醜悪な聖火リレー

 聖火リレーがどういうものかは、まじかに見たことはないので、これまで意識していなかったが、前回の東京オリンピックのときには、ただ、聖火ランナーがけっこうなスピードで走っていた感じが残っている。もちろん、当時はまだ商業主義ではなく、あくまで公的な資金で行われていたので、まわりを宣伝用の車が囲んで走るようなこともなかったと思う。
 これまで諸外国でどうなっているのか、わからないが、日本の今回のオリンピックの聖火リレーが、これほど商業主義に毒されているとは、開始までまったく思わなかった。テレビは見ないのでわからないが、インターネットのライブ映像が走者ごとに掲載されている。それをみると、とにかく、聖火ランナーと伴走者たちがゆっくりと、沿道に手を振りながら走っている映像ばかりである。しかし、まったく別の映像がインターネットにアップされている。東京新聞の原田記者によるものだが、コカコーラなどの巨大な街宣車のような車が、大きな音をたてながら、何台も連ねて走っているのだ。そして、その一連の車の行列が通りすぎたあとに、聖火ランナーが走ってくるのだ。一月万冊の清水氏が数えたところでは、車の数は25台程度あった。おそらく、ニュースなどの報道でも、この車の騒音まき散らしながらの行列には、触れていないのだろう。この車列の映像を見たかどうかで、聖火リレーのイメージがかなり違うのではないだろうか。

 
https://www.tokyo-np.co.jp/article/94041 を見ると、聖火リレーの全体像がわかる。
 
 なぜ、聖火リレーにあれだけ拘ったのか、この宣伝車列をみると納得がいく。明らかに、聖火リレーとは、スポンサー企業の宣伝の機会で、それが協賛金出資の理由であり、だからこそ、決して省略してはならないことなのだ。ランナーが走る沿道に集まってほしいといいつつ、あまり集まらないように、密になったら解散、などという、矛盾したことをいっているのは、本心は前者であるが、それを強くいうと、国民の反発があるという矛盾があるからだ。
 もちろん、国民の多くは、このグロテスクな商業主義に気づいている。
 まずあのトーチという聖火だが、一人がごくわずかしか走らないのに、一人一人が別のものをもって、火の伝達をしている。つまり、走者分だけのトーチがあるということだ。1万人の走者がいるということだから、万単位のトーチを発注していることになる。さらにユニフォームは、もっと多数だ。伴走者とか、あるいは待機場にいるひとたちもユニフォームを着ているひとが多いから、たぶん数十万着が、オリンピック関連で販売されたのだろう。聖火リレーのためにだ。商業主義とは無縁だった前回東京オリンピックでも、もちろんユニフォームはあったが、聖火リレーにかかわって、ここまで多くのひとがそろいのユニフォームを着ていたようには思えない。
 
 多少話題がそれるが、開閉会式のごたごたに関して、当事者の一人であるMIKIKO氏がツイッターを公表し、経過について説明した。そこで驚いたのは、昨年オリンピックの延期が決まったとき、当然開閉会式のプラン作りが、とりあえずペンディングになり、再度連絡するという話なので、MIKIKO氏は待っていた。しかし、なかなか連絡がこないので、6カ月たった時点で、電通に問い合わせた、という部分だ。まず、それまで責任をもってプランをつくり、ほぼ実行できる段階にまでもってきた、事実上の責任者に、まったく連絡せず、勝手に新体制をつくってしまったのも驚きだが、それ以上に、私が驚いたのは、MIKIKO氏が、電通に確認の電話をしたということだ。なぜ、「電通」なのか。式典のことや、人事のことは、オリンピック組織委員会の管轄事項ではないのか。そして、「電通」が、既に新しい体制が進行していると、普通のことであるように回答していることだ。電通とは、もちろん、日本最大の広告を扱う企業であり、各種催しを計画、取り仕切ることもやっているようだ。だから、極めて大きな開催物であるオリンピックを、電通が取り仕切っていることは、もちろんわかっていた。しかし、こうした開閉会式のやり方、そして、計画等についても、組織委員会を超えて、電通が仕切っていること、そして、それにしたがって、人々が動いていることが、私のような感覚では、いかにも異常である。そして、組織委員会の事実上の責任者である武藤事務局長は、その経過について知らないとか、いえないとか、言葉をあいまいにしている。
 このプロセスも、このオリンピックが、利権集団に汚染されているかを示している。
 こうした電通の支配と、聖火リレーのスポンサーの醜悪な車列とは、結局、今回のオリンピック招致の当初から続く、象徴といえるだろう。こんなオリンピックが、国民にそっぽを向かれるのは、当たり前だろう。
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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