教師に過重労働を強いている要素として、たくさんの調査と報告書の作成がある。文科省や教育委員会からもたらされるそうした調査と報告は、拒否することは難しい。管理職が処理すれば、教師の労働がそれによって過重になることはないだろうが、多くが個々の教師に課され、報告書の作成も負わされる。教育実践に役に立つ調査であれば無駄ではないだろうが、単に行政的な観点からの調査などは、時間の浪費以外の何物でもない。特に、年3回義務つけられている「いじめアンケート」は、前後の検討も含めて、大きな負担を強いているだけではなく、いじめ対応を逆に難しくしてしまう側面もある。
いじめ問題が、現在の日本の学校教育における最大の問題のひとつであることは、多くの人が認めるところだろう。学校に子どもを通わせている親は、自分の子どもがいじめられていないか、あるいは、いじめの加害者になっていないかを、不安に思っているに違いない。いじめによる自殺という、取り返しのつかない悲劇も引き起こす。いじめは、学校に限らず、また現代社会に限らず、どんな人間社会にも存在していただろうが、今の日本で起きているいじめ問題の深刻さは、例をみないといってもよいのである。
1960年代までは、いじめはそれほど大きな社会問題とは考えられていなかった。深刻な事件などもほとんど起きていなかったからである。正確なデータがないのだが、1970年代に、被害者が加害者に復讐して殺害する事件が複数起きた。それによって、いじめの深刻さを世間は知ったのである。しかし、いじめの深刻さを突きつけたのは、被害者の自殺であった。1979年に起きた埼玉県の自殺事件で、朝鮮人差別が原因であったこと、ほとんどクラス全員によるいじめであるばかりではなく、中学では担任教師も加担していたことが明らかにされ、いじめの構造的深刻さが示されたのである。この事件が起きた市では、民族差別を無くす教育を推進したが、その後全国で、年数件のいじめによる自殺事件が起きていった。
特に話題となったのは、「葬式ごっこ」で知られるようになった中野区の事例、スクールカウンセラー設置のきっけかとなった愛知県の事例、そして、「いじめ防止対策推進法」の成立のきっかけとなった大津市の事例など、大きく話題となる事例が発生することを機会に、いじめに対する対策がこうじられるようになってきた。
現在年3回行うことが義務付けられている「いじめアンケート」は、大津でのいじめによる中学生の自殺がきっかけになっている。自治体や学校独自のアンケートが更に行われている場合もある。いじめが原因とみられる自殺があると、必ずこのアンケートが話題になる。しかし、法ができて、アンケートが実施されるようになって、いじめによる深刻な事態は減ったのだろうか。正確な数値は、誰にもわからないはずであるが、報道などで知るかぎり、むしろ増えていると思わざるをえない。
文部科学省や教育委員会等の教育行政が進めている、いじめ防止の施策は、私には、効果がないだけではなく、むしろマイナスだと思わざるをえない。
いじめアンケートは、要らないのではないか、かえってマイナスなのではないかと、「教育学」の講義で、学生たちに問いかけてみたことがある。実際にアンケートを書いてきた人たちだから、非常に参考になる意見がでてきたし、私もいくつか考えなおすきっかけになった。
議論をしたきっかけは、千葉県野田市で小学生の女子が、父親の暴力的虐待によって死亡した事件である。その子が、アンケートに父親からの暴力的いじめを受けている、なんとかしてほしいと書いた。学校は児童福祉施設に対応を求め、対策がとられたが、その過程で、父親がアンケートを見せろと学校に要求、学校が拒否すると、教育委員会にかけあい、訴訟恫喝もあって、教育委員会が父親にアンケートを見せてしまった。その後、父親はアンケートは本当ではないという文章を娘に書かせ、娘をひきとっていき、学校には登校させないまま、死に至らしめている。
学生との討論
私がアンケートにネガティブな意見をもっているのは、第一に、年3回もやっていると、子どもたちはどうしても、まじめに書かなくなると思うからである。大学の授業評価アンケートなどもそうだ。
第二に、アンケートは、子どもの教師に対する不信感を前提にした手法だからである。いじめの解決には、子どもと教師の間に信頼関係がきちんと成立していることが、絶対的な条件である。信頼関係がなければ、誰かがいじめられても、誰も教師に情報をもたらさないだろうし、また、教師がいじめを知ったとしても、有効な解決策をとれるかどうか疑問である。そして、加害者が教師にいろいろといわれても、それを受け入れない可能性が高い。逆に、信頼関係があれば、被害者なり、あるいは友人が教師に報告し、また加害者も教師のいうことを聞くだろう。つまり、アンケートなどなくても、信頼関係があれば、いじめ問題の解決は可能で、信頼関係がなければ、アンケートで知ったとしても、解決困難なのて ある。したがって、子どもと教師の信頼関係を築くために、何が必要で、信頼関係を壊さないために、何が必要なのか、行政当局は、真剣にそのことを考える必要がある。
第三に、教師の対応能力への不信感と、対応能力形成への無策が前提になっていることである。
いじめは教師が見ていないところで行われるものだが、教師が普段から子どものことをよく見ていれば、いじめられている子どもは、必ずどこか様子に現れるはずである。それを見逃さない観察力が、教師に必要なのであって、それがあれば、アンケートなどはいらない。むしろ、アンケートに頼ることによって、子どもたちの様子を見逃してしまう危険性もある。また、年に何度も書くことによって、子どもたちは、どうしてもめんどくさいという感じになり、真剣に書かなくなる。教師の対応能力を阻害している最大の要因は、教師があまりに忙しすぎることなのだから、こうしたアンケートが、教師の事務を増やし、ますます対応能力を阻害していることになる。
このように、制度化されたいじめアンケートは、欠点が非常に多いものである。もちろん教師が直接子どもの様子から把握できない場合もあるだろうから、様々な「知らせる」チャンネルが必要であることはいうまでもない。電話、メール、ボックス、手紙、直接いいにいく、等々があることを、定期的に知らせ、その扱いをきちんと明確にしておくことで、アンケートの積極的な役割を果たすし、また、ルーチンワーク化することもない。
このようなことを授業で話し合ったところ、それでもアンケートには意味があるという学生が少なからずいた。それは、自分たちは、普段はいじめについて、じっくり考えていたわけではないが、アンケートをされると、自分が加害者でも、被害者でもない場合でも、このクラスにいじめはないかを真剣に考えるきっかけにはなったというのである。アンケートなどなくても、担任教師は、いじめについて考えさせるきっかけを、定期的に与える必要があるかとは思うが、実際には、それがない以上、こうしたアンケートは、義務的に必ず行われるわけだから、有効な場合があるのだということだろう。私も、なるほどと納得した面もある。しかし、その場合でもやはり年1回だろう。