読書ノート『江戸雑記帳』村上元三 史実と創作

 歴史小説には、歴史の中心舞台を素材するものと、表舞台には出てこない市井のできごとを中心にするものとがある。司馬遼太郎の小説は、前者の典型で、有名な歴史的事実を扱うので、重要な筋として、自由な創作をすることはできない。しかし、後者は、むしろ創作部分が主体となる。もちろん、一方のみの作品を書き続ける作家は、おそらくほとんどなく、両方を扱っているひとがほとんどだろう。
 史実と創作をどのようにバランスさせるかについては、森鴎外の「歴史其儘と歴史離れ」で扱われて以来、様々な作家が自分の場合を扱っているが、村上元三氏のこの本は、創作への読者の意外な反応も書かれていて、興味深く読めた。

 村上元三の小説は、実は読んだことがないのだが、図書館に『江戸雑記帳』があったので、読んでみた。江戸時代の大名、旗本や御家人、庶民たちの生活の実態が書かれていて、なるほどと思われることが、多々あった。ただ、それよりも、事実を中心にせざるをえない小説でも、細かいところは、いろいろと創作して工夫する、その具体的な事例を、いくつか書かれていて、それが非常に興味深かった。
 「水戸黄門」という小説のなかに、純粋に創作した人物として、石那喜左衛門という浪人を設定し、その子の喜平次が黄門の家来になるようにした。浪人の子どものままではまずいので、水戸家の養子にして、中村紋四郎という名前にした。当時の水戸家の家来にはないことを確認したという。ところが、比較的低い身分に設定していたところ、中村紋四郎の子孫と名乗るひとから手紙がきて、紋四郎は家老だった、そんな低い身分ではない、どういうことか、という趣旨だったそうだ。更に、紋四郎の養子に中村喜平次を創作していたところ、その子孫からも手紙がきたというのだ。改めて調べても、その名の家臣はいなかったようなので、村上氏はずいぶん困ったそうだ。
 
 ただ、水戸藩の武士、しかも、光圀は17世紀の人物だから、300年も前の藩士の子孫を、現代のひとがきちんと受け継いでいるのだろうか。もちろん、かなり身分の高いひとであれば、家系図なども継承されることはあるだろうが。私の妻の家系は、ある外様の大藩の家老職だったそうだが、実際にどういう人物がいたのか、正確にはわかっていないようだ。私の先祖は、まったくの庶民そのものなので、祖父母までしかわかない。
 また、たまたま自分の先祖の家系がわかっていたとしても、小説に創作の人物が出てくるのを知るのも、それほど確実なことではない。実際に、中村紋四郎という人物がいたとしても、それはたくさんいる先祖の一人に過ぎないわけで、村上氏の「水戸黄門」を読んだとしても、直ぐに、家系のなかにそういう名前があったことを、思い出すというのも、私には驚きだ。
 手紙の主の創作ということはないのだろうか。
 
 文学の創作なのに、現実に記念碑が作られることがある。ヴェルディが作曲した「リゴレット」は、原作がビクトル・ユーゴーで、「王は愉しむ」というあるフランス王をモデルにした物語である。内容が王への不敬という要素があるので、ヴェルディの作曲になかなか許可がおりず、結局、イタリアの架空の貴族と道化の話にしたてあげて、やっと上演することができた。しかし、イタリアには、リゴレットの館というのがあるそうだ。日本でいえば、尾崎紅葉の金色夜叉に出てくる貫一・お宮の像が熱海にたてられている。
 
 この手の豆知識がたくさん出てくる書物を読んでいると、それまでの勘違いに気付かされることがある。『江戸雑記帳』という本であるのに、江戸と無関係なこともたくさん出てくる。多いのが、義経の話題だ。義経に関する小説も書いているからだが、頼朝に追われながら、京都から奥州まで逃げていく道筋は、いまでも論争の種になっている。しかし、北陸を通っていったことは、ほぼ間違いないと考えられている。そこで、「裏日本」を逃げた、という表現が、現代の日本人には、自然に出てくるのだが、村上氏は、当時は日本海こそが、「表日本」だったのだと書いている。ああ、そうだったと、思った。確かに、日本の文化は、戦国時代以前は、すべて大陸と朝鮮半島からやってきたのであって、当然日本海側が玄関だった。そして、対馬や隠岐、佐渡などが中継地点だった。長らく政治の中心となった京都でも、日本海のほうが、近かったといえる。
 太平洋側が「表」になったのは、いつからなのだろう。日本国語大辞典によれば、「表日本」という言葉の所出は昭和5年、裏日本は昭和8年である。単純にはいえないが、言葉の使い方からみれは、表日本、裏日本という意識は昭和にはいってからのものということになる。
 江戸時代は、海運が発達したが、日本海の海路も重要だったから、海の意識として、太平洋が表という意識は、薄かったに違いない。もちろん、江戸や大阪が太平洋側だから、政治の中心が太平洋がわに移ったことは事実だが、それでも、はっきりと海の表・裏が意識されだしたのは、開国以来なのかも知れない。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

「読書ノート『江戸雑記帳』村上元三 史実と創作」への2件のフィードバック

  1. 実在の中村紋四郎は、元大垣藩士で徳川光圀に彰考館に招かれた儒臣です。
    彰考館では、本朝文集の編纂責任者でした。その後、徳川綱條の世嗣の吉孚
    の傅役になります。
    二代目は、徳川宗翰の側用人となり与一左衛門の名を賜ります。
    その後、家督相続する前は紋四郎で、当主になると与一左衛門になります。
    四代目は、徳川斉昭が藩主になったとき家老となり、家老を10年間勤めます。
    ※斉昭の命で家老退隠
    私は、愛知県在住の遠縁の者です。このような偶然があるとは不思議なものです。

  2. コメント、ありがとうございます。なるほどなあ、と思いました。儒臣として招かれたということは、通常の家臣ではなかったために、家臣名簿になかったということなのでしょうか。あるいは、当主になって、名前がかわるので、村上氏が見いだせなかったということなのでしょうか。こういうことを知ると、本当に歴史の面白さを感じます。

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