読書ノート『平蔵の首』逢坂剛

 題名でわかるように、長谷川平蔵を主人公にした小説である。県立図書館で、何か面白そうな本はないかと探しているときに、大活字本シリーズがあり、この本を見つけた。大きな活字で印刷されているので、私には非常に読みやすくて、一気に上下2冊を読んでしまった。巻末に佐々木譲氏との対談か掲載されており、それによると、長谷川平蔵を主人公にする小説を依頼され、引き受けるにはかなりの決意が必要で、しかも、書き始めてからも、苦労が多かった。池波正太郎の『鬼平犯科帳』が絶対的人気を誇っており、そこで長谷川平蔵のイメージが形成されている。しかも、人気ドラマシリーズもある。その池波版長谷川平蔵とは違うように書かねばならないということで、苦労があったということだ。
 長谷川平蔵は実在の人物であり、記録をそれなりにある。そうした歴史的事実をまげることは許されない。実は池波氏は、いくつか細かい点で、歴史的事実をまげて書いている。それを事実に戻すことで、池波版とは違う平蔵を描くことはできる。

 そういう点で、最初に気付いたことは、
1 池波氏は、火付盗賊改方の役宅として、清水門外に存在していることにしており、私邸が目白にあるとする。しかし、事実は、私邸は、父親から継続して、本所にあったし、そこを役宅としても使っていた。それを逢坂氏は、史実に戻している。
2 確実なことはわからないが、池波版の平蔵は、剣術の名手で、みずから部下を引き連れて、盗賊の現場に乗り込み、先頭に立って剣を振るったことになっている。これは、いかにもドラマ化しやすいようにそうしたのだろうが、実際に逮捕する現場には、長官ではなく、与力が指揮官として出向いているのが、ほとんどの捕り物である。平蔵は、祿高は低いとしても、旗本であり、殿様といわれる存在だ。自ら切り合いをしたり、そうした剣術を習ったりすることは考えられない。
 逢坂氏は、逮捕に平蔵が出向くが、すべての場面で、影武者を平蔵にしたてており、剣術に優れた与力を中心に、平蔵を演じさせている。つまり、剣術には自信がないわけだ。だが、こちらのほうが真実味がある。
 
 どちらも、史実かどうかはわからないが、密偵たちの扱いに大きな違いをみせている。池波版では、密偵の役割は、あくまでも外からの探索であり、盗賊の一味を尾行して居所を突き止める、あるいは案内役が任務になっている。しかし、逢坂版では、密偵たちは、盗賊の仲間に入り込んで、内部からの情報収集活動を行う。現代のスパイのイメージだ。
 長谷川平蔵が、密偵を効果的に使って、盗賊たちの検挙率をあげていたことは、事実といわれている。そのためには、当然資金が必要だ。密偵たちは、役人ではないからは、別途手当てを与えなければならない。池波版では、平蔵が私財を売って、手当てを調達しており、かなり財産があったのには、すっかり貧乏になってしまったと描いている。ところが、逢坂氏は、裕福な名主や豪商に、たかりに近いかたちで金銭をださせているように書いている。研究者によれば、平蔵は、貨幣の相場操作によって、かなりの利益をだしていて、それを資金にしていたという側面もあったらしい。池波氏の平蔵は、とにかく、人情派であり、人から後ろ指をさされるようなところはないが、逢坂氏は、もっとハードに描いている。もちろん、長谷川平蔵の下した判決は、当時の常識よりは、軽いものになっており、そのため人情派として人気があったとされているから、逢坂氏も、最終的には、人情味溢れる結末にもっていっている。
 
 歴史上実在の人物を描くのは、事実と創造の兼ね合いが難しいのだろう。信長や家康のように、相当の記録があり、事実としてわかっていることが大きい人は、創造といっても、かなり範囲が狭いが、長谷川平蔵のように、記録はあっても少なく、また、学校の授業で教わるほどき有名さはない場合は、かなり創造の範囲が広がる。しかし、池波氏の小説によって、イメージができてしまっているような場合、創造の範囲を広げるのは、リスクも伴うに違いない。
 宮本武蔵を描くとしたら、どうなるのだろうと考えてしまった。武蔵は、確かに実在の人物だから、実像はあまり知られておらず、日本人がいだく武蔵像は、ほぼ吉川英治の小説とそのドラマ化によって形成されている。それを崩しつつ、しかし、国民に受け入れられる武蔵像を創造するのは、非常に難しいような気がする。本当の武蔵が、どういう人物だったのかは、ほとんど知られていないのだから、創造の余地はたくさんあるのだが。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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