遊びと学習3

 今回は具体的にどのようなことが、学校教育における子どもの指導で、遊びと学習という観点から大事なのかを考えてみる。
 以下は、ケン・ロビンソン『創造的な学校』の最初に出てくる話だ。
 ある公立の中学は、かなり荒れていて、赴任する校長が直ぐに交代してしまうような学校だった。そのなかで、ある校長が腰をいれて実践を始めた。当初は、とにかく喧嘩をさせないことにエネルギーを注ぎ込まざるをえなかったというが、やがて、喧嘩をしなくなると、学校の勉強などは嫌いな生徒たちに対して、各人にとって重要なことを、そのまま認め、教師たちに遠慮なく没頭できるようにした。

 
「何であれ、生徒にとって重要なことが一番重要です。アメフトでも、ブラスバンドでも、数学でも、国語でも、他よりも重要なことなんてありません。アメフトは重要じゃない、重要なのは数学だ、なんて生徒たちに言うつもりはありませんでした。『あなたにとってアメフトが大事なら、どんなことをしてでも、あなたがアメフトを続けられるようにする』というのが私たちのやり方でした。この方法を採りだしてから、『あなたたちが大事にしていることを先生たちも大事に思っているんだから』ということが生徒たちに伝わると、生徒たちは学校にとって重要なことをやってくれるようになりました。子どもたちと関係性を築けるようになると、先生をがっかりさせたくないと思ってくれるようになったんです。数学は好きじゃない子どもでも、数学の先生を失望させたくない。」
 
 中学段階だから、部活などで学校生活の価値を見いだしている生徒たちに、勉強よりも部活が楽しいなら、徹底的にやってよいということだ。そのことで、やりたいことが思う存分できる満足感だけではなく、それを許してくれる教師に対する信頼感が形成され、それが教科の学習に反映されてきたというわけだ。
 
 日本の小学校なら、もっと柔軟でなければならない。「なんで勉強しなければならないのか」という問いへの適切な対応はどのようなものなのか。実は、私がずっと学生たちに話してきたことは、ロビンソンが上で紹介しているようなことだった。
 子どもたちが勉強が面白くないことは、ごく当たり前のことであって、好きでもないことを強制的にさせられているのだから、楽しくないのが当然であろう。もちろん、教師の教え方によって、新鮮な感じをもち、好奇心を引き出すような授業であれば、面白いと感じることはあるだろう。そして、教師がそのように努力しているとも、信じたいところだ。
 しかし、教師に、勉強が楽しくないし、なぜしなければならないのかと質問をしに来る子どもに対して、将来の必要性を説いても説得力がないこともまた、当たり前のことだ。そういうときに、必要なことは、その子どもが熱心にやっていることを聞き出し、そこに教師自身も関心を示すことだろう。それがどんなに些細なことであっても、その子どもにとっては、重要なことであり、それは学校の勉強よりも楽しい、そのことを認めることだ。どんなことでも、とことんやっていけば、より上達するために、たくさんの知識が必要となる。そこで、学校で学んでいることと関連ができてくる。そして、その子どものもっている関心の領域は、実は、将来のその子が、社会人となったときに、重要な働きをすることになるのかも知れない。何十年後に何が重視されていることなのか、誰にもわからないのである。
 堺屋太一の小説に、普段の業務は平凡で目立たない社員が、実は、凧に夢中になっていて、凧が媒介になって、予想もできなかった活躍をするという話があったと思う。「釣りバカ日誌」は、釣りが媒介となって、多くの企業の重要人物と知り合いになり、表面に出ないところで、いろいろな成果があげられているという話だ。もちろん、これらはフィクションであるが、現代社会の特質を表しているといえる。学校で正規に学ぶカリキュラムや、企業での定型的な業務以外のところに、大きな発展の源があるということだ。その源が、学校の勉強以外に強い関心をもって熱中していることかも知れない。教師は、そうした意識で、子どもの遊びをみる必要がある。
 
 遊びと学習が、最も強く関連づけられている教育を実施しているのは、これまで何度か紹介してきたサドベリバレイ校であろう。1960年代のオルタナティブ教育運動のなかで生まれた学校だが、現在世界的に広まっている。教育方針は、一言でいえば、「学校が学ぶべきとして与えるカリキュラムや授業は一切なく、登校して下校するまでに行うことは、すべて子ども自身が決める、スタッフは援助を要請されたときにだけ対応する」というものだ。
 私が講義でかならず紹介してきた例は、小学校高学年にあたる時期の4年間、ずっと一日中釣りばかりしていた子どものことだ。サドベリバレイ校は、裕福な実業家の別荘を借りているので、広大な敷地があり、森や池もある。そこで、彼は雨の日も雪の日も、朝から夕方までずっと釣りをして過ごしているというのだ。一年に一度ある保護者会にやってくる父親は、当然息子のそうした実情を知っているので、「うちの子は、勉強しているのでしょうか」と毎年質問するのだが、校長のグリンバーグ氏は、「とてもよく勉強していますよ。釣りをしながら、天候の観察、天候と生物の関係、池にいる動物たちの観察、そして、一緒に釣りをする子どもたちとの交流や、釣りの手ほどきの実践、等々、釣りのなかから、役にたつことをたくさん学んでいます。」と答えていたそうだ。ところが、4年くらい経過したときに、突然釣りをまったくやめてしまい、それから、コンピューターに夢中になって、高校生の年齢になったときに、コンピューター会社を設立し、卒業後大学進学をせず、会社経営に専念し、会社を発展させていったのだそうだ。
 この事例は、とても重要なことを教えてくれる。
 まずは、釣りはその子にとって遊びだったはずだが、そこから、たくさんのことを学んでいるということ。もちろん、ずっと池にいたわけではなく、魚のことや天候、その他釣りをしていて遭遇したことを、図書室で調べたりすることはあったはずである。天気の悪い日でも釣りをしていたというのだから、かなり困難なこともあったわけで、そこから忍耐力を身につけていただろう。遊びが、学びを発展させていたし、人間形成としても重要な意味をもっていた。
 そして、いきなりまったく異なる分野に興味を移し、そこで将来の道につなげている。異なる分野に取り組んでも、直ぐにはいっていくことができた。
 現代社会の特質のひとつとして、技術革新が激しく、ある時点での労働形態が、どんどん変化していくことがある。現在の職業の半数近くが、将来消滅するなどという研究発表が多数あるくらいだ。
 したがって、何かの分野に卓越することだけではなく、まったく経験したことのない分野に適応する能力が、非常に重要になっている。新しい分野に挑戦できる能力は、たくさんのことをやったことから形成されるのではなく、ある分野に徹底的に取り組んで、深めた経験が、そうした能力を形成することが、釣りの少年からわかるのである。サドベリバレイ校の卒業生の調査があるが、「新しい困難にぶつかったときに、乗りこえる力をつけることができた」という実感をもっている人が多いとされている。つまり、遊びと一体化した学習を10年以上も続けるサドベリバレイ校の生徒たちこそ、現代社会で必要とされる資質を培っているのである。
 
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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