『教育』2020.9号を読む 石井崇史「子どもの世界に応答する教材づくり」

 9月号特集1「子どもの学びを拓く教育課程と教材文化」には、現場の教師の実践が2本掲載されているが、いずれも非常によかった。やはり、現場で意欲的な実践に取り組んでいる教師の文章からは、学ぶことが多い。といっても、疑問もあるので、両方のことを書いておきたい。
 小学校4年生の理科の授業で、豆電球と乾電池のつなげ方による違いを学ぶ単元である。目標は、電池や豆電球のつなげかたで、明るさに変化が出てくることを、実際に確認することのようだ。私がもっている教科書では、非常にすっきりとした構成になっているが、石井氏の使用している教科書は違うもので、単元の最初に、必ず身の回りのものを取り上げることになっていて、ここでは、「身の回りで電気を利用している物には何があるか」という問いに、電気自動車の写真をみて、「電気自動車はどのように走っているのか」という問いが続く。石井氏は、これが単元とほとんど関係ないし、余計な部分になっていると考えている。確かにその通りで、私は、そういうのは無視すればいいと思う。単元そのものではないのだし、まだ実用化があまり進んでいるとはいえない電気自動車など、「電気を利用しているまわりの物」にはふさわしいとはいえない。自由に子どもたちに、出させればいいだけのことだろう。そこで適切な教材が必要だという話になって、仮説実験授業の授業書を参考にしたようなことが書いてある。ただ、その当たりは、実際に揃っている実験器具などと、どういう関係になっているかは、よくわからなかった。とにかく、導入的にはうまくいって、いよいよ、今回の授業の本来のテーマである「豆電球の明るさをもっと明るくするにはどうしたらよいだろうか」と、子どもたちに問いかけたところ、A君が、「教室を暗くする」と答え、クラス一同賛成してしまったというのである。

 そこで石井先生は、困ってしまった。まったく予想だにしなかった回答で、しかも正しくない、それにもかかわらず、みんな賛成してしまった。しかし、さすがに、それは間違っているよとはいえないし、予定をたぶん変更したのだろう、豆電球をつけた上で、教室の明かりをつけたり消したりして、豆電球の明るさを比較する実験をした。すると次第に、「変わらない」という声が増えてきて、A君もそれを認めたので、本来の授業に入ることができたというわけだ。
 A君に、間違いだと指摘することなく、実験をした、しかも予定外の。これは、本当に素晴らしいと思う。実験によって、環境によっては変わらないのだということを、確認したことは、重要だろう。教科書ではまったく想定していないことだから、石井先生の高い力量を感じる。
 しかし、それでも、そこまでやるなら、もう少し踏み込むことができたのではないか、と考えてしまうのである。
(1) 電気を消すと明るくなる、というのは、「明るい」ということは何かということにかかわる問題で、A君の答えは、決して間違いではない。日常生活で、いくらでも感じる場面がある。まだ明るいうちに出た月は、それほど明るく光っていないが、夜中になって真っ暗になると、かなり明るく見える。実際に、電灯などがまったくない、真っ暗なときには、満月の光でまわりが照らされるほどだ。 
 私は小学校の教師ではなかったので、4年生がどれだけ理解できるのかはよくわからないが、具体的にかみ砕いて説明すれば、理解できるのではないかと思う。つまり、相対的な明るさの感じと絶対的な明るさという区別をだ。
 電車のスピードについて考えてみようと、子どもたちに切り出す。立って前を電車が通り過ぎるときに、100キロ出していると、すごく速く感じる。しかし、並行する道路を自動車で50キロで走っているときに、自動車のなかから、電車が100キロで走っているのをみると、もっとゆっくりに見える。つまり、同じ100キロで走っている電車でも、どのように見ているかによって、スピードは変わって感じられる。確認しながら進めていけば、おそらく4年生でも理解できるだろう。
 豆電球や月も、まわりが暗いと明るく見えるけど、まわりが明るいと、そんなに明るく感じない。まわりに影響されて、明るさが違って感じられるわけだ。このように説明すれば、速さとか、明るさを、人が感じるものと、実際のスピードや明るさというのは、別のものだということを、理解させることができる。感じ方だけでスピードを測っても、本当のスピードはわからない。では、明るさはどうなんだろうといって、注目させる。
 実験でも、最初は、教室を明るくしたり、暗くしたりして、漠然と明るさを感じさせる。次に、ようく電球を観察して、本当に明るさが変化しているかを、じっくり見させる。そうすると、変化しないことが分かってくる。
 こういうような扱いにできなかったのだろうか。スピードの問題は、まさしく、アインシュタインが相対性理論を考える、入り口の問題だ。非常に重要なことなのだ。
(2)これが、A君の回答の意味と評価にかかわってくる。石井先生は、A君の家庭環境が厳しく、学校にもあまり来られない状況が続き、要するに、それまでの学習が不十分だったから、こんな勘違いをしたのだ、というように、受け取っているようだ。だから、これまでの学習を活かせず、生活実感だけで考えた発言だったと書いている。
 しかし、そうだろうか。A君の回答は、実は、「現象」とその認知に関する、本質的な見方を示しているのであって、しかも、間違っているわけではない。だからこそ、みんなが同意したと考えるべきだ。「先生が考えていたのとはちょっと違うんだけど、でも、その答えは、とっても重要なことを示しているんだ。実は。」といって、先のような進行をすれば、子どもたちは、ずっと「賢くなった」という実感を得られたのではないだろうか。
(3)授業に関することではなく、特集の「教材文化」に対応する文章が続くのだが、これは、いかにも、特集に合わせて無理に書いたという感じが否めない。教科書通りにやっても効果がないことが多いので、教材づくりが大切で、特に現在は転換期であり、休校などもあったので、素材を工夫するなどして、子どもが自分から学びたいと思える教材づくりを試したいと結んでいる。教材作りに関しては、まったく一般的なことを書いていて、この授業をやって、こういう教材や素材が必要だと感じたというわけでもない。
 この文章は、明らかに「教材論」ではなく、「子どもから意外な反応があったら、どう対応するか」というような、臨機応変な授業の仕方を書いていると思う。仮説実験授業の授業書を活用したことが書かれているが、この単元をするのに、不可欠なものだったようには思えない。『電池と回路』という授業書だと思うのだが、配列や実験の丁寧さは、この授業書が優れているが、内容的には、それほど教科書と異なっているわけでもない。(私の所有する教科書と石井氏の使用教科書は違っているが、本題部分は、おそらくそれほど違わないはずである。)最初の導入で、予定外のことが起きたが、それをうまく実験的に了解したあとは、順調に授業が進んでいるようだ。
 では、何故、こういうちぐはぐな書き方になっているのか。それは、『教育』の編集部との齟齬ではないかと思うのだ。私は、教科研の会員(まだ2年)ではあるが、『教育』は50年読んでおり、編集方針が変化していることも感じている。現在は、論文はすべて「特集」に関連させて、依頼した原稿に限定されている。あとは、小さなテーマの短い文章が複数載るが、これも依頼原稿だ。
 依頼原稿、しかも、特集の場合、どうしても、筆者が書きたいことと、編集者が書かせたいことが、一致しないことが生じやすい。全くの想像だが、石井先生は、もっと、A君の普段の様子とか、クラスの雰囲気、どんな授業をやっていたのか、などを加えつつ、このときの授業をもっと詳しくやりとりなどを書きたかったのではないかと思うのだ。そして、中心は、授業の具体的様子と、その工夫だったろう。もし、石井先生が、本当に教材論として書きたかったのだったら、この授業で必要な、教科書以外の教材について、具体的に書くだろうし、また、授業書以外にも様々な素材を使っているに違いない。ところが、教材論は、もちろん、正しいことを書いているが、一般的なことに留まっている。
 昨年あたりから、かなり丁寧に、『教育』の論評をしてきたつもりだが、編集者と執筆者のずれは、何度も感じている。特に、現場の先生の文章にそれが多い。今回のように、本当に書きたいことは、別にあるが、編集部の要請に合わせて、ミスマッチのような一般論を加えて、特集に合わせるか、あるいは、書きたいをことを結局押し通して、特集と関係があまりない文章になるか、両方のパターンがある。
 論文に関する限り、全部を特集内にすることと、全部を依頼原稿にすることは、再検討して、もっと柔軟にすべきではないかと、強く感じている。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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