熊本丸刈り訴訟判決 繰りかえす歴史の茶番か

 5月30日に、熊本地裁で、丸刈り訴訟ともいうべき裁判の判決があった。
 
「部活で丸刈り強制され不登校に 元県立校男子生徒の1円損害賠償請求を棄却」と題する読売の記事は以下の通りである。
 
 「熊本県立 済々黌(せいせいこう) 高(熊本市)のソフトテニスの部活動で丸刈りを強制されるなどしてうつ状態になり、退学を余儀なくされたとして、元男子生徒が県に1円の損害賠償を求めた訴訟の判決で、熊本地裁は30日、原告側の訴えを退けた。
 同校は明治時代からの伝統校で、原告側は「バンカラな校風で知られ、『シメ』と呼ばれる強制行為で不登校になった」と主張していた。」

 
 今日の当日の記事で、当然詳しい判決文は未掲載なので、判決の論理はわからないが、実は、熊本での丸刈り訴訟は、40年前にもあった。1981年に中学が訴えた訴訟だった。当時は、男子全員丸刈りという校則をもった中学は、全国にたくさんあった。だから、疑問も大分だされていたが、ごく当たり前の習慣として受け取っていた人たちも多かった時代だ。だから、訴訟を起こした人を応援する人は、まわりにほとんどいなかったという。そして、そのときは、丸刈り強制の校則は、違法ではないという判決だったが、判決後の記者会見で、裁判長が「その校則は合理的ではない」という談話を発表したことが、大きく影響して、その後丸刈り強制校則は、かなり減少していったのである。
 
 当時は、それ以外にも、おかしな校則はたくさんあった。そして、校則は基本的に学校が決めた以上、有効である、違法ではないという考えが、法曹界でも支配的だったような気がする。その根拠は、いわゆる「部分社会の法理」と言われるものだった。部分社会の法理は、ある閉鎖的な社会においては、一般社会の通念とはかなり異なっていても、著しく不合理でない限り、一般社会では違法性をもつものでも、部分社会内のルールとしては容認されるというものだ。現在でも、この法理は、無効になっているわけではない。
 典型的には、ボクシングという競技を考えればわかる。ボクシングは、一般社会では殴り合いであり、まず暴行罪が適用される行為だ。そして、通常かなりの身体的損傷を伴うから、傷害罪にもなる。しかし、ボクシングの試合である以上、そうした暴行罪、傷害罪は適用されず、合法とされるわけである。
 しかし、部分社会の法理が適用されるためには、不可欠の条件がある。それは
1 あらかじめそのルールが周知されている。
2 そのルールを理解して、受け入れた上で、その部分社会に、自由意思で参加している。
3 その社会から抜けたい場合には、まったく阻害されることなく、自由に退出できる。
というものであり、このうちのひとつでも欠いたら、部分社会の法理は成立しないと考えるべきである。
 部分社会の法理自体は、認めるが、学校の校則に適用することは、誤りであると、私はずっと主張してきた。それは、上記の条件にまったく適合しないからである。
 まず校則は、一般的に、公開されておらず、入学前にきちんと知る機会は、ほとんどない。また、義務教育であれば、当然のことだが、高校のように、入学試験で選抜されるとしても、予め校則を知った上で、それを受け入れて入学する生徒は、ほとんどいないといってよいだろう。せっかく合格したのに、校則が嫌だから入学をしないという生徒は、まず考えられない。そもそも、それほど詳しく校則を知っているわけではないのだから、当然だろう。義務教育の場合は、通学区で学校を指定されるから、逆に、校則を知っていても、入学しないわけにはいかないのである。
 そして、入ってみて、やはり校則を受け入れがたいから、自由に退学できる条件は、日本には存在しない。オランダのように、自由に学校を選択し、また転校できるのであれば、3の条件を満たすが、日本では、ほぼ不可能である。義務教育の公立学校では、校則への不満は転校許可の理由にならないし、高校から、校則不満で退学したら、他に行き場がなくなってしまい、中卒扱いになる。要するに、日本では、部分社会の法理を、校則に適用するのは間違いなのである。だからこそ、文科省も、社会的な常識にあわない校則はかえるように指導している。
 結論的にいえば、社会的常識に反する校則を作ってはいけないということだ。もちろん、社会的常識というのは、幅があるものだから、ある校則が社会的常識に反するかどうかは、判断が分かれることはあるが、少なくとも、丸刈りの強制は、現在社会において、社会的常識に反することは明らかだろう。
 
 今回の判決が、どのような論理をとっているかは、現在ではわからないが、おそらく
1 高校は自由意思で受験したものであり、その時点で、校風は理解していたはずである。
2 学校として丸刈りを強制しているのではなく、テニス部という部活であり、テニス部では全員丸刈りであることは周知されており、自由意志で参加したものであり、
3 嫌なら辞めることはできる。他にも部活はある。
 こういう論理をおそらくとっているように思われる。つまり、丸刈りは校則ではなく、部則ということだ。ここは、かなりやっかいだと思う。
 確かに、テニス部が丸刈りというのは、事前に知っていたと思われる。私が中学生時代、学校としては丸刈りではなかったが、いくつかの運動部は丸刈りが強制されていた。私は、野球部に入ろうかと思っていたが、それもあって入らなかった。しかし、どうしても野球部に入りたかったら、かなり悩んだろう。
 通常部活では、ひとつの種目についてひとつの部しかない。だから、他のテニス部にはいることはできないのだ。それを「自由に退会できる」といえるかということだ。
 さらに、丸刈りが著しく不合理かという問題もある。この点は、プロテニス選手で丸刈りの人など、まず見当たらないことを考えれば、テニスというスポーツに丸刈りはまったく無関係なことだから、それを強制することは、不合理といえる。少なくとも、そんなテニスと無関係で、しかも嫌がる者の多い丸刈り強制などをすることが、テニス部の発展にとって、マイナスであることは自明であり、私が顧問なら、そんな部則は廃止するだろう。
 
 さて、今回の判決だが、ぎりぎりのところで、許容範囲(純粋に法的にという意味)であるような気がするが、少なくとも、学校教育の健康なあり方、日本社会全体の合理的な発展を志向する立場からは、こまった判決だといわざるをえない。裁判官は、もっと健全な常識を身につけるべきではないだろうか。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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