五十嵐顕氏は、教育費の講義を担当していたため、教育費とは何かを突き詰めて考えていた。そして、教育費が貨幣の形をとることに、つよい拘りをもって、そこから出発していたように思われる。
五十嵐論による教育費の分類は、
・個別分散的
・社会的に組織された教育費
・国家によって組織された教育費
という三つの組織形態によるものである。形としてはすっきりしているが、私は、この分類は、教育費の「教育学的分析」にはあまり有効ではないように、ずっと思ってきた。確かに、そうした分類は、外見的に分かりやすいし、統計的にも処理しやすいに違いない。しかし、形式と量の相違を示すだけで、それが教育にとって、どのような意味をもつかは、明確に示すことができないのではないかと思うのである。
私は、教育費を考えるときに、貨幣の形をとらないところから考察したいと、常々考えてきた。というのは、近代社会以前でも、当然教育は社会のなかに広く存在した。子どもが大人になるためには、近代以前はだいたいにおいて身分社会だから、親の職業を継ぐことになり、その職業に必要な能力・資質を身につけるべく努力をした。通常、それは親や同業者が、仕事をさせながら教えていくのだが、その場合、「教育費」という形は現れない。しかし、仕事をするなかで、教わるのだから、教える行為に対して、仕事という形で支払っているといえる。江戸時代の丁稚奉公などを考えれば、その関係ははっきりしている。10歳そこそこで、商店に丁稚奉公するようになると、給料は支払われず、仕事も簡単なものから始まる。しかし、いかに簡単とはいえ、仕事(奉公)をする。その代わり、生活に必要なものはすべて商店が提供する。つまり、簡単なことを教えること、生活費を提供する代わりに、丁稚はそれなりの仕事をこなしつつ、学んでいくわけである。そして、仕事がほぼ一人前にできるようになると、手代となり、賃金が支払われるようになる。これは、職人的な学びの場合であり、あくまでも、on the job training である。
しかし、文字を必要とする教育は、仕事をやりながら学ぶことはできない。やはり、文字とそれを使った文献を読んだり、文を書いたりすることは、広い意味での「学校」で学ぶ必要がある。日本の江戸時代では、武士は藩校で、それ以外の町民、農民の子どもは寺子屋で学んだ。武士の子弟が藩校で学ぶのは、「義務教育」のようなものだから、藩が費用を捻出し、生徒は無償である。
ところが、庶民が寺子屋に通う場合には、義務ではなく、必要に応じて学ぶのだから、教師に対して謝礼をする。その形は様々だったようだが、必ずしも貨幣の形をとっていたわけではなかった。
この三つの異なる形態
ア 義務教育的な武士の藩校では、藩が費用を負担する。
イ 寺子屋で学ぶ場合には、生徒が教師に謝礼を渡す
ウ 仕事のなかで学ぶ場合には、教えることの対価として労働をする。労働を適切にさせるように指導することが、教育である。
この三つの形態は、現在の国家体制のなかでも、発展した形で継続している。これを教育的に意味づけてみると以下のようになる。
ア 上の場合は武士だが、国民国家になれば、国民が対象となり、いずれも租税から費用が支払われる。これは、その所属団体(藩・幕府・国民国家)が所属員に対して求める能力・資質を培うために、教育を組織する。従って、この教育費は、団体の教育意思を量的に表現したものである。
イ 学ぶ側が、学びたいという意思の下に、教師に謝礼を払って、教育を受ける。自由意志による学習を実現するための教育費である。五十嵐氏は、家庭教師を個別的教育費に分類しているが、王侯貴族が家庭教師で学ぶのと、現在の一般市民が家庭教師をつけるのとでは、その性質はまったく違う。王侯貴族の場合は、アであり、市民はイである。
ウ いわゆる on the job training であって、これは、現在の企業内教育などに引き継がれており、大人が職業教育を受ける際の、ふたつのパターンのひとつである。他には、イに含まれる、自発的にリカレント教育を受けるものがある。
この分類は、教育の目的と教育意思を軸として、そこにかかる費用支払い形態を分類したものである。では、そうした意思は、五十嵐論のなかで、どのように扱われているのかを次にみよう。