「【独占告白】長野市公園廃止問題の名誉教授が180分にわたって反論 近隣住民に「あなたとは次元が違う」とも」という記事が、デイリー新潮に掲載された。「週刊新潮」に掲載予定の現行のダイジェストのような記事だが、多数のコメントがついており、再度書く必要を感じた。
記事は、クレームをつけた人への非難的色彩が強い。
・騒音被害を訴えていた人物は、国立大学の工学の専門家で名誉教授だとした上で、ある住民が「私も設計家で工学系です」と言うと「あなたと次元が違います」と答えたという例を紹介しつつ、更にその住民に「世間話ができない人。親しい家はない」と語った。
・大学退職後、こんなにうるさいと気付いたと、一年前のことのように書いたすぐあとに、実は夫人が長年苦情を申し立ててきたと説明している。
・名誉教授は、ボール遊びでうるさいときには、ルールを定めた看板のところに連れていって注意した。(ボール遊びはしてはいけない、と書かれている写真掲載)
・夫人は、18年間耐えてきたのは、自分だけで、5人ずつ遊ばせてはどうかと提案したが、できるわけないと言われた。
そして、夫婦は陰湿な嫌がらせを受けていると結んでいる。
コメントは、行政の対応を批判しているものが多かったが、夫婦に対しては賛否両論あるという感じだ。
もし、夫婦が嫌がらせを受けているとしたら、残念なことだ。50人もの子どもが大声をだして遊んでいたら、近所の人がうるさいと思うのは自然のことであり、対応を求めるのも当然だろう。だから、廃止が適切ともいえないが。
以前から感じていたし、ヨーロッパに住んでみて、日本は、騒音社会だということを、まず肝に銘じておく必要がある。
ごく最近は、コロナの影響もあるのか、多少違ってきているかも知れないが、学校は、非常に騒音をだす組織である。オランダに住んでいたときに、まわりに学校はたくさんあったが、騒音を出していると感じたことはなかった。そもそも、オランダのほとんどの学校には、日本のような校庭はないから、校庭でたくさんの生徒たちがでて遊ぶことはない。更に、スピーカーを使って校内放送をすることもない。
こうしたことは日本の学校では普通であり、更に、学校では、特に教師の多くは大きな声でしゃべる。人数が多いことも要因のひとつだろうが、大きな声で話すことは、教師の必要条件だと思われているかのようだ。
日本では、特に若者が、バイクの音を殊更に大きくして走り回ることがある。夜に集団で、そうしたバイクを乗り回す音が聞こえる地域も少なくないだろう。
さすがに最近は少なくなったが、カラオケ設備をもった店では、外にかなりの騒音をだすような営業をしている店があった。
年配の人は、ピアノ殺人事件を覚えている人もいるだろうが、実は、騒音が原因となった殺傷事件は、毎年のように起きているのだ。つまり、「音」は、人によって受け取りが異なり、ある人たちには快適に聞こえる音が、他の人には、不快な騒音にしか聞こえないことは、よくあることだ。そして、不快な風景に対して、目をつぶって見ないことが可能だが、音は耳を塞いで聞かないというわけにはいかない。耳栓をする方法もあるが、それは別の面で生活に支障がある。匂いは慣れやすいが、嫌いな音は、ますます不快感を増長させるのだ。
こうした騒音に対する人間の感覚については、こうした問題を考えるときに、忘れてはならない。
廃止が決まったあと、テレビの取材に、現地のひとたちが答えていたが、多くの若いひとたちが、子どもが思いっきり声を出して遊べる環境は大事だ、と廃止を残念がる発言をしていた。18年も問題にされていたのだから、廃止しないでほしいという声を行政に対してあげておくべきだったと思うが、ここでは、そもそも、件の公園では、また、日本の一般的な公園で、子どもたちが、思い切り声をだして、エネルギーを発散させるような運動ができるのかといえば、実は禁止事項が多くて、そうした遊びは不可能になっているのが実情ではないだろうか。ボール遊びを禁止している公園は普通だし、走りまわることも、かなり難しいのではないだろうか。
結局、公園のあり方そのものを変える必要があることは、前回書いたが、それは早急にはできないから、当面可能なことを、当事者たちが、負担を分け合うかたちでの解決を図るしかないのではなかろうか。