指揮者の晩年3

 フルトヴェングラーは、生涯純粋な音楽家である側面と、政治的である側面をもっていた。尤も、政治的側面は、政治世界でないところでの政治性はうまく機能したが、ほんものの政治世界では、逆に利用されていたといえる。
 フルトヴェングラーが、音楽界、あるいはより広く芸術界で大きな存在になったのは、36歳という若さでベルリンフィルの常任指揮者になったことだろう。しかし、このときは、ほとんどブルーノ・ワルターで決まっていたような状況を、フルトヴェングラーの猛烈なロビー活動で逆転したと言われている。ワルターになったとしても、ナチス政権の成立とともに、追放されたろうから、その時点でフルトヴェングラーにお鉢が回ってきた可能性は十分にあるが、ワルターの音楽はウィーン・フィルとの適合性が高かったし、若い時期からフルトヴェングラーがベルリンフィルとの活動を積み上げていったことによる音楽的成果を考えれば、ベルリンフィル側がフルトヴェングラーを最終的に選んだことは、妥当だったといえるだろう。

 ナチス政権が成立したあと、第三帝国が崩壊するまで、フルトヴェングラーは極めて困難な立場に置かれた。あるいは、自らそれを選択した。ドイツに残ったことは、大きな論争になったし、今でも続いている。しかし、フルトヴェングラーのドイツ残留を非難したひとたちは、安全なところに身を置いていたひとたちだ。特に戦後、フルトヴェングラーがシカゴの常任ポストを提案されたときに、大反対してそれを潰したアメリカ在住の音楽家たちはそうだ。戦時中、ナチスに逮捕される危険性もあったブルーノ・ワルターが亡命するのを手伝ったためか、ワルターはその非難に加わらなかったが、そもそも、ナチス政権下でドイツにいた有名音楽家で、ナチス政権に抗議して外国に去ったひとは、エーリッヒ・クライバーくらいで、去ったほとんどはユダヤ人音楽家だった。とどまることは死を意味したわけだから、去らざるをえなかったわけである。指揮者の場合、自分が亡命しても、オーケストラは残るわけだ。当時の指揮者とオーケストラの関係は、飛行機であちこち客演して回るなどということはなかったから、今よりはずっと緊密だった。ドイツの非ユダヤ人指揮者のほとんどが、残って活動したことは、それほど疑問を生じさせることではない。
 当時の状況を考えれば、とどまったひとたちを批判することは、公平とはいえない。フルトヴェングラーの場合は、単純にナチスの要求を聞いていたわけではなく、いろいろな要求もしていたので、戦争末期には、ナチスの一部から恨まれ、逮捕寸前だったのを、危うくスイスに亡命して、命拾いをした。
 戦後、非ナチ裁判を経て復帰したころは、既に晩年といえるだろう。実質活動期間は10年に満たなかった。最後は難聴(薬の副作用と言われている)のため指揮活動ができなくなり、その後間もなく亡くなっている。この最後の時期の活動をみると、何かに追われるように、本当にやりたいことに集中すればいいのに、頼まれ仕事を大量に引き受けて、身をすり減らしてしまったような感じである。
 カラヤンは、楽団の帝王と呼ばれるようになって以降は、例外的な場合を除いて、ベルリンフィルとウィーンフィルしか振らなかった。ウィーン国立歌劇場を辞任してからは、オペラはザルツブルグでの音楽祭に限定していた。
 しかし、フルトヴェングラーは、ヨーロッパ中の国にでかけて、現地のオーケストラを指揮しているし、ワーグナーの上演などしたことがないに違いない、イタリアの放送オケと、ワーグナーの指輪全曲録音までしている。そして、肝心のベルリンフィルは、意外に少ない演奏会なのだ。チェリビダッケに任せたい気持ちがあったのだろうが。
 他方で、本当にやりたいのは作曲なのに、なかなか時間がとれないと悩んでいたらしい。時間が欲しければ、ヨーロッパ各国の客演などやめて、作曲にあてればよかったのではないかと、凡人としては思うのだが、ついでに、凡人としての考えでは、フルトヴェングラーは作曲家としての自信をもてなかったのではないか、だから、たっぷり時間をとったのに傑作が産めないというよりは、時間がなくて作曲できないのだ、といういいわけを用意したのではないか。そんなことも考えてしまう。
 
 戦争中ドイツに残ったことは、私は理解できるが、戦後、あれほどカラヤンへの嫌がらせをしたことは、ほとんど理解不能である。一応理屈として、戦前、フルトヴェングラーがチャイコフスキーの悲愴交響曲をレコーディングしたあと、比較的間をおかずに、カラヤンもベルリンフィルを使って悲愴のレコーディングをした。これにフルトヴェングラーはかなり腹を立てたとされる。そして、戦後、フルトヴェングラーはザルツブルグ音楽祭でフィガロの結婚や魔笛を演奏していたが、そのほぼ同じメンバーで、カラヤンがふたつのオペラのレコーディングをした。「俺のチームを使って、なんでカラヤンが録音するんだ」というわけだ。そして、ウィーン・フィルやザルツブルグ音楽祭から、完全にカラヤンを締め出した。他にもかずかずあるが、レコーディングについて、感情的な部分はわかるが、レコード会社と音楽家の契約に基づくものであって、いくら常任指揮者であっても、口出しすることはできない。しかも、悲愴をそれぞれが録音したとき、フルトヴェングラーはベルリンフィルの常任指揮者を既に辞任しており、形式的には客演指揮者であった。音楽監督ならまだしも、オーケストラがどの指揮者と演奏するかについて決定する権限などは、まったくなかったのである。戦後のオペラについても、あくまでザルツブルグ音楽祭で演奏する、比較的固定的なチームだっただけで、フルトヴェングラーがそのチームで録音計画があったわけでもない。しかも、当時契約していたレコード会社は、カラヤンもフルトヴェングラーもEMIであって、EMIがカラヤンを選んで録音しただけのことだった。もっとも、EMIのレッグは、それでも若干後ろめたさがあったらしく、魔笛の録音は、かなり秘密裏に行ったとされている。
 後継者問題でも、かなり悩まされた。フルトヴェングラーは、自分の不在時にベルリンフィルを再生させたに等しいチェリビダッケに、後継を任せる考えだったようだが、肝心のチェリビダッケとベルリンフィルの関係が次第に悪化し、オーケストラの側からの拒否が強くなっていた。しかし、熱心に事態の改善に動いたようには思えない。そうすると、憎むべきカラヤンが後継者になる可能性は、極めて高いことは、フルトヴェングラーとしても認めざるをえない。しかも、そこに難聴問題が起き、指揮者としての活動そのものが困難になっていった。作曲家ならば、耳が聞こえないひとはいるが、指揮者としては致命的だ。補聴器をいくつも試したらしいが、結局、指揮活動から引退し、間もなく病気になって亡くなってしまう。自殺説も流れたらしい。積極的自殺ではないにしても、病気を克服する意志がなく、消極的自殺ともいえると考えるひともいる。指揮者としては、絶大な尊敬を受けていたが、晩年の生活は、とても幸福だったとは思えない。(続く)
 
 
 
 
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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