人間の尊厳とは「どんな人も持っている、人として尊敬されかつ守られるべきもの」であると考える。これは年齢や性別、病気の有無に関わらずすべての人が持っているものである。
まず、「人間らしくある」ということはどのようなことなのだろうか。
ここで日本国憲法第十一条をみてみると「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。」と規定されている。つまり、調べてみると「人間が人間らしい生活をするうえで、生まれながらにしてもっている権利」と書かれている。このことから、人間の尊厳と基本的人権を尊重することは似ているものであると言うことができるのではないだろうか。
私たちは働くことによって収入を得ている。その得た収入があるからこそ、住む場所があり、食事をすることができ、睡眠をとることができる。また洋服を着たり、生活用品を買うこともできている。つまり「人間らしくある」ということは「生きていくために必要な食事・睡眠が十分に行え、生活できることである」と言うことができるのではないだろうか。残念ながら「生きていくために必要な食事・睡眠が十分に行え、生活していく」には食材や生活用品の購入などによりお金が必要になってしまう。職を得て十分なお金を稼いでいる人にとってみれば、このようなことは大きなことに感じないかもしれない。しかし、現実には働くことができず、家がなかったり、十分な食事がとれなくて苦しんでいる人がいる。親から十分な食事をもらえずお腹を空かしている子どもがいる。果たしてこのような苦しい思いを抱えた人々は人間らしい生活を送っていると言えるのだろうか。「人間らしく」生きていくためにはお金が必要であり、そのお金を得る代わりに働かなければならないのである。この「生きていくために必要な食事・睡眠が十分に行え、生活できることである」人間らしさというものは最低限の条件であり、「年齢や人種、性格や見た目で傷つけられたり、差別されたりしないこと」と「誰もが1人の人として存在していることを否定されない(尊敬される)」という1人1人の人間を守る見えないルールが組み合わせられることで人間の尊厳が守られていると言えるのではないだろうか。
では、ここで私の調べているテーマである「学校現場で教師が子供に不快に思うようなことや傷ついてしまうようなことを行うことは、子供の尊厳が侵されている」ということを関連させながら考えていきたい。
学校は子供に社会で生きていくために必要な力(学力・団結力・リーダーシップなど)を身に付ける場である。だからこそ教師は子供を「教育」しなければいけない。このようなことから教師は、子どもが誤ったことを行った場合には叱り、正しいことを教えてあげなければならない。このような教師と生徒という関係には必ず教師が「上」で生徒が「下」という上下関係が存在する。この構造を利用して教師は子供の尊厳を侵してしまうことがある。
まず、「叱る」という行為に関して、生徒は子供という前に1人の人間である。だからこそ、人として尊厳されなければならない。教師は敬意をもって叱ることが必要であるだろう。次に「教師と生徒」という上下関係を利用することである。最近では教師によるセクハラや体罰が多く問題となっている。子供からしてみれば、様々なことを教えてくれる人生の先輩からのセクハラや体罰はショックなことであろう。
私は小学校から高校までの担任の先生や部活動の顧問の先生にあこがれて、教師になることを目指すようになった。また、先生に怒られたことは今でも忘れることはできなく、今でも気を付けるようにしている。
このように、子供にとってみれば教師は「一日の大半を一緒に過ごす大人」であり子供への影響力は良くも悪くもとても大きいものである。だからこそ、教師は子供との接し方を考えなければならない。子供の成長のカギを握るのは親だけでなく教師も同じである。実際に学校現場を見てみると、子供が1人の人間であるという前提を考慮せず、教師と子供の上下関係を利用して叱る姿を目にすることがある。
先にも述べたように、人間らしく生き、尊厳されるということは年齢や人種などに関わらずすべての人に平等に与えられているものである。私たちは目先の年齢や学歴などの上下関係にとらわれがちであるが、その前提に誰しもが守られるべきルールがあることを忘れてはならない。
*参考URL
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S21/S21KE000.html
http://gakusyu.shizuoka-c.ed.jp/shakai/seiji/01_3_3_kihonnteki.htm