ネットの誹謗中傷問題

 女子プロレスラーの突然の死によって、SNS上での誹謗中傷問題が再度噴出している。ネット上の誹謗中傷は、インターネット開始以来の大問題のひとつである。誹謗中傷自体は、表現伝達メディアが存在すれば、つきまとうことであるが、表現伝達の方法がたやすく、かつ広範囲に及ぶようになるにしたがって、その被害も大きくなってきた。また誹謗中傷と批判との区別も、簡単に区分できるものでもない。この問題は、表現の自由と人格権の保護というふたつの対立し合う概念の調整問題でもある。また、個人に対するものと、公的機関や公人に対するものとでも、扱いは異なる。独裁国家では、公的機関や公人に対する非難は、厳しく取り締まられるが、民主的社会においては、公人に対する批判は、私人に対するものよりも、表現の自由がより広範に認められる。
 民主主義社会における公人への批判は、かなり厳しいものであっても許されるべきであるという立場で考えていくことにする。
 今回の事例で、テレビに出演する者は、公人なのか、私人なのか。公権力を行使する公人でないことは確かだが、しかし、公的に認可された電波を使って、様々な側面を世間にさらすことを同意して出演しているのだから、純粋な私人ではないといえる。ツイッターの利用規約のなかに、次のような文言がある。

 「当社は、本サービスを介して投稿されたいかなるコンテンツや通信内容についても、その完全性、真実性、正確性、もしくは信頼性を是認、支持、表明もしくは保証せず、また本サービスを介して表示されるいかなる意見についても、それらを是認するものではありません。利用者は、本サービスの利用により、不快、有害、不正確あるいは不適切なコンテンツ、または場合によっては、不当表示されている投稿またはその他欺瞞的な投稿に接する可能性があることを、理解しているものとします。すべてのコンテンツは、そのコンテンツの作成者が単独で責任を負うものとします。」

 投稿の内容については、ツイッター社は責任を負わないし、投稿に対するネガティブな反応があることも、投稿者は自覚している必要かあると呼びかけているのである。だから、規約を読む限りでは、極めて不当な投稿があり、書かれた者が救済を求めても、社として救済はしないと、予め宣言していることになる。ツイッターという全世界的な場に対して、自ら発言する者は、既に純粋な私人ではなく、公人としての批判を受ける覚悟をせよ、ということだろう。また、その発言が他人の権利を侵害するとしたら、当然責任をとらねばならないということでもある。だから、不当な投稿をした者を提訴するために、情報を開示せよという要求はありうる。
 しかし、その規定が見受けられないのである。
 これは、facebook でも同様である。ただし、facebook には、次のような規定がある。

facebook の意志表示
有害な行為を防止し、コミュニティの保護とサポートを行います
Facebookは安全だと利用者が感じてこそ、そこにコミュニティが生まれます。Facebookでは、弊社製品の悪用や他人に危害を与えるような行為を検出するとともに、コミュニティの保護やサポートに貢献できるよう、世界中で専任のチームを雇用し、高度な技術システムを開発しています。そのようなコンテンツや行為が見つかった場合、弊社ではサポートの提供、コンテンツの削除、特定機能へのアクセスの停止・制限、アカウントの停止、法執行機関への相談など、適切な処置を講じます。弊社製品の悪用や、弊社製品を利用した有害な行為が発覚した場合、弊社は他のFacebookグループ企業との間でそのデータを共有します。

 facebookは、もともと実名制で安全を売りにしてきたから、こうした政策をとっているのだろう。どこまで実施されているかは別として、企業として安全対策をとり、不当な投稿については、積極的に停止(投稿、会員)の措置をとるとしている。したがって、規則として明記されていなくても、被害者が対応を要請すれば、対応するのだろう。しかし、それでも、投稿や会員に対する停止措置をとったとしても、被害者が提訴のために、個人情報を要求する権利については、ふれていない。 
 では、こうした措置をとることが、プロバイダーやSNS運営者にとって義務であるのか。違法な投稿があったら、それを削除することが義務なのか。この問題は、かつて激しく議論されたが、実際上、管理者たちが投稿を監視することは不可能であり、なんらかのアクションがあり、削除が妥当であるという、なんらかの基準(場によってそれは異なるだろう)に合致した場合、削除しなければならないというのが、現行維持されている考えであろう。youtubeなどが、かなり厳格なコードを設定して、削除しているのは、おそらく、広告主に対する配慮であって、個人の人格権保護が皆無とはいえないが、主たる目的ではないだろう。
 私は、違法・不当な投稿をした者は、個人情報を被害者の請求があった場合、その投稿内容に、プロバイダー、SNS企業が責任を負えない内容であると判断したときには、個人情報を被害者に開示すると、規則に明記すべきであると考える。規則に明記してあれば、トラブルへの対応が容易になるし、また投稿者は、自分の投稿内容に責任をもつことを自覚させることになる。
 ここの内容に、プラットフォーム提供者が責任を負わずにすむようにするためには、こうした規則が必要であろう。

 では、テレビはどうか。
 テレビ出演者が、不当・違法な発言をした場合に、テレビ局が責任を負うことは、コンセンサスになっていると思われる。訴訟になったときには、その発言の内容や形式にもよるだろうが、発言者だけに責任を負わせることはないはずである。これは書籍の出版における出版社と執筆者の関係と同様である。
 では、テレビ局は、出演者を守る義務・責任があるのだろうか。
 私は、「テラスハウス」という番組は見たことがないので、内容に則していうことはできないが、報道によれば、亡くなった女性と番組での交際相手に、トラブルがあった。どうやら双方にトラブル要因があったようだ。テレビ内で男性を罵った彼女に対する非難が、SNSで広がったということらしい。おそらく、テレビ局としては、この内容が放映されれば、かなりのトラブルに発展することは、十分に理解していたはずである。むしろ、SNS上で騒ぎになれば、それだけ関心が高まって宣伝になると考えていたとしてもおかしくはない。つまり、番組制作上の責任を考えざるをえないできごとだろう。
 いじめによる自殺事件と比較検討してみよう。 
 いじめが原因で子どもが自殺をしたときに、多くの場合、設置管理者である自治体が民事的責任を負う。また、加害者の保護者もその責任の一端を負うことが多い。しかし、指導していた教職員の責任は問われない。また、よほど大きな過失がない限り、指導した担当教員の刑事責任が問われることもない。したがって、行政的処分もないのが普通である。そのことについては議論があるが、私は妥当であると思っている。
 最も大きな責任をもつのは、加害者本人であり、教師に過失があれば、教師が賠償金を払うことは困難だから、管理者が払うことになる。子ども同士のいじめを、教師が防ぐことは、もちろん求められることだが、確実に止めること容易ではない。いじめは教師の見えないところで行われるのが普通であるし、禁止したからといって、隠れたいじめがやむわけでもないからである。そういう性質をもつ「いじめ」に対して、指導責任を個人的に問うことは、私はやはり、適切ではないと考えている。
 では、テレビの場合どうか。ある番組での出演者の極めて不適切な発言や行為という問題と、出演者が放映内容によって、今回のように誹謗中傷された場合とがある。前者は、放映に際して、当然事前のチェックがあるのが普通であるし、また、そうあるべきだと考えられているから、テレビ局の責任があるだろう。とくに、その番組が台本によって、内容が決められている場合には、出演者の責任は問えないのではないだろうか。その点、書籍の執筆者とは異なるはずである。
 最後の、放映内容によって、出演者が精神的攻撃を受けた場合、テレビ局は責任があるのだろうか。これは、管理者の安全配慮義務の範囲なのだろうか。私の考えとしては、安全配慮義務の範囲であるすべきである。いくらリアルタイムの番組とはいえ、本当にライブ配信するわけではなく、録画を編集して放映する。メディアの人間であれば、当然、放映した内容によって、かなり大きなトラブルが生じる可能性があれば、未然に防ぐために、多少編集を変えるか、あるいは、当人と充分に打ち合わせた上で、本人の了解(トラブルがおきる可能性まで含めて)を得て放映すべきものだろう。
 こうしたトラブルが、まさか命にかかわることはないだろうというのは、国際的にみれば、自殺に追い込まれた事例が少数ながらあるわけだから、予測可能性はある。
 以上まとめると
1 SNS運営者は、遺族からの請求があれば、投稿の内容を判断した上で、訴訟上必要である場合に限り、投稿者の実名・住所を開示すべきである。
2 明らかに法に触れる投稿をした場合、被害者からの請求に応じて、個人情報を開示する場合があることを、あらかじめ利用規則に明記すべきである。
3 テレビ局は、トラブルになるような番組を放映する際に、当事者たちの安全配慮義務があり、そのための措置をきちんととるべきである。
 ネットで発言する者は、被害を受けたり、加害者になったりする可能性があることを、充分に自覚して発言する必要があり、インターネットは匿名空間であるという、完全に間違った認識は捨てる必要がある。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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