指揮者の晩年1

 誰もが一度はやってみたいのが、プロ野球の監督とオーケストラの指揮者と、以前は言われていたものだが、オーケストラの指揮者は、かなり特異な職業だと思われる。特色のひとつは、ほとんどの指揮者が、死ぬまで現役だという点だ。功成り名を遂げて、引退して悠々自適という生活をした有名指揮者は、トスカニーニとジュリーニくらいしか知らない。引退したといっても、トスカニーニは、86歳であり、3年後に亡くなっている。ジュリーニは84歳で引退し、91歳で亡くなっている。
 他の有名指揮者のほとんどは、死によって活動を停止しているのである。そして、指揮中に倒れて、亡くなった人もいる。フェリックス・モットル、ミトロプーロス、パターネ、カイルベルト、シノーポリ等々。いずれも有名な指揮者だ。指揮は非常に神経をすり減らす作業であり、静かな音楽ほど緊張するので、倒れるのも、激しい部分ではなく、静かな部分だ。

 オーケストラの指揮者は、100人を超える人を統率しなければならないので、経験が大事であり、40代くらいから才能のある人は安定し、高く評価されるのは50代くらいだ。その代わり、自ら楽器を演奏するのではないので、歳をとっても活動可能だから、生きている限り現役での活動ができる。しかし、それなりに体力は使うし、精神的集中力が半端ではないので、指揮中に倒れるのも不思議ではない。
 しかし、今回話題にしたいのは、晩節の有り様が、やはり指揮者によって異なることだ。自然なことだが。最後までオーケストラと友好関係を維持して、幸福な晩年の活動を維持したひとと、オーケストラと争いごとを起こして、失意の中で亡くなったひとがいる。それはどういうことで違ってくるのかを考えてみたくなった。
 私の見る限り、美しい老年の指揮活動を継続したひととして、ショルティ、バーンスタイン、アバドがいる。まだ活動中だが、このまま継続していければ、ムーティ、ブロムシュテット、メータ、バレンボイムなどは、今後トラブルを起こすとも思えない。
 逆に、晩年、オーケストラとの揉め事が発生したり、あるいは、何かとトラブルがまわりで発生した指揮者は、カラヤン、フルトヴェングラー、チェリビダッケ、クライバーなどだ。
 
 大きな揉め事もなく指揮者生活を終えたひとたちには、明確な共通点があるように思う。それは、指揮者として、極めて優れた才能をもっていたことは当然として、ポストを自ら求めるようなことを、あまりしなかったという点だ。
 アバドはその典型で、ロンドン交響楽団、ミラノ・スカラ座、ウィーンオペラ、ベルリンフィルと、音楽界最高のポストのトップを歴任しているが、すべて請われて就任したものだし、ロビー活動的なことも一切しなかったと言われている。もちろん、活動中にトラブルはあったし、そのために辞めることになった例もある。ウィーンでは、クライバー招請派がアバドを追い出すような動きがあったとされるし、ベルリンフィルとも、緊張関係が一時あったとされる。しかし、それは、あくまでも音楽的なことであって、地位を巡ることではなく、ウィーンは辞任し、ベルリンは、延長しないことを申し出るなど、実に簡単に見えるような辞め方をしている。ベルリンフィルとは、辞任後も毎年定期的に客演しており、オーケストラ側も最大限の配慮をしていたという。(たとえば、大規模な合唱を伴うような経費のかかる演目も、アバドの希望とおりに認めていたらしい)若いころから、ユースオケをいくつも組織して、そこでやりたいことはできる下地があったということかも知れない。最晩年は、友人たちを招いて、ルツェルン祝祭管弦楽団でじっくりと仕事をしていたので、本当に、満ち足りた晩年を過ごした指揮者だ。
 ショルティは、若いころ、ポストをもっていなかったときには、あちこちに働きかけをしていたようだが、バイエルン国立歌劇場のポストを勇退したあとは、請われてついたポストを比較的長く勤めるが、ある程度のところで自ら退いている。イギリスのロイヤル・オペラからの招請に対しては、断ろうとは思ったが、ブルーノ・ワルターの、ヨーロッパでオペラの火を消さないようにというアドバイスに従って、引き受けたという。黄金時代を築いたシカゴも、20年余りで辞めている。もちろん、その後も度々指揮をしている。カラヤンの晩年のベルリンとの確執を意識したのかも知れない。辞める際に、終身指揮者などは時代に合わない、と語ったインタビューを読んだ記憶がある。
 バーンスタインは、ニューヨーク・フィルを辞任して、活動の中心をヨーロッパに移したあと、ウェストサイド・ストーリーで死ぬまで贅沢な暮しができる収入があるから、その他の活動はすべて遊びだとして、ギャラは、アムネスティに寄付していいたという。だから、本当にやりたい仕事だけ引き受けていたわけだ。だから、トラブルになるような契機がなかったといえる。本当にうらやましい人生だ。
 
 晩年に、痛々しいほどのトラブルに巻き込まれたのはカラヤンだろう。カラヤンがベルリンフィルの指揮者になったことは、順当だったと思うが、その地位を手にいれるために、カラヤンはかなり策を弄した。そして、終身を強く希望して実現させたにもかかわらず、最晩年に自ら手放すことになってしまった。そして、その数カ月後には急死してしまう。そして晩年の数年間はベルリンフィルと対立状況にあり、お互いにキャンセル合戦のようなことをやっていた。そして、カラヤンは活動の主軸をウィーンフィルに移してしまう。
 この争いは、クラリネット奏者のザビーネ・マイヤーの入団をめぐって生じたと考えられる傾向があるが、実際には、これは原因ではなく、結果だった。というのは、既に相互の不満が蓄積していたからである。そもそも、契約のときに、カラヤンはフルトヴェングラーと同じ条件にするという申し出をして、ベルリンフィル側はそれを受け入れたことになっていたが、実は、フルトヴェングラーには、団員採用や人事に関する権限を与えられていたが、カラヤンには、それを制限していた。いってみれば、ベルリンフィル側がカラヤンに嘘をついていたことになる。当初はそれほど大きな矛盾を生じなかったが、カラヤンの鍛練と録音戦略のおかけで、ベルリンフィルの地位が向上し、個々の団員が独自の活動を増やすことになっていく。そうして、それぞれの演奏会の団員の配置に関して、カラヤンが次第に不満をもつようになる。つまり、音楽監督である自分が指揮するのに、トップ奏者がおらず、エキストラになっているようなことが重なった。しかし、そうした団員の配置の権限がカラヤンにはなかったことで、カラヤンのほうが不信感をもつようになったわけである。そして、契約に縛られて、自由に団員を配置できないベルリンでの仕事を減らす、自由にできる演奏旅行や録音に、ますます注力していくようになる。それが、ベルリン市とオーケストラの不満が高まっていく。そういう中で起きたのが、ザビーネ・マイヤー事件だったのである。カラヤンの強い意向で試用期間にはいったが、一年後の投票で否決の動きが顕著だったために、マイヤー自身が辞退することになり、対立は決定的になる。オーケストラは、マイヤーの不適格な理由をあれこれ述べていたが、まったく説得力はなく、私はカラヤンへの意趣返しだったと解釈している。カラヤンが指揮するときは、参加してよいなどということになって、実際に、マイヤーが参加しているビデオがあるが、確かに別格というほどにうまい。
 他方カラヤンの対応も非常にまずかったと思うし、それがカラヤンのカラヤンたる所以なのかも知れない。要するに、終身契約といっても、1950年代に結んだもので、30年も経過しているのだから、契約内容の更新をして、双方の考えを出し合い、妥協点を見つける可能性はあったのではないだろうか。契約によると、ベルリンでの定期演奏会の出演料は、70万だったという。あまりに安いので、ベルリンフィル側は、契約改定を提案するのだが、カラヤンは終身契約でなくなるのを恐れて、頑なに拒否していたというのだ。本当かどうかはわからないが、双方の動きをみると、本当のように思えるのだ。晩年のカラヤンの不幸は、身体的な問題が大きかったこともあるが、それでも、数々の名演を残したことは驚異的だ。(長くなったので続きは明日に)
 
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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