指揮者の晩年2

 チェリビダッケは、晩年はミュンヘンに落ち着いて、尊敬され、満ち足りた晩年を送ったように思われているが、本当にそうだったのだろうか。私にはどうもそう思えないのだ。本当に満ち足りた生活を送っていれば、同僚の、しかも世の中で大いに尊敬されている指揮者たちの悪口を、さんざんに言い立てるようなことはしないのではなかろうか。カラヤンやアバドなど、まったく無能扱いだ。クライバーが、天国のトスカニーニによる反論という形で、チェリビダッケへの反論をし、カラヤンを擁護したことは有名だ。たまたまその号のSpiegelをもっているので、大切にしている。チェリビダッケは、ドイツの大指揮者たちの多くが、ナチ協力の疑いで演奏を禁じられるか、あるいは亡命していたので、その間のベルリン・フィルの建て直しに、非常な努力をして、成果をだしていたが、次第にオーケストラとは対立関係になり、フルトヴェングラーとの関係も悪くなって、喧嘩別れのようにして、ベルリンを去り、その後は、ベルリン・フィルの指揮者だった人とは思えないような不遇ぶりだった。スウェーデンやシュトゥットガルトのオーケストラで常任を務めたが、いずれもトラブルが多かったと言われている。ミュンヘン・フィルに落ち着いたとき、チェリビダッケはかなり法外な要求(主に練習日数の確保)をだし、それをオケ側が飲んで、10年以上の関係が続いたわけだが、練習時間の確保やレコード録音をしないことなどによって、オーケストラの経営は赤字だったと言われている。辛うじて、放送だけはチェリビダッケが許可したので、関係が維持されたのだろう。そういう状況だったから、世評が高かったとしても、オーケストラとチェリビダッケの関係は、それほど良好だったとは思えないのである。

 戦後唯一ベルリンフィルに客演指揮したときの練習映像をみても、ベルリンフィルの団員たちは、半ば呆れた顔つきでチェリビダッケを見ている。
 そうした事態を招いたのは、チェリビダッケの録音とライブに関する、ある種の偏見、あるいは時代錯誤な感覚のためだろう。
 演奏とは、観客と一体となった一回きりのものであり、ライブこそ大切なものだということで、録音を嫌ったというのだが、そうしたライブの感覚は、およそ演奏家はみなそう思っていることで、チェリビダッケだけのものではない。フルトヴェングラーはもちろん、カラヤンだってライブの演奏をもっとも大切にしていた。カラヤンの多くの録音は、ライブのための練習として行われたものだったのだから。しかし、他の大多数の演奏家は、レコードやCDは、ライブとは違った意味での重要な演奏だと考えているわけだ。つまり、繰り返し聴かれるものだから、そういう想定で制作する。よくない部分やミスは演奏しなおして編集する。そうして、何度聴かれてもいいような演奏に仕上げるわけである。そういうCDを聴いて、生の演奏を聴きたいと思うような人が増えればいいわけだ。フルトヴェングラーもカラヤンも、そのように録音とライブを使い分けた。チェリビダッケもそうすればよかっただけのことなのだ。
 第二に、そうした録音された商品が、オーケストラの安定した運営を支えるものだということだ。オーケストラは、演奏会の入場料収入では、絶対に経営できないものなのだ。おそらく入場料収入などは、かかる経費の数分の一程度しか賄うことはできないだろう。だから、公費補助、スポンサーの援助などとともに、CDなどの収入が大きな意味をもつのである。カラヤンはそれをもっとも効果的に実施し、オーケストラの運営を安定させ、団員の収入を増加させた。そのために、優秀な音楽家が応募するようになり、ますます商品価値が高まった。10年近い険悪な関係が続いたにもかかわらず、オーケストラの側からカラヤンを切るような動きがなかったのは、決して終身契約だったからではなく、そうしたカラヤンに代わる指揮者などいなかったからだ。
 
 クライバーは、本当に不思議な指揮者だ。ドキュメントなどを見ると、多くの音楽家が、何故あれだけ優れた指揮者、しかも父親の反対を押し切ってなった指揮者であるのに、指揮をすることを拒むのかと、理解できないと語っている。晩年は、ごく稀に指揮しても、絶対に録音をとってはいけないといって、録音機材を撤去させたのに、あとで録音はないのか、と探し回り、完全な海賊録音を求めて、悦にいっているという情報も。東京で最後に行ったウィーンオペラでの「バラの騎士」は、クライバーとしても会心の出来だったようで、これでオペラはもうやる必要がないといって、実際に、その後オペラはまったく振らなくなった。当然、録音は絶対禁止だったのに、録音がないことを残念がっていたらしい。ベルリンフィルを振ったブラームスの4番も、音の悪い海賊テープを車で聴いていたという話もある。死後、自分のライブ録音を市販してはいけないと、固く家族に遺言を残したために、現在でもクライバーの未発表のライブ録音は、正規音源としては市販されていない。チェリビダッケは家族が許可して、大量の録音が発売されているが。晩年、病気もあったようだが、指揮する気持ちがなくなったとしか思われず、幸福だったとは到底思えない。
 クライバーは、父のエーリッヒにいつも劣っているという、父へのコンプレックスに悩まされていたという。しかし、語られることは少ないが、実はもう一つの父子問題に悩んでいたというのだ。それはエーリッヒが本当に父親ではなく、クレメンス・クラウスが本当の親なのではないかという疑問らしい。確かに、エーリッヒは丸顔だが、カルロスは面長で、クレメンス・クラウスは面長でよく似ている。シュトラウスのワルツの躍動感などは、エーリッヒよりは、クラウスとカルロスはなんとなく似ている。育ての親がエーリッヒ・クライバーであることは間違いないが、遺伝子はわからない。何か、日本のさる高貴(?)なお方と似たような状況があるのかも知れない。私のような凡人からすれば、どちらが親でも、ともに天才指揮者なのだから、いいではないかとも思うのだが。
 
 ジュリーニは、若いころはさておき、中年期以降は、本当にやりたい仕事だけをして、仕方なく引き受けるということをしなくなった。そして、徹底的に作品を掘り下げ、共演する音楽家とは密なコミュニケーションをとり、決して自分を押しつけなることなく、協調的に仕事を進めていた。そして、いずれの演奏も高く評価された。残れた録音は少ないが、珠玉の演奏が多いとされる。音楽家たちは、絶大な支持をえて、最大限の尊敬をされていた。
 しかし、どうも、私は、ジュリーニのような指揮者を、心底尊敬する気持ちにはならないのだ。
 若いころ、ジュリーニはミラノスカラ座の音楽監督だった。しかし、数年で辞めている。そして、その後は、オペラ劇場との関係はもたず、滅多にオペラの指揮をしなくなった。今ではたくさんの古いライブ演奏があるが、ジュリーニのオペラ正規録音は10に満たないはずである。オペラ劇場でまずはオーケストラマンとして、そして指揮者として活動を始めたジュリーニであるが、やがて、オペラから遠ざかってしまう。その理由は、オペラは何かとトラブルが多いからだという。ここは、カラヤンと対照的だ。オペラ上演を続けながら、トラブルに巻き込まれない指揮者などはいない。カラヤンはトラブル人生だったといってもよいし、そのトラブルの多くはオペラをめぐってだった。ジュリーニが避けたところを、カラヤンは避けなかったということだ。
 カラヤンが最初に職をえたのはウルム歌劇場のポストだったが、コンサートマスターが気に入らなかったために、解雇を主張していたところ、当のコンサートマスターがカラヤンを殺害しようとピストルを用意し、これでカラヤンを殺すつもりだと同僚に見せたところ、その同僚が支配人に告げ、カラヤンとコンサートマスターの両方が解雇されたのは、有名な事件だ。そして、その後アーヘンにポストをえるまで、かなり苦労することになる。既にヒトラーが政権をとっていたので、アーヘンポストをえるためにナチ党に入党したと言われている。カラヤンの最後は、ザルツブルグ音楽祭上演の「仮面舞踏会」のリハーサルを終え、帰宅して、ソニーの大賀社長と商談をしていたときに、突然心臓発作を起こして、そのまま亡くなったわけだから、オペラに始まり、オペラに終わった人生だった。晩年のトラブルといえば、ベルリン以外でも、オペラ歌手と何度か喧嘩別れをしている。ローエングリンのルネ・コロ(ただし、レコーディングでは和解して復帰)、カール・リーダーブッシュが去り、ドン・ジュバンニでは、録音は参加したが、ライブ上演ではアグネス・バルツァが出演拒否をしている。またトロバトーレのCDではボニゾッリが歌っていたが、テレビ放映のときには、突然ドミンゴに代わった。こうした背景の詳細はわからないが、トラブルがあったことは間違いない。
 しかし、そういうトラブルにあいながらも、なんとか上演や録音完成に漕ぎ着けることは、やはりプロとしての責任感のなせるわざだろう。カラヤンは、キャンセルを滅多にしないことを自ら誇っていたというが、トラブルが嫌だから、オペラを避けたジュリーニ、気に入らないことがあると、本番間近でも仕事を放り出したクライバーよりは、やはりカラヤンは責任感のある指揮者(組織の統率者)だった。(続く)

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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