・充電保管庫・図書館の整備・障害者のためのバリアフリー
シ 健康管理の情報の電子化PHR
個別に見れば、ほとんどは頷けるものだ。ひとつの項目を除いては。それから、ここに書かれていない問題がある。そして、そのふたつは同じ側面をもっている。
ICT活用で、最も重要な原則は、「自由」ということだ。例えば、現在実際に授業で活用されているタブレットなどの使い方の多くは、調べ学習である。もし、教師が、こういう単語で検索してみなさい、でてきた、この項目を読みましょう、などと、いちいち指示していたら、調べ学習になるだろうか。調べるためには、自分で検索語を考え、出てきた項目をいくつか読んでみて、適当なものがなかったら、更に別の検索語で試してみる。もちろん、教師が、そのときにアドバイスをすることはあっても、あくまでも主体は子ども自身でなければ、学習効果は期待できない。つまり、調べる際には、自由を保障すること、つまり試行錯誤が必要なのである。教師がいちいち指示していては調べ学習にならない。コンピューターの活用は、基礎的な技術を学ぶ際には、決まったことを教えるとしても、活用の段階では、自由な活用が絶対的な条件になるのである。
これまでの日本の学校教育におけるICT活用がうまく機能しなかったのは、機器を情報教室などに置き、普段は鍵をかけて、授業のときだけ、教師の指示に従って使う、というやり方をしてきたからである。こうした使い方がほとんどであることは、学生たちに確認してある。これでは、決して、上達しないのである。
私が1992年にオランダに海外研修にいったとき、訪れた学校には、例外なく、自由に使えるパソコンが共有スペースにおいてあった。まだ、インターネットが普及する前だったので、ネットにつないで使ってはいなかったが、2002年に再度いったときには、たくさんのパソコンが置かれ、これも各人が自由な使い方をしていた。インターネットにも自由にアクセスしていた。
日本の例でいうと、ある高校の卒業生の話しだが、現在、日本のAI研究の第一線にたって活躍しているひとがでてきて、彼の中学高校時代のことが放映されているテレビ番組があった。彼は、中学の早い時期から、高校3年生の卒業まで、授業中は、ずっと自分のパソコンを机において、パソコンの操作をしていたというのである。もちろん、授業とはまったく関係ないことを延々とやっていたわけだ。教師たちは、誰もとがめなかったという。あいつは、ああいうやつだということで、黙認されていたのだという。本人がインタビューにでていたが、成績は落第すれすれだったが、さすがに3年生の12月には、あせって受験勉強を始めたという。それで志望の大学に入り、無事専門的にAIを学び、起業して活躍しているというわけだ。これは極端な事例だと思うが、コンピューターを学ぶ上での本質的に重要なことを示している。規制すればするほど、ICTの教育はうまくいかないということなのだ。
つまり、上のイの項目、学習指導要領にそって、ということをやっていれば、まず効果はあがらないだろう。戦前ですら、作文教育は、国家の基準がなく、現場にまかされていた。ICTの教育は、基礎的な部分以外は、完全に自由を保障しなければ、教育効果はないのである。
これは、書かれていない部分と結びつく。つまり、GIGAスクール構想の最大の問題は、ハードウェア主義だということだ。一人一台の情報端末を公費で購入して、全員に同じものを貸与することが想定されている。しかし、既に自分のものをもっているのに、新たなマシンを貸与する必要があるだろうか。わざわざ慣れないマシンを使わせる意味があるはずがない。自分のものをもっていないひとに、できるだけよいマシンを貸与するのがよい。OSを統一すること、最低限のスペックを規定することなどは必要だろう。そうすることによってこそ、マシンの使い方を学ぶのではなく、マシンを使って自由に学習を発展させるという、本来のICT活用の教育が実現するのである。機種を同じものにするということに、既に、ICT活用の制限的要素が介在してしまう。マシンをそろえるというのは、一見便利だが、ICT教育にとってはマイナスなのだ。便利さや管理的教育を望む現場の声もあるだろうし、また、企業の利権も絡んでいるとも思われる。しかし、効果的な教育、とくにICT教育には、自由が不可欠であることを強調しておきたい。