政権復帰前後には、女性の権利を守ると宣言していたタリバンが、既にその公約を裏切っている。ヒジャブを強制しているし、教育も制限しつつある。中等教育機関では、女子生徒の登校が禁じられて、自宅待機になっていたが、更に、女性が大学に通うことを認めない方針を打ち出した。
そうしたときに、必ずもちだされるのが、イスラム法に規定されているとか、クルアーンの精神などといわれている。しかし、イスラム教徒であり、イスラムの専門家も、女性は教育を受けることはゆるされない、などという教えや法は、イスラムにはないと語っている。また、パキスタンのイムラン・カーン首相は、「女性は教育を受けるべきではないという考えは、イスラム教にはない。宗教とは無関係だ」とインタビューで語っている。
しかし、イスラム教国家やイスラム教徒が、一般的に教育に不熱心なわけではないし、また女子も含めた教育を確立している国もある。例えば、インドネシアでは、20世紀初頭から、女子教育を進める学校が登場し、従来、宗教しか教えなかった教育機関を変え、普通科目を教えるカリキュラムを創出してきた。(「女子イスラムー教育における「近代性」の創出と展開--インドネシア・西スマトラ州のケース・スタディ」服部美奈 『比較教育学研究21号-1995)
また、ヨーロッパで宗教学校の成立を認めている国家では、イスラム教学校が設立されている。特に、オランダでは、義務教育段階でのイスラム学校は定着しており、女性のイスラム教徒が大学に進学することは、珍しくない。
私は専門家ではないので、さすがにイスラム法の文献を調べることはできないが、クルーンは翻訳が出ているので、調べてみた。
もちろん、近代的な学校などは存在しない社会と時代の文章だから、女性に限らず、男性についても教育についての教えなどはまったく出てこない。唯一出てくるのは、イスラムの勉強についてである。
そして、女性については、かなり頻繁に話題が出てくる。「女」と題された章まである。基本的には、男性優位の価値観だが、女性を不当に扱ってはならないことは、何度も強調されているし、女性の相続権も認めている。しかし、「女というものは汝らの耕作地。だから、どうでも好きなように自分の畑に手をつけるがよい。ただ己れ自らの先々のためになるように行動するのだぞ。」という文言があり、恣意的に解釈したら、女性の教育など否定しても、先々のためと考えれば容認される、というような、こじつけをすることもできるかも知れない。
しかし、それはやはり、こじつけというべきだろう。
軽々しく決め付けるわけにはいかないが、宗教的な原理主義は、しばしば、聖典を厳格に解釈するのだ、と主張するが、極めて恣意的な解釈になっていることがある。例えば、エホバの証人は、聖書は輸血を認めていないと主張して、家族がどうしても輸血が必要である場合でも、輸血を拒否して、手術をすれば助かった家族を死なせてしまうことがあった。オウムも一種の仏教原理主義ともいえるが、多くの人の仏教へのイメージとは、似ても似つかぬ教えと行動だった。
優れた宗教は、時代の変化と進歩に従って、具体的な指針を社会に適合させていくことができるといえる。つまり、普遍的な考えを基礎にしているから可能なのだろう。当然、変化していけば、もともとの聖典の一字一句を不変のものとして受け取る動きがでてくるのも自然なことだ。だが、文章はどうしてもあいまいなものだから、聖典の教えと称しつつ、歪んだ考えを入り込ませることが、しばしば起こる。エホバの証人の輸血拒否などは、その典型だが、タリバンの女性に教育は必要ない、というのも、その一種だろう。しかし、それはクルアーンの提示する教えの、より基本的な部分、若干の優位を男性に認めるにせよ、基本的な価値そのものは、男女平等のものとして扱われている原理に反している。
イスラム教の教えとしても、女性の教育を制限するものではないという、イスラム学者の説こそが正しいと考える。タリバンの政策から、イスラム教を誤解することのほうが、マイナス面が大きい。しかし、タリバンのこうした政策については、イスラム世界から批判が寄せられてしかるべきだといつも思う。