フルトヴェングラーのドンジョバンニ

 きちんとは見ていなかったフルトヴェングラーのオペラ映画『ドンジョバンニ』を視聴した。言う必要もないほどの有名な演奏だし、フルトヴェングラーのオペラがカラー映像で残っているというのは、貴重なものだ。1954年、フルトヴェングラーが亡くなる少し前に制作されたものだ。しかし、どのような経過で、どのようにして撮影されたのかは、かなり不明な点があるようだ。カラヤンの『バラの騎士』は、実際の公演をライブ録音し、その録音を元に、あとで映像のみを撮影したとされている。ライブ演奏でミスなどなかったのかどうかわからないが、あったとしても、訂正することは可能だったろう。シュワルツコップが出演したのは、映画用の一回だけだが、他のメンバーがほとんどおなじで、数回の公演が行われたし、その録音もとってあったから、必要ならそれを使えばよかった。

 ところが、1960年の『バラの騎士』より6年も前のことであるし、こうした映画撮影は、それまでほとんどなかったはずなので、試行錯誤もあっただろう。次のページを参考にさせてもらったが、逆によくわからない面が多数でてきたようなものだ。http://classic.music.coocan.jp/opera/mozart/giovanni-wf.htm#dvd
 このページでは、公演を撮影したように書いてあるが、それはないのではないかと思うのだ。映画は、今では機器が発達しているので違うかも知れないが、フィルム撮影の場合には、音と映像は別にとる。『バラの騎士』でもそうだ。普通は映像を撮って、あとで音をかぶせるのだが、オペラ映画の場合は逆だ。最初に録音して、あとで音楽にあわせて演技をするのである。ただし、このフルトヴェングラーのドンジョバンニが、公演のライブ録音であるのか、別にセッション録音したものかはわからない。はっきりしているのは、その年のドンジョバンニのドンナ・エルヴィラ役はシュワルツコップがすべて歌っていたが、映画ではリーザ・デラ・カーザが歌っているので、デラ・カーザの場面は、すべてあとで撮ったと書かれている。そして、先のページによると、デラ・カーザに関しては、歌う場面は再録音になるから、そのときの指揮はフルトヴェングラーではなかったというのだ。しかも、ドンナ・エルヴィラが登場している場面は、かなりたくさんあるのだから、それが全部フルトヴェングラー指揮ではないとすると、ほんとうにこの映画をフルトヴェングラー指揮によるものといっていいのかも、疑わしくなってしまう。
 しかし、別のことも、上のページには書いてある。つまり、デラ・カーザに、映画では変更になるために、特別上演がもたれたというのだ。それが全体の演奏(たとえ部分的修正があるとしても)として採用され、映像撮影は2カ月後に行われた可能性がある。デラ・カーザが歌っているときの指揮はフルトヴェングラーではなく、助手だというのであれば、この映画の指揮は、ほぼ全体がフルトヴェングラーではないことになってしまう。
 結論としては、この映画が、どのように録音され、どのように撮影され、誰が指揮したのかは、完全に明瞭になっているわけではないということだ。しかし、少なくともこれまでは、フルトヴェングラーの指揮であることは、疑われていなかったし、また、上記ページの制作者もそのことを疑っているわけではない。 
 簡単に私の想像を書いておく。映画用の録音のために、完全に客をいれた形ではない特別公演が行われ、それはフルトヴェングラーが指揮した。主役を歌ったシェピが、デラ・カーザが歌っている部分は、フルトヴェングラーの助手が指揮したという思い出を語っているというのだが、それは、デラ・カーザのためのリハーサルだったのではないか。いくら、過去に同役を歌っているといっても、他のひととのあわせなど、いろいろと確認的な練習は必要だったはずで、特別公演のミス対策としても、きちんとした練習が行われ、それも当然録音していた。だが、実際には、特別公演の録音が使われた。シェピはそういう一連の流れを思い出として語ったのではないかと思う。
 
 以上のことは、視聴した翌日に読んだことで、映画を視聴したときには、こうした事情はまったく知らなかったし、また、知ったからといって、演奏の印象が変わるわけでもない。以下演奏を視聴しての感想にいこう。
 
 キャストは以下のとおりである。
 ドン・ジョヴァンニ…チェーザレ・シエピ(バリトン)
 騎士長…デジェー・エルンシュテル(バス)
 ドンナ・アンナ…エリーザベト・グリュンマー(ソプラノ)
 ドン・オッターヴィオ…アントン・デルモータ(テノール)
 ドンナ・エルヴィラ…リーザ・デラ・カーザ(ソプラノ)
 レポレロ…オットー・エーデルマン(バス)
 マゼット…ヴァルター・ベリー(バス)
 ツェルリーナ…エルナ・ベルガー(ソプラノ)
 ウィーン国立歌劇場合唱団
 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
 ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(指揮)
 演出:ヘルベルト・グラーフ
 制作・監督:パウル・ツィンナー
 制作:1954年10月、ザルツブルク音楽祭における収録
 
 ザルツブルグ音楽祭は8月なので、10月はあくまでも撮影のための日程だと考えねばならない。
 全体の印象として、こういうドンジョバンニは好きではないということだ。よくいえば、重々しい、重厚である、悪くいうと、鈍い部分があるということになる。フルトヴェングラーは、当時、既に難聴がかなり進行しており、にもかかわらず、かなり密な日程で演奏会をこなしていた。前には何度もかなりの病気をしている。それらを考えれば、疲労がたまっていたはずで、鈍重にならざるをえないともいえるのだ。ドンジョバンニとツェルリーナの有名な二重唱も、ゆったりと叙情的に、という感じではなく、鈍いのだ。誘惑する場面なのに、あまりにも鷹揚だ。
 マゼットが、仲間と一緒に、ドンジョバンニを探しているときに、レポレロに変装したドンジョバンニと遭遇し、ドンジョバンニが、うまく煙にまいて追い払う場面でも、たくらみでまいてしまうのに、なんでこんなのにだまされるのか、というおっとりした進行になっている。
 やはり、全体として弛緩している印象がぬぐえないのだ。
 かなり重なっている歌手をつかっての、ヨーゼフ・クリップスの録音があるのだが、こちらのほうが、いかにもモーツァルトらしく、音楽に乗りがある。特に、デラ・カーザのできは、クリップス盤のほうがずっとよい。一連の上演には参加せず、録音のためにだけ参加したという事情なのか、フルトヴェングラー盤では、なんとなくデラ・カーザの歌は、しっくりこないのだ。クリップスの録音は、当初から予定されていて、ずっと参加していたのだろうから、そのせいなのかも知れない。あるいは、指揮がフルトヴェングラーではなかったからなのか。
 歌手は、さすがにフルトヴェングラーの上演チームであり、映画撮影もされるほどなので、ほとんど穴はない。チェーザレ・シェピのドンジョバンニ、オットー・エーデルマンのレポレロ、ワルター・ベリーのマゼットは、それぞれまったく文句なしにすばらしい。理想のドンジョバンニと言われるシェピはそのとおりだが、映画でびっくりしたのは、2階の窓のあたりから、地上に飛び下りたことだ。まさか、飛び下りるとは思わなかったので、怪我でもしたらどうするんだろうと、感心はするが、あまりよい気持ちはしなかった。演出は、音楽祭上演のものをつかっているのだろうし、原作を忠実に再現して無理がないのだが、いくら本人がやるといっても、ああいう危険な設定はどうなのか。
 グリュンマーのドンナ・アンナ、デラ・カーザのドンナ・エルヴィラ、ベルガーのツェルリーナは、上の男声3人よりは、ちょっと落ちる。グリュンマーは、コロラトゥーラがちょっと不安定なところがあるし、デラ・カーザは少々乗りが悪い感じがある。ベルガーのツェルリーナはもう少し気品がほしい。農民だからあれでいいのだという評価もあるが、大勢のなかで見た途端に、ドンジョバンニが誘惑しようと決意するのだから。ただし、3人とも、「少し落ちる」のであって、だめなのではない。
 最後に、フルトヴェングラーの指揮振りがみられるのは感動的だ、なとどいうレビューがいくつかあるが、この指揮は、本物ではなく、指揮のポーズをしているだけだ。しかも、いかにも嫌々な雰囲気丸出しで、「なんでおれにこんなことをさせるのか」という印象だ。前景からは一人でカメラを前に、振っているふりをしているだけだし、後景からのは、オケのひとが3人程度つきあっているだけだろう。私の見る限り、オーケストラを振っている姿ではない。せめて、カラヤンのバラの騎士のように、序曲部分だけは、実際にオーケストラを指揮している映像を撮ってほしかった。
 
 ということで、評判のような印象はあまりもてなかった。実はフルトヴェングラーじゃないひとがかなり振っているのか、あるいは、最晩年の疲労がたまった状態での指揮だからなのか、緊張感に欠ける部分も少なくない(すばらしい部分もあるが)演奏だった。これよりもかはるかに優れたドンジョバンニの演奏は、いくつもあると思う。
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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