昨日(12月14日)は、いわゆる忠臣蔵で討ち入りを実行した日だ。最近は、この日にちなんで話題となることもほとんどないようだが、私が子どものころは、まだ東映の時代劇全盛時代で、毎年正月映画は、忠臣蔵と決まっていた。毎年、内容が大きく変わるわけもないが、ただ俳優か変わるので、今年の大石蔵之助は誰がやるのか、などという話題で、けっこう盛り上がっていた。私は、片岡千恵蔵の大石しか記憶にはないのだが。小学生のころは、ほぼ毎年新年に、近くの三軒茶屋の映画館に見にいっていた。
忠臣蔵というのは、実際に起きた赤穂浪士による復讐劇にを因んだ芝居の題名だ。最近はいささか事情が違っているだろうが、日本人にとっては最も有名な歴史の一コマだった。題名が示すように、主君が切腹になった無念を晴らすために、浪人となった家臣たちが、苦労の末、敵討ちを果たすという、「忠臣」の物語である。しかし、史実を含めて、その解釈についても、見解が分かれており、実際のところはわかっていないことが多い。
そして、最大の謎は、なんといっても、大名である浅野長矩が、何故吉良義央に、江戸城中で切りつけたのかというその理由だ。塩田を巡るトラブルとか、作法の教授について吉良に嫌がらせをされた、とか、いろいろと言われているが、もちろん、浅野は詳しく語ることなく、切腹してしまったので、真相はわからない。
それが、最近、youtubeの歴史もので人気の小名木義行氏が、新説を述べているのが気になった。氏によると、これは、朝廷(天皇)の権威を重んじる浅野と、幕府(将軍)を重んじる吉良との「作法」を巡る論争が原因であり、浅野からみて、吉良は天皇に対する冒瀆的な姿勢をもっていたのが許せなかった、ということから、吉良に切りかかったという説を唱えている。
有名な史実として、山鹿素行が赤穂藩に招かれて、家臣たちに講義をしたことがあるわけだが、その際に、天皇中心の考えを説き、浅野は、その考えを受け入れて、京都からきた勅使を接待すべきと、吉良に主張し、その考えが受け入れられず切りつけた。そして、一歩的に悪いと判定されて、切腹させられた君主の意思を継いで、浪士たちが吉良を討ったという解釈である。だからこそ、山鹿流陣太鼓をならしつつ、討ち入りを行ったという。
そのような説は、はじめて聞いたので、いろいろと調べてみたが、こうした説は、氏の他は誰も唱えていないらしい。更に、山鹿素行と赤穂藩の関係も調べてみると、山鹿素行が赤穂にいったのは、(招待されていったのと、幕府の嫌疑を受けて預かり、つまり幽閉のために贈られたのと2回)刃傷事件のはるか以前のことであり、かつ、山鹿は赤穂藩に対して、あまり好感をもたず、むしろ批判的だったとされる。しかも、尊王論の立場になどはたっていなかったようだ。更に、赤穂浪士が、討ち入りの際に、山鹿流陣太鼓をならしたというのは、事実ではないらしい。
調べるほど、小名木氏の説は荒唐無稽に思われてくる。江戸時代の儒者の世界で、山鹿素行の時代に、天皇尊重の勤皇論などは、ほとんどなかったはずであるし、とくに山鹿はそうではなかったようだから、浅野長矩が勅使を将軍の上座に据えるべきなどと主張するのも、なんともありえない話のように思われる。
最近低調な忠臣蔵話題を、活発にしたいという思惑でもあるのだろうか。
忠臣蔵が、あまり話題にならないようになったのは、歴史の構成があるべき姿に落ち着きつつある証拠ともいえる。一人の老人を、50人近い集団で襲うなどというのは、現代風にいえば、テロそのものだ。テロに対する闘いこそ必要、正当という風潮からみれば、忠臣蔵などは、テロ礼賛の話ではないか、ということになっているのかも知れない。徳川の世を、この事件が大きく変化させたわけでもない。江戸城の刃傷沙汰でも、田沼意次の息子が切られた事件のほうが、幕府の勢力関係を変える要因となった大きな事件であった。