途上国からの脱出2

 前回、教育の分野では、とにかく入試を廃止と提起した。
 いや入試こそ、能力主義が実施されていて、入試をやめたら、青年は勉強しなくなるし、競争もおこなわれず、能力が評価されなくなるのではないか、という疑問が生じるかも知れない。
 しかし、入試こそ、若者を勉強嫌いにするものであり、かつ能力を正当に評価しているものでもないのである。入試競争を梃子にして、子どもたちを勉強に駆り立ててきたのが、日本の教育の特徴であるが、現在は大学ですら、とくに選ばなければ必ず入れる大学全入の時代になっている。だから、一部の超難関大学以外は、それほど勉強しなくても入学できる時代である。だから、私が大学に勤めていたときにも、高校時代とにかく勉強に明け暮れた、などという学生はほとんどいなかった。むしろ高校生活を謳歌していた者が多い。だから、大学にはいっても勉強しない学生はいるが、逆に、大学にはいって、好きな勉強分野を見つけると、一生懸命勉強し、その面白さに気付く者も少なくないのである。
 入試は、学力偏差値を争うもので、極めて狭い「能力(学力)」の有無を見るのが基本である。しかし、人の能力は、学力以外にも実に多様である。そして、人は自分の気に入った分野の能力を伸ばしたいと思うときには、苦労もいとわず努力ができるのである。大谷翔平や藤井聡太、HIMARIなど、日本の若いひとたちから、とてつもない天才が育っているが、彼らはいずれも学校秀才として、学力で勝負しているわけではない。むしろ、それに縛られずに自分のやりたいことを徹底してできる環境があり、そこで、よけいな受験圧力を受けることなく、自由に羽ばたくことができたひとたちである。
 だから、やはり、日本の人材が、最大限活用される社会にするためには、入試のように、狭い能力の獲得のために、大多数の若者を駆り立てるような社会システムは廃止するのがいいのである。いや、廃止しなければならない。

 私が入試廃止論を聞いたのは、大学の「教育法」の授業を非常勤講師として担当していた兼子仁先生からだった。私はめずらしく、兼子先生の授業はほぼ出席したのだが、その講義の終りのほうに、日本の教育にとってぜひ必要なこと、それはできるだけ早く入試制度を廃止することです、と語ったのである。既に半世紀も前のことで、それから受験競争はどんどん厳しくなっていったのだから、当時、まさかそんなことが可能だとは考えられもしなかったのである。しかし、大学の教師になって、第一次大戦のヨーロッパの学校制度改革の次に、戦後、特にオランダの学校制度を研究するようになって、日本の入試制度が、いかに特殊なものであるかを知ったことがきっかけになって、本気で入試制度そのものの廃止を考えるようになった。これまで何度も書いたことだが、日本の入試制度は、欧米の進学制度と比べて、大きく異なっている。
 欧米のほとんどの進学制度は、在籍した学校での成績が基本であり、進学したい先の上級学校による学力試験が課されるところは、ほとんどないといってよい。しかし、日本では、入試とは、かならず進学する上級学校が選抜試験をおこなうものである。これが学習にあたえる影響は極めて大きい。欧米のようなシステムだと、学校の勉強をしっかりやって、よい成績をとれば、上級学校に行けるのに対して、日本では、むしろ学校の勉強はほどほどにして、自分の入試科目の勉強、しかも出願校の出題傾向にそった勉強をしなければならず、それは学校での学習とは離れていることが少なくない。中学受験の勉強などは、その典型である。難しい中学を受験する子どもは、学校の勉強はおろそかにして、宿題などやらない者もいるのである。そして、親から無理に受験を強いられ、思ったように成績が伸びない子どもが、教室の問題児になっていることも珍しくないのである。
 もし、日本も上級学校による選抜試験を廃止して、学校での成績を主に判断される進学制度に切り換えれば、子どもたちは、しっかりと学校での勉強に取り組むようになるはずである。そうすれば、教師も教えがいがでてくるし、相乗効果で意欲的な若者が育っていくに違いない。

 しかし、そんなことをしたら、必ず一部人気大学、高校に集中するだろう、そうしたら収拾がつかなくなる、という反論が出てくるに違いない。
 まず、現在でも、かつての難関校も、それほど魅力をもち、多くの受験生が詰めかけている状況ではなく、入れるならそこでなくてもいい、という気持の高校生も多くなっているのである。そして、そうした平均化を促進することも大切なのである。欧米の国立・公立大学は、それほどの格差はなく、トップ校といわれる私立の大学は、一部である。しかし、ハーバードでも、日本のような入試があるわけではない。学校が、ピラミッド型の一流、二、三流などにわかれているよりは、そうした上下よりは、強い領域などで個性を出しているほうが、国全体としての教育効果は高いのである。そして、どうしても偏ってしまう場合の対処はいくつかある。
 ひとつは、領域で選択させ、第三志望くらいまでを提出させて、希望が多い場合には、なんらかの選考をする。たとえば、地域の考慮等。
 あるいは、大学進学の資格試験を実施し、(現在の共通テストをそうする)進学最低規準を設定するとともに、大学として、自分の学科に進学するためには、これこれの科目を何点以上とること、というような条件を設定することを可能にする。その場合でも、複数の希望を条件にすることで、特定大学に集中して、定員の何倍をも受け入れざるをえないということは回避できるだろう。
 そんな複数志望制などにしたら、東京都の群制度の失敗を繰り返すという危惧があるかも知れないが、私立大学も、そうした一環に組み入れることで、その危惧はなくなる。東京都は、都立高校だけでそうしたから、私立高校に地位を奪われてしまったのである。
 日本の学校教育の最も大きな問題は、学校の勉強をすることで、勉強好きになるような子どもが極めて少ない、ほとんどいないということなのだ。しかし、教師がいくら努力しても、小学校時代から、既に受験の浪が押し寄せているのだから、教師の努力によって克服できる状況ではないのである。制度を変えねばならない。(つづく)

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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