遊びと学習2

 人間の脳が、遊びのような活動をしているときに、最も活性化するということから考えて、学びの効果は、遊び的要素によって向上することは、容易に想像できる。かつて、優れた業績をあげた人は、その分野に取り組んでいるとき、かならず遊びの精神をもっていたに違いないのである。もちろん、そこには大きな壁を乗りこえるという苦難があっただろうが、それも楽しいこと、好きなことをやっているからこそ克服できたのであろう。
 以上のことを踏まえて、学校教育について考えてみる。各種調査によって、日本の子どもたちは、学校に楽しくて通っていることがわかっている。もちろん、いじめや不登校という問題もあるが、大多数の子どもたちにとって学校は楽しいところなのである。しかし、その楽しさは、友達と一緒に過ごせるからであり、勉強が楽しいという子どもは、極めて少数しかいないこともわかっている。本来学校は学ぶところなのだから、勉強が楽しくなければ、効果的な学習をしている子どもはわずかしかいないことは、疑う余地がない。そして、その傾向は、近年ますます高まっている。
 学習指導要領による内容規制だけではなく、スタンダードなる言葉によって、教え方、行動様式までが、ある一定のものに揃えることが志向されている。

 
 ここで、ひとつの問いを考えてみよう。私は教員時代に、教師をめざす学生たちをずっと指導してきたが、面接練習などで、かならず「ある子どもが、学校の勉強はつまらない、どうして勉強しなければいけないのか?」と質問してきた。どう対応するか、という問題をだしていた。
 学生たちの対応は、ほとんど100%以下のようなものである。
 「それはね、今はつまらないと思っても、将来必ず必要になるものなの。だから頑張ろうね。」
 確かに、学生たちは嘘をついているわけではない。教師になるためには、学校で学ぶことを理解している必要がある。こんどは学校で教えることなのだから。小学校で学ぶことと、小学校の教師が理解していなければならないことは、確かに重なっている。だから、本心でそう思っているから、ある意味とてもやっかないなのだ。
 しかし、中学校以上になれば、教師だって、理解しておく必要があることは、中学全体で学ぶことではない。まして、他の職業であれば、学校で学ぶことが、直接役にたつことなどは、かなり小さいはずである。
 つまり多くの教師が誤解していることの第一は、学校で学ぶことは、社会にでて、「多く」は役に立たないのに、必要であるという前提で子どもに接していることである。こういうことは、学校関係者以外には常識かも知れないが、教師が認識することが重要なのである。個々の子どもにとって、重要であり、必要なことは、異なるのであって、それは、多くの場合、学校で教えられることとは別である。
 第二の誤解は、先の面接練習のときに、多くの学生は、次のように付け加えることだ。「勉強は楽しくないかも知れないけど、将来必要だし、また、大人になって世の中にでれば、嫌でもしなければいけないことがたくさんあるのよ。だから、我慢してやることも大事なの。」だから、忍耐力が必要だというわけだ。
 しかし、この誤解は、嫌ことをやっても、忍耐力はたいしてつかないということだ。忍耐力は、壁を超えられるということである。しかし、嫌いなことをやっていて壁にぶつかれば、ほとんどの人は、そこから逃げる、諦める。だから、むしろ、忍耐力の形成にとってマイナスなのである。
 壁を乗りこえられる、あるいはなんとしても乗りこえようと思うのは、やっていることが、自分で楽しいからやろうと思っていることの場合だ。あの地点まで到達したいと強い意志があるから、壁を乗りこえようと頑張れる。つまり、多くの場合、学校の勉強をいやいややることでは、忍耐力はつかないのだ。学校で忍耐力がついたと思い出があるひとは、おそらく部活によってだろう。部活は、やりたいことを自分で選択するから、壁を乗りこえようという気持ちもでてくるし、その結果として忍耐力もつくのである。
 第三の誤解は、学校の勉強に興味を示さず、成績の悪い子どもは、自分の得意なことをもっていないと感じていることだ。しかし、これは教師にとって価値あることが、学校的要素であると思い込んでいるので、見えないだけなのだ。あるいは、聴く力の問題ともいえる。
 課題は、こうした誤解をといて、どうやっていけば、遊びに支えられる学習が可能になるかである。(続く)
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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