昨年、この本を手にとって読み始めたとしても、直ぐにやめてしまったに違いない。尤も、今だからこそ、この本の存在を知り、読みたいと思ったのであり、昨年なら手にとることもなかった。実際に、昨年はこの本はおろか、著者すらまったく知らなかった。
『ウクライナ日記』の作者であり、現在でもキエフで作家活動をしているクルコフの、最初に有名になった小説がこの『ペンギンの憂鬱』である。
舞台は1990年代のソ連崩壊後のウクライナ首都キエフである。
主人公は売れない小説家のヴィクトルで、動物園からもらったペンギンと一緒に住んでいる。同居者がペンギンというのが、とにかくユニークだ。そして、ヴィクトルと関係をもつ人間が、少しずつ入れ代わったいくのだが、彼らは何か背景があることを感じさせる。
まず、「首都報知」の編集長から、死亡記事を専門に書くように依頼される。しかも、すべて予定原稿であり、資料を渡されて、死後掲載する原稿を執筆するという、不可思議な仕事である。新聞社というか、おそらく編集長の都合で、時折中断はあるが、最後までこの仕事を続けている。
他方で、ヴィクトルの家庭生活が縦軸となっている。最初はペンギンのミーシャだけだったが、そのうち編集部のミーシャが、娘のソーニャを預かってくれとヴィクトルに依頼し、多額のお金を渡して、どこかに行ってしまう。結局ミーシャがその後どうなったかは、分からないままだ。
友人の警察官であるセルゲイが、ソーニャのベビーシッターとして、姪のニーナを紹介し、ニーニャの面倒を見るために、毎日ヴィクトルの家にやってくるようになる。やがて、セルゲイは、モスクワに仕事でいくことになる。ニーナはそのうちヴィクトルと同棲を始めることになり、3人とペンギンはしばらくは、落ち着いた家庭ごっこを営むが、やがてセルゲイの遺骨が突然送りつけられる。編集長もときどき、どこかに避難するように雲隠れしてしまう。
そのうち、リョーシャなる人物が現れ、葬式に出てくれとヴィクトルに頼むが、実はペンギンが重要なのだという。葬儀にペンギンを借りたいといい、1000ドルも払ってくれる。死亡記事の執筆で月300ドルだから、複雑な気持ちになり、そのうちペンギンだけが出かけていく。リョーシャが送り迎えするわけだ。ペンギンが病気になり、入院させることになるが、そのころ、ヴィトルをさぐっている人物がいることがわかり、後をつけていくと、彼は、ヴィクトルの死亡記事を書いていたことがわかり、自分が狙われていることを知り、家出をしてしまう。
何人もの人が死んでしまうし、主人公のヴィクトルも自ら死地に赴いたような書き方で終わる。もちろん、そうなったかどうかはわからないし、匿ってもらうということなのかも知れない。背後で動いている勢力は、まったく分からないように書かれている。
ペンギンを治療してくれる医者が、次々と紹介を経て変わっていき、15000ドルもの費用で手術が行われる。ヴィクトルは、リョーシャに貸すことが嫌になり、南極越冬隊に頼んで南極に戻そうとする。そして、家出の末、ペンギンを預ける越冬隊事務所にいき、「ペンギンは連れてきましたか?」と問われ、「私がペンギンです」というと、「いきましょう。もう積み込んでいるところですから」という文章で終わるのである。
すべて自分を殺害するために仕組まれた「葬儀、ペンギンの手術、越冬隊」であるとヴィクトルが解釈して、ソーニャやニーナに害が及ばないように、自ら死地に赴いたと解釈できるが、そうではないかも知れない。
この小説の根幹は、平和な日常の家庭生活が少しずつ膨らんでいく一方、影の不気味な動きが、現れては消えていく、そして、最終的に主人公にまでそれが及んでしまう。このまったく逆の世界が、同時進行し、その結節点にペンギンがいるという点だ。そして、様々な、ときには敵対的な関係にある人も多数登場するが、すべてペンギンには好意的に接し、癒される。だが、主要な登場人物たちは、男だけなのだが、常に不安にかられている。ヴィクトルも、自分の書いている死亡記事が、単に有名人物だから予定原稿を書いているというだけではなく、そこに政治的なアピールが含まれていることを感じており、だからこそ、ときどき編集長が雲隠れしてしまう。何度か辞めようかと思うが、唯一の生活の糧を得る手段だから、ずるずると続けていく。そして、最後には、記事で恨まれたらしいという暗示が与えられることになる。
不安に囲まれながらも、図太く生きなければならない、当時のウクライナの様子がよくわかるが、現在のウクライナの状況を考えると、困難のなか生き抜く姿勢、あるいはそうせざるをえない運命を、受けてたたざるをえない行動は、ずっとウクライナでは続いていたのだとわかる。しかもヴィクトルは、大人物ではなく、自分の原稿はまずいのではないか、やめたほうがいいかも知れない、と思いつつ、生活のためにずるずると引きずってしまう、ごく普通の人間である。だから、やはりあのとき、原稿書きをやめておけばよかったのに、とか、ペンギンが病気になったときに、大金をだして入院させることもなかったのに、などといろいろと考える場面がたくさんあることも、こき小説の魅力かも知れない。ペンギンは心臓を悪くしており、心臓移植手術が必要だと告げられ、しかも、小さな人間の子どもの心臓を使うのだ、などという、荒唐無稽なことが、医師からヴィクトルに告げられる。自分の死亡記事を見せられたとき、逃げる意思も捨てたのだろうか。
ウクライナのひとたちは、独立後ずっとこのような社会的な不安定のなかで生活したきたのだといえる。政治は汚職にまみれ、マフィアが暗躍する。やがて、欧米派と親ロシア派が激しく対立し、内乱、そして、戦争になってしまう。おそらく、ほとんどのウクライナ人は、そのなかでもなんとか生きてきたのだろう。ロシアによるウクライナ侵略戦争を、今年の2月からの事態と見るのではなく、ずっと以前から続いている社会的混乱、そして、結局はこの戦争に至る源ともいえる、当時のウクライナ社会を理解させてくれる小説である。