2025ニューイヤー・コンサート がっかりした

 毎年1月1日にウィーンフィルのニューイヤー・コンサートをテレビでみて、翌日録画をステレオで聴きなおし、感想をブログに書くという習慣が続いていたが、今年はなかなかそういう気分にならなかった。あまりにコンサートの出来にがっかりしたからである。昨年のティーレマンにもがっかりしたが、今年はそれ以上だった。いかに注目に値する演奏会にするからといっても、このようにウィンナワルツを指揮するのにふさわしくないような「スター指揮者」を起用するのをやめたらいいのではないかとまで思った。(もちろん、ムーティは大指揮者であり、私は大方の録音をもっているから、ムーティの偉大さは充分に認識しているが。)

 NHKの放送では、コンサートの開始前と休憩時に解説があるのだが、今年は、驚くべきことが語られた。たしか、日系の団員の話だったが、ムーティの指揮について聞かれた団員が、「ムーティさんは、最初はウィーンフィルからウィンナワルツの様式を学んだといってくれた」といい、そのあとで「今度は、私たちがムーティさんから、学んだのです」と語ったのである。これには驚いてしまった。大阪人が、外国人に大阪弁の話し方を教えてもらって、感激しているようなものだ。ウィーンフィルが、そんなにウィンナワルツの演奏スタイルを忘れてしまったのだろうか。ほんとうの気持だとしたら、かなり深刻だ。ウィーン・フィルは、近年のオーケストラとしては、技術的に必ずしも高くなく、それはウィーン音楽院卒業生のみを採用する、などという制約があったからで、さすがにそれをやめて、国際的な募集をかけるようになって、技術はかなりあがったように思う。しかし、他方、ウィーン特有の味を知らない団員がふえてきたのではないかと思うのである。それは、このニューイヤー・コンサートに現われていた。一時期、ウィンナワルツを演奏するときに、必須のこと(ブン・チャ・チャのチャ・チャを刻むときに、かならず弓を弦につけから音を出す)を守っていないバンオリン奏者がいたことに驚いたことがある。おそらく、そういうことは、楽団員の先輩がしっかり教えるのだろう、最近はそうした弾き方は目につかなくなった。しかし、ムーティにワルツの演奏法を教わったなどということがいわれるようでは、先が思いやられるのである。
 要するに、ウィンナ・ワルツというのは、ワルツの方言なのである。チャイコフスキーやフランスのワルツでは、踊り方が、全体として輪になって踊る感じであるが、ウィンナワルツは、男女が一組になって、縦横に何組も並び、それぞれ、女性が男性に手引きされてその場で回転するように踊る。そして、その回転するタイミングが、一拍目で勢いをつけ、二拍目でまわる感じになる。そこで、独特のリズムが生れるわけだ。二拍目が少し前にずれることで、まわりやすくする。これは、多くの踊りの体験をすることで体得していくのだろうが、オーストリアで育ったひとたちは、多くがこうした舞踏会に参加するので、自然にこのリズムが身についている。これは、さすがにウィーンフィルの演奏だから不自然ではなかった。
 ウィンナワルツには、もうひとつの特徴がある。一曲が、更に小さなワルツの接続曲になっているのだが、このひとつのワルツが終ると、次の開始の導入部分があり、ここをゆっくり演奏して、次のワルツへの橋渡しをするのだが、多くの外国人(オーストリア人でない)は、この部分をおおげさにやる傾向がある。昨年のティーレマンもそうだったし、今年のムーティもそうだった。「自分はウィンナワルツの演奏法を知っているぞ」といわんばかりに強調するのである。しかし、過ぎたるは及ばざるがごとし、であって、そこでだいたいワルツに必要な軽快さが失われてしまうのだ。
 今回では、ほとんどのワルツでそうした傾向があった。最初のワルツだった「オーストリアの村つばめ」などは、ほんとうに極端に「ゆっくり導入」をやっていて、いかにもぎごちない感じだ。更に、この曲では出だしのクラリネットがミスをしていた。一瞬だけだが、音がひっくり返ったのだ。こんなことは、ニューイヤー・コンサートでは始めて経験した。新人の奏者ではなく、かなり年輩のひとだ。誰でも失敗はあるのだろうが、まさか、ウィーンフィルのトップ奏者が、こんな名曲で失敗するなど、滅多にないことだ。演奏しやすいポルカは、だいたい安心して聴けたが、ワルツは、ほとんどがなにかあぶなっかしさを感じたのは、最初のミスのせいだろうか。
 この演奏会について書いた文章を読んだが、やはり、非常にネガティブな評価だったのだが、ウィーンフィルの楽団員に電話で聞いたところ、ムーティのテンポがかなり独特で、合わせるのに苦労したといっていたという。たしかに、ワルツでは、けっこうアンサンブルが乱れていた。そして、音のバランスもわるかった。
 そういうなかで、もっとも演奏が素晴らしかったのが、「加速度円舞曲」だったのだが、これはまた、別の面で驚きがあった。
 ずっと疑問だったし、前にもその疑問を書いたことがあるのだが、バレエがはいる曲で、バレエが踊られるときの演奏は、実際に、ニューイヤー・コンサートで演奏されているものなのだろうかということだ。しかし、今回の映像処理と演奏で、はっきりと、バレエ用に別に、つまりかなり前に録音し、それに合わせてバレエの映像を撮り、それを実際のコンサート中に流すのだということが、確実にわかった。だいたい、演奏が開始される直前に、画面が、バレエが踊られる場面に切り換えられ、そして、曲が終ると拍手があり、拍手の最中に、演奏会場の場面に復帰して、さかんに拍手がなされている、というようにつながっていたのが、これまでの通例だった。だから、いかにも、これまで演奏していたもので踊っていたように錯覚させることができたのである。
 しかし、今回は、演奏が終った拍手があり、演奏会場に映像が復帰していたときには、遠景しか映らず、しかも、指揮者が舞台裏に引っ込んでいたのである。その間拍手は非常に短かったので、実際の演奏終了の拍手の長さではなかった。いつもであれば、映像の演奏とコンサートの演奏は、曲が同じなのだから、あまり演奏時間に相異がなく、自然につながったのだろうが、今回は、ふたつの演奏時間にかなりの相異があったのだろう。
 それともうひとつ。加速度円舞曲のバレエと一緒に流れた演奏が、実に自然なウィンナワルツであり、しかも、音がそれまで流れていた音よりも、ずっと美しく響いていた。すると、バレエの演奏は、ムーティのものなのだろうか、という疑問が生じてしまうのである。映像撮りはあきらかに夏だから、半年ほどのずれがある。アメリカかイタリアに滞在しているムーティが、わざわざバレエの2曲のためにやってきて、録音をするのだろうか。いままでは、指揮者についても疑問をもったことはなかったが、かなり演奏時間が異なり、しかも、一方は不自然なウィンナワルツを演奏していたのに、この曲だけ実にウィーン風にやっているというのが、おかしいのである。
 クライバーがバーンスタインの代役としてでたとき、バレエを拒否したために、あのときはバレエがなかったのだが、おそらく、バレエの曲の録音のために、わざわざウィーンにくること、あるいは、他人にまかせること、どちらも許容できなかったのだろうと思う。とにかく、今回の「加速度円舞曲」のバレエにつけた演奏は、ムーティ以外のひとの指揮だったのではないかと感じたが、どうだろうか。
 
 すべてのワルツがよくなかったのではなく、「トランスアクツィオーン」は、とてもよかった。ムーティがはじめてニューイャー・コンサートを指揮したときにいれた曲で、非常に思い入れが強いのだそうだが、そうした思い入れを強く感じて、これは好感がもてた。
 ジプシー男爵は、とても複雑で演奏が難しいと思うのだが、高齢になっているためか、からだの動きがこの曲についていけない感じがして、具合がわるかった。そして、全体として、今回のオーケストラでは、木管楽器が弱かった。そして、オーケストラ全体の音のバランスがよくなかった。録音の関係かも知れないが、もっとブレンドするのが、このオーケストラの特徴だと思うのだが。これほど木管楽器にがっかりしたニューイヤーは記憶がない。
 来年は、指揮者としては若手のノセダだということで、期待しよう。ムーティは、たくさん指揮をしたし、今回が最期でいいのではなかろうか。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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