教育学を考える23 書くこと -生活綴り方

 『教育』2月号に田中孝彦氏の「子ども理解入門Ⅰ」という文章が掲載されている。生活綴り方で子どもの理解を深めてきたという、自身の研究歴をふり返った文章である。そこでは、生活綴り方が、子ども理解の方法と捉えられていることに、多少違和感をもつ。Ⅱが5月号に出るということなので、詳しい田中論文の検討は、それまで待つとして、直接生活綴り方運動には参加したことはないが、ずっと関心をもち、また、大学の講義でも必ず扱ったことなので、ここで少し整理しておきたいと思った。
 生活綴り方は、さまざまな理解があって、生活綴り方運動を担ってきた日本作文の会でも、大きな論争がかつてあった。それは、生活綴り方が始まった理由、そして、戦後の発展と文部行政の展開のなかで、生活綴り方運動が変遷をたどってきたからである。では、どんな論点があるのか。強調点としてあげられることを整理してみよう。

イ 生活綴り方は、生活や社会をありのままに、科学的に見る理解力、認識力を高めるための実践である。
ロ 生活綴り方は、書かれた文章を通して、子どもたち同士が、お互いを理解しあうことによって、集団形成を行う実践である。
ハ 生活綴り方は、日本語を使って表現力を高め、言葉の能力を向上させる実践である。
ニ 生活綴り方は、ありのままの自分を描かせることによって、教師が子どもを理解するための実践である。
 日本の運動としての生活綴り方は、(ハ)の視点から始まった。それを担っていたのは、鈴木三重吉や北原白秋を中心とした『赤い鳥』だったが、戦後の実践に繋がる日本独特の運動としての生活綴り方(イ)は、小砂丘忠義らによって発展した。特に、軍国主義的な教育が強まった時期において、国定教科書による教育では、社会を科学的に見る目を培うことはできないと考えた教師たちが、唯一、国定的な内容基準がなかった作文教育に、活路を見いだしたことにあった。ものごとをありのままに見つめることは、科学的な理解の第一歩であり、それを文章に表現することが、第二歩となる。そして、理解を深めるために、何故そうなるのかを「考える」ことが求められる。(こうしたことは、戦前の日本では許されなかったから、生活綴り方教師は弾圧された。)
 戦後になって、軍国主義教育は否定されたが、その代わり、皮相な経験主義教育が導入され(経験主義教育自体は、皮相なものではないが、まったく自由な教育実践の経験のなかった日本の教育界では、「ごっこ遊び」に堕してしまい、学力低下を招いたと批判されて、下火になった。)
 この皮相な生活感覚に対して、真に生活を見つめる綴り方実践として、『やまびこ学校』が教育界に衝撃を与え、ここから経験主義教育への「学力低下」論とは異なる批判が起き、生活綴り方の復興運動が起きる。つまり、(イ)の生活綴り方運動の復興である。そして、戦後教育は、民主主義を教えるという課題が新たに登場し、民主主義的な主体を育てることが必要となった。そこに集団主義教育(ロ)という考えが持ち込まれることになった。そうして、生活綴り方教育も生活指導としての役割をもつようになったのである。
 生活綴り方の団体は、いくつかの名称の変遷を経て、「日本作文の会」(日作)となって、現在に至るが、集団主義的な生活指導の研究団体として、全日本生活指導研究協議会( 全生研)が設立されるに及んで、日作は、(ロ)を放棄し、(ハ)の課題に集中するようになる。いわゆる1962年の方針転換である。そして、以後、 全生研、日作という組織、そして、生活綴り方と生活指導との関連とが、複雑に議論されるようになった。もちろん、会が、ある特定の方針や主要な教育方法を推奨しているからといって、会員全員が同じように採用しているわけではないし、日常的な教育については、個々の教師によって、かなり多様性があるものだ。だから、そういうことは、考慮の外におくことにして、ここで、(イ)から(ニ)にいたる教育的目的と、生活綴り方との関わりについて、私の個人的な見解を整理しておきたいと思った。
 
 私が生活綴り方や 全生研の核班競争などを知って、本を読んだり、教師たちと話したりするようになったときには、日作で活動している先生と、 全生研の先生たちは、だいたいにおいて対立感情をもちあっていた。理由を尋ねてもあまり答えたくないようで、詳しいことはわからないが、とにかく、組織的対立があったことは間違いない。そして、1970年代から、現在に至る間に、さらに大きな転換が両方の組織にあった。 全生研は、ソ連のマカレンコなどの理論を土台にする人たちが多かったためか、ソ連崩壊によって、大きく集団主義教育理論に対する自信喪失のような状態が起こったことと、班競争という「競争主義」に対する批判が起きた。現在の 全生研の実践などを見ると、かつてのような集団主義や班競争的な表現は、ほとんどないように感じる。生活綴り方については、日本経済の上昇による「生活綴り方=貧乏綴り方」という感覚への批判と、その後は、個人情報に神経質になった社会的風潮によって、子どもの作文の学級での共有が難しくなった事情によって、生活綴り方的な手法が取りにくくなった。
 そういう状況のなかで、(イ)から(ニ)の役割を考えてみると、私は、機械的に実践するのではなく、状況とその場面の目的に応じて、すべてを使えばよいと思うのである。本来、教育手法というのは、絶対的固定的なものではなく、さまざまな引き出しをもっていて、子どもの多様な状況に応じて使いこなせることが、教師の力量というべきなのだ。
 子どもに限らず、「認識」というのは、まず、事実を見つめること。あるときは、自然観察のように事実そのものを虚心に、可能な限り詳細に見つめること。社会現象であれば、さまざまな情報を取り入れて、検討すること。観察であれば、その変化について考察し、社会であれば、何故そのようになっているのかを考える。そして、それをできるだけ、リアルに表現する。それが「書く」ことの教育的役割、意味である。したがって、(イ)の役割は、教育全体、あるいは生活全体に関係する。生活綴り方教育を実践しているとしても、生活ばかりを題材にする必要はないのであって、「書く」ということの教育的機能を、多くの場面で活用するべきであろう。
 生活綴り方が単なる作文教育でないのは、(ロ)の側面をもつからであり、また、現在では、それ故に困難でもある。しかし、いじめや不登校などの、学級や子どもに起きる問題を解決する上で、生活綴り方の積極的活用は、非常に効果的であることが、実践によって確かめられている。
 実際に、学生たちと一緒に生活綴り方で書かれた作文を題材にして、クラスで話し合うをする授業を見せてもらったことがある。その教師は、新しいクラス担任(4年生)になったときに、5月ころ病気になり、長期欠勤になった。ところが、代替の教師がクラスをうまくまとめることができず、秋口になって、無理をして復帰した。そして、生活綴り方教育をしっかりと行って、翌年持ち上がったクラスで、やはり5月くらいに授業を見せてもらったのだが、そのときの子どもたちの様子は、実にいきいきとしていて、クラスとしてのまとまりも本当によいと感じた。そして、2時間つかって、二人の作文をみなで討論していたが、そこでだされる意見は、実に温かいものだった。こういう実践を積み重ねていけば、クラスで起きた問題も解決できるし、そもそも問題が発生しにくい、その前の段階で子どもたち自身が解決できるのではないかと思ったものだ。
 では、なぜ、生活綴り方が生活指導的に優れた効果を発揮するのか。私は、ハンナ・アレントの理論で考えている。アレントの主著である『人間の条件』は、人間の行為を活動・仕事・労働の3つにわけ、活動をもっとも人間的な行為であるとしている。そして、活動とは、そこにいるメンバーの間で、自由な表現がなされていて、その表現による交流がなされていること、そして、メンバーの多様性が互いに承認され、そこに優劣が認められていないこと、そういう状況で行為が実践されていることを意味している。アレントは、労働を経済的理由による仕方ない行為として、下においているのは、あまり賛同できないのだが、学級を形成する子どもには、経済のための労働はないのだから、学級という集団をアレントのいう「活動」という概念で考察することは、うまくマッチするといえる。
 生活綴り方で、自由な表現が実現し、そして、それを共有する、子どもたちの個性や、作文の内容について、優劣をつけるようなことはしない。その状況は、まさしくアレントの「活動」である。表現は、口頭でも可能だが、そこで、「書く」ことの意味は、特別に大きい。話すよりも、書くほうが、人は時間をかけるものである。したがって、しっかりと考えた内容であることが多い。読む者も、全体を理解することができるし、また、時間をかけて考えることができる。話は、聞き漏らすことがあるが、文章はそれはない。だから、何か解決したい内容が書かれているときには、作文のほうが、話すことで訴えるよりも、説得力があることが多いのだ。そして、話し合いのなかで、出てきた意見を、書き留めることが、さらに多様な考えを知ることができるし、解決の見通しを発見することもできる。
 (ニ)については、当然のことであり、教師たちは、作文に限らず、連絡ノートや日記、さらに授業のプリントでの書き込み、感想によって、子どもを知ることになる。(ハ)については、生活綴り方的な表現方法を重視し、できるだけ、子どもにふさわしい、生活感覚に溢れた表現が大切だという立場もあるが、私は、どのような表現が好ましいから、教師によっても異なるので、教師自身の表現力を磨くことが大事であるという点だけを確認しておきたい。
 
 生活綴り方は、非常に優れた教育方法であり、単に作文を書かせるというのではなく、教科指導、生活指導にも大きな教育力を発揮するものであり、制約にめげずに実践する教師がたくさん出てくることを願っている。
 
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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