五十嵐氏のそれぞれの概念の中身を吟味しよう。
まず個別分散的教育費だ。これは、家庭教師などの支払いが典型であるが、現代でも「授業料」として生きているとする。しかし、授業料は、確かに、個々人が支払うものだが、より背景的なことを考慮すれば、本質的に異なる授業料の種類がある。
ア 家庭教師への支払い
イ 塾への支払い
ウ 義務教育公立学校以外への授業料としての支払い
エ すべての学校において求められる(個別には求められない場合もある)教材費、制服、行事の費用(修学旅行、宿泊行事等)給食費等
オ 習い事の講師への謝礼
アイオは、確かに個別分散的教育費というイメージと合致するが、ウとエは、ほぼ強制的に徴収されるものであって、サービスや物品にかかる税と似た者といってもよい。しかも、それは強制的に買わされるものだから、望まなければサービスを受けることもない塾への支払いなどとは、本質的に異なる。
ヨーロッパでは、義務教育においては、教材費、行事の費用等も公費で賄われていることが多いから、実際の個別的支払いはない。もちろん、エの部分を公費で支出するか、私費として支払われるかは、教育的な効果として相違を生むだろうが、教育費の本質としては、国家が強制的に徴収することにあといえる。
この「教育的な効果としての相違」も重要であり、それが、文字とおり公費(税金)であるか、個別に支払われるかによって、大きな相違を生んだ事例として、教科書無償をあげておきたい。
戦後、義務教育段階の教科書が無償になったのは、1960年代初頭であるが、それまでは、教科書代を家庭で支出していた。それが、検定教科書に限定されているが、小中学校の教科書代は、公費で支出されることになった。そして、そのことによって、教科書の内容も、教科書制度も大きく変わることになった。
・以前は、教科書の選定は各学校の教員が行なっていた。以降は、いくつかの市町村単位で協議会を設置し、選ばれた教師が選定し、その市町村内部では、共通の教科書が使われるようになった。
・広域で共通の教科書が使われることになって、小さな出版社の教科書は、採択される可能性が著しく低下し、大手出版社のみが、教科書を作成する主体として残った。現在では、一教科につき、数社のみが教科書を発行している。
・採択制度がかわったことによって、現場の教師たちにとって、教科書は決まったものが渡されるものになり、どの教科書がよいかと複数の教科書をチェックするような意識、行為は、ほとんど消えてしまった。教科書に対する教師の主体性がほぼ喪失したといえる。
教科書選定については、外国とも比較しておく必要がある。典型的にはオランダだが、教科書代は公費であるが、選定は学校が自由に行い、生徒たちには無償配布される。オランダは「教育の自由」が憲法で保障されており、決められた大綱的基準の範囲内で、教育内容も教科書も自由に、学校で決めることができる。
他の事例では、アメリカの多くの義務教育学校では、教科書は多くが学校に所属し、数年間同一の教科書を使用する。つまり、生徒には貸与される形だ。毎年生徒に配布されるのではないため、厚くりっぱな装丁の教科書が多い。
個別分散的な教育費という範疇にふさわしいかは、検討の余地があるが、「支払われない教育費」も確実に存在している。代表的には、日本の中学や高校の部活の指導に対してである。最近は、ごくわずかな謝礼金が公費で支出されることもあるが、それは指導内容や時間を考慮すれば、十分なものとは到底いえないし、支払われない場合のほうが圧倒的に多い。教師の過重労働は、既に常識的に認識されているが、そうした過重労働分は、ほとんど支払われていないと考えてよい。
地域のスポーツクラブで、ボランティアのコーチが、無償で指導する場合もある。外的には部活の顧問の指導と、スポーツクラブでのボランティアコーチとは、同じに見えるかも知れないが、実際には、大きな違いがある。教師の部活顧問は、多くが義務、割り当てとして強制的に課されるもので、明確に不当な無償労働の押しつけになっている。
デンマークの自由時間法について、触れないわけにはいかない。
自由時間法とは、成人が自発的に集団で何かを学び、そこに講師を呼ぶ場合、その学習にかかる費用(施設代等も含めて)を公費で援助する制度である。援助割合は年々低下しているようだが、制度としては生きている。これは、義務でもなく、まったくの自由意思で行なう学習活動を、公的に補助することだから、日本における公費に対する感覚とはかなり異なっている。
五十嵐氏の個別分散的教育費を検討したが、単に支払い形態だけではなく、自由意思、費用の対象・内容との結合状況が検討される必要があることが、理解できるだろう。(次回は社会的に組織された教育費について考察する。)