遊びと学習1

 子どもが遊ばなくなったといわれるが、コロナは遊びについて考えさせる契機ともなっているようだ。コロナで行動が不自由になり、遊びも制約され、家庭内でのゲームなどが増えたというようないい方がある一方、全国の学校が休校になり、学校という制約がなくなったので、子どもたちは自由に遊べるようになったという人もいる。(神代洋一「新たな子ども時代の遊びを」『教育』2022.1)そういえば、全国学校休校中、我が家の前の公園では、けっこうたくさんの子どもたちが遊んでいたように思う。ただ、それが一般的な現象だったかどうかはわからない。
 コロナとは無関係に、昔風の子どもの遊びが少なくなってきたことは、時代的趨勢として確実にいえることだろう。地域によってずいぶん異なると思うが、理由はいくつか考えられる。

・自由に遊べる地域の場所・空間がなくなってきたこと
・自然豊かな地域が減少してきたこと
・塾や習い事で、管理された大人の指導によって行うことが増大したこと
・学校が生活や価値観において占める割合が増大して、成績や進学が重視されると、遊びは余計なことと考えられるようになってきた。
 今、子どもをもつ親で「そんなに遊んでばかりいないで、勉強しなさい」と一度も言ったことがない人は、かなり少ないに違いない。まして、「勉強なんかしないで、遊びなさい」という親はもっと少ないに違いない。また、交通量が増えて、外で遊ぶことが危険になったので、親が禁止している可能性もある。私の住んでいる近所に、ある時期かなり広い空き地があった。建物があったのだが、撤去され、数年間草が生えていて、柵もなかった。しかし、そこで子どもか遊んでいるのは一度もみたことがない。やがて柵ができて、今はホームセンターが建っている。場所がないから遊べないだけではなく、場所があっても遊べない環境、あるいは子どもや親の感覚、価値観なのかも知れない。
 こうした価値観の変化は、遊びと学習を対立的にとらえるようになっているということだ。
 日本がまだ農村社会だった時代には、学校の勉強を重視する家庭は、必ずしも多くなかった。だから、学校の成績などは気にしなかったし、学校から帰ったら、むしろ家の手伝いをさせていた家庭のほうが多かったろう。しかし、現代は、学校での成績や生活は、ほとんど絶対的な比重をもっている。そうして、遊びと勉強はますます対立的になっている。
 そのことは極めて大きな問題を生じさせる。本質的に遊びと学習は不可分のものであり、遊びが学習の基礎になる。より正確にいうと、遊びが基礎なった行われる学習は、極めて効果的に進むが、遊びと対立した学習は、なかなか効果をあげることができない。科学的な実験によって、このことはかなりの程度証明されているそうだが、経験的にいえることの範囲で考察してみよう。
 
 どのようなことでも、人がなにかに取り組む場合、それに積極的な関心をもっていたり、あるいは好きなことをやる場合に、そうでないよりも、ずっと進歩が速い。学校の勉強が嫌いな人が多いのは、学ぶ内容が決められていて、義務として勉強しなければならないからである。たまたま、ある教科が好きになれば、その勉強は楽しくなり、成績も向上する。
 他方、遊びは、それが本当に遊びとして行われる限り、日常的にその遊びを行っているものは、その達人であるに違いない。もちろん、集団として遊んでいる場合に、全員がその遊びが好きだとは限らない。人間関係でそこにいなければならないという場合もあるだろう。だから、嫌だけとつきあいで遊んでいる人もいる。その場合、ここでいう遊びではない。
 では、積極的な意味での遊びとは何か。どういう条件を満たしている必要があるのか。
1 自分が好きだからやっている。だれかに強制されてやるのではない。
2 その遊びをすることが楽しいからやるのであって、何か他の目的のための手段としてするのではない。
3 その遊びには規定の形やルールがあるとしても、随時メンバーや状況に応じて、変更することができる。
4 知的活動や身体運動を伴う。
 他にも、論者によって、勝敗がつくなどの条件を付け加える要素があるが、私にとっては、以上が重要である。勝敗は重要ではない。形やルールがあることを遊びの条件としている考えもあるが、私は、それを変えることができることを重視したい。
 
 人間の脳の成長は、幼児において最も顕著であるといわれているが、それは、脳が新しい刺激に反応したときに、形成が進むからだといわれている。既知のことが刺激としてインプットされても、脳は新しい神経回路を形成することはないようだ。実は、幼児までの活動は、すべてがこの遊びの条件にあっているのである。まだ何も知らない幼児にとっては、すべてが新しいし、興味津々である。何かをしても、それは興味本位にやっているだけで、何かを目的にしているわけではない。はいはいを始めれば、手や口をつかって確認したり、何だろうと興味をもって触ってみる。
 そういう新鮮さがなくなる大きな要因は、ふたつあるように思われる。ひとつは、生活空間が広がらないうちでは、新鮮さが薄れてくることであり、ふたつめは、大人がいろいろと指示したり、干渉するようになるからである。最初の干渉主体は親であり、次に学校の教師である。そして、学校の教育は、近年ますます反遊び的、つまり、反学習的になっている。
 現在の学校教育がもっている大きな問題である。(続く)
 
 
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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