今回は、人間科学科の在籍でしたが、現在臨床心理士としてカウンセリング業務に携わっている西井文子(仮名)さんにお願いしました。ただ、カウンセリング業務といっても、個人情報管理を厳しくしなければならない内容なので、職場名は出さず、名前も仮名にしました。西井さんは、太田ゼミ卒業生では二人目の博士号を取得しました。
−ドクター号取得おめでとうございます。
西 ありがとうございます。よかったです。
−大分苦労した?そりゃ苦労するよね。
西 修士までとは違うなという感じでした。
−スクーリングのようなものは?
西 それはなかったです。インターネットを使った授業で、録画された授業を聴講するんです。授業全部ではないのですけど、最低限のものはとれます。先生から課題が渡され、授業をみないと分からないような問題に答えるとか、レポートを学年末まで提出して、成績がつくというやり方でした。
−論文を書く前に単位をとっておく必要があるんですか。
西 はい必修科目や選択科目があるのは、学部と同じです。最低20単位必要でした。
高校時代、文教大学を選ぶきっかけ
−将来何になろうと思ったとか、どんなことを考えて、文教大学にきたんですか。
西 私はもともと大学に行く気がなくて、ずっと動物看護士になりたかったんです。そのために専門学校にいくことを中学生の頃から思っていました。専門学校も自分のなかでは決まっていたんですが、高卒でないと入れないというので、高校にいきました。高校3年になると、各大学の先生が一同に介して、体育館で説明会をする日があるんですよ。2コマあったんですが、全員参加しないといけないと言われて、自分のいきたい専門学校の説明をうけて、専門学校一本なので、抜け出そうと思ったら先生に見つかっちゃったんです。「どこにも行きたくないので部活に」と騒いでいたら、「どこでもいいから聞きなさい、そこ椅子があいている」と言われて、誰もいない大学のところに座ったのが、文教大学だったんです。
−先生が来ていたの?
西 今思えば、先生なのか、事務さんなのか。人間科学部ではお会いしていないんですけど、50代くらいの男性が、座っていて、誰も生徒はいないから、よほど暇な大学なんだな、人気がないんだなと思ってました。座ってないと先生に怒られるから、おじさんと世間話をしようって。おじさんの方も、その経緯を見ているから、私が行きたくないのは分かっているんです。そのおじさん、すごく素敵な方で、「ちょっとお話して、時間つぶしましょう」という感じで、「何か大学興味ありますか」「興味ないんですよ」「ああそうですか、興味ないんですよね。でも大学生になると、一年のうちに6カ月も休みがあるんですよ。」「6カ月ですか!」って、そんな調子でした。
−当時はそうだったからね。
西 6カ月休みというので、すごく惹かれて、お話をしました。「うちの大学は、他の学部の授業を受けても、卒業単位になるから、比較的自由に自分の好きな勉強をして過ごせるんですよ」というので、「ああそうなんですか、楽しそうですね」と、こういうところもあるんだなあと、初めて大学が視野に入った瞬間でした。
−教室に分かれてやったんですか。
西 体育館にですね、ブース。
−ブースに誰もいなかったということね。
西 はい。会が終わったあと、担任とか親が強く大学にいくことを勧めたわけです。専門学校に行ってもいいけど、大学を終えてからでも行けるというので、「半年遊んでいられるのか。動物看護士になると、すごく忙しい。忙しい専門学校のあとすぐ社会人になるよりは、暇な時間に旅行なんか行けるし、大学に行ってみようかと思ったのです。でも文教大学しか知らないから、じゃ文教大学に行きますって、志望したんです。でも、後で分かったんですけど、わたしのときブースにいなかったは、人気があるからみんな第一志望で、一コマ目に行ったからで、そのときはブースにあふれていたんです。そのあと、進路指導に、文教大学に行きますって言ったら、みんなにとめられて、うちの高校から、過去5年か3年、誰もいった人がいない。受けた人はいっぱいいるけど、全員落ちている。私は高校の中でも成績がほんとうに下の下の下だったので、西井が受かるわけないから、やめなさいって、とめられました。
−それが何月ころ?
西 夏休みあけですね。夏休み中は吹奏楽部の全国大会に出ていて、受験する気なかったんです。そこから予備校に通いはじめたんですけど、普通に勉強しても間に合わないだろうと思って、浪人クラスにはいりました。代ゼミの浪人クラスってみんな必死だし、ぴりぴりして勉強しているじゃないですか。
−浪人生っていったら昼間だよね
西 浪人生といっても、コース全部ではなく、夜の部だけで、特に、歴史をやらなければならなかったので、そこから、すごく勉強しました。
−いざやるとなるとやるタイプだよね。(笑)
西 おいこまれると。(笑)
−一般の学力試験で入った?
西 A日程で3日間全部受けたんです。初日が補欠で、2、3日は合格でした。私の高校から5人くらい受けたんですけど、合格は私だけでした。人間科学部については。私は人間科学科の人間教育コースに所属しました。
−大学ではブラスにはいっていないですね。
西 高校のとき、すべての時間を部活に費やしたので、自由な時間をつくろうと思って入るのをやめました。結果的にバイトに熱中してました。(笑)和食レストラン藍屋です。
大学に入学して
−大学時代はどういう勉強をしていましたか。
西 あまり勉強してないですね。必修はちゃんと受けていましたけど。当時は、資格取得をしなければ、2年生になると、ほとんど授業がなくて、週2日くらい行けば単位が足りていました。教職の資格をとっている人は大変そうでしたが。1年のころは、5限まで授業出ていましたけど、2年では暇でした。あとは興味がある心理学系の授業を聴講していました。
−臨床心理学科の秋山(邦久)ゼミを希望したの何故ですか?
西 本当に不純な動機なんですけど、私が、仲のよかった高校の吹奏楽部のお友達が、臨床心理学科を受けたんですね。その人は落ちてしまって、私はその時点で、臨床心理士が何かもわからなかったんです。大学に入って臨床心理学の授業をとって勉強しているうちに、こんなもんだということがわかってきて、友達がなりたかった臨床心理学をもう少し勉強してみたくなったんです。
−そういうことだったの。
西 自分が臨床心理士になれるとは全く思っていなかったんです。たくさん勉強して大学院に行って、その後更に試験を受けなければいけないから、高校からずっと成績が悪かった私が、そんなことができるとは思わなかったです。秋山先生って、現場から来たばかりじゃないですか。だから、学生にとって刺激的ですよね、面白いよな、友達が何故なりたいと思ったのか知りたいなという程度だったんです。
−じゃ、特に臨床心理士になりたいわけじゃなかったんだ。
西 はい、なりたいわけではなかったです。
−じゃ、秋山ゼミ落ちて、僕のところにきたから、この人は、臨床やりたいのだろうと思っていたんだけど、錯覚したということなのかな。
西 興味が全然ないというわけではなかったけど、臨床心理士になりたいというのではなかったです。太田先生のゼミに入ったときにも、動物看護士になる気まんまんでしたから。だから、秋山ゼミで臨床心理はどんなものかみて、動物看護士になろうと、ほんとうにモラトリアムしていただけという感じでした。
−そうなんだ。そういう話しって、僕にしたっけ?
西 動物看護士になりたいということは、言いましたよ。専門学校は確実に伝えて、4年生になって、ゼミに入ったとき「将来どうするのか」と聞かれて「専門学校にいくんです」と話しました。「社会勉強のために就活ちょっとやっているけど、本当に受からないし、このまま専門行きます」という話をしていました。
−就活もやっていたんだ。
西 やってました。ふざけた学生ですね。全部落ちましたけど。厳しさ知りました。つらかったです。なんで落とされたのか教えてくれないし、ほんとうに人格否定されたような感じでつらいもんだなって。でも、「どうせ、専門学校に行くんだし」って逃げていたら、「そんなに時間があるなら臨床心理学の勉強をしたらどうだい。」って、先生に言われて、それで勉強しだしたんです。
−そうなの。では、秋山先生に断られて、僕のところにきたのは、どうして?
西 太田先生の授業で、サドベリバレイの話なんかが興味があったんです。大学に入る前から、子どもたちのキャンプなんかやっていて、そういうことには、興味あったんですよ。子どもたちの体験などに。−でも、卒業論文でやったのは、「絶対音感」だったよね
西 そうですね。なぜ「絶対音感」やったんでしょうね。
−ブラスバンドだったからでしょう。
西 そうですね。音楽に興味があったんですね。
大学院受験のこと
−僕は西井さんは、秋山ゼミに申し込んだのだから、臨床心理士になりたいのかなと単純に思っていたんだけど、勘違いだったというわけなのか。でも、臨床心理の大学院にいく気持ちになったのは何故ですか。
西 そうですね。就活でさんざん落とされて、わけのわからない烙印押されている気持ちになっているときに、大学院でも受けようかと文教以外の大学院を軽い気持ちで受けたんですけど、それも落とされて、かなしい気持ちがくやしさに変わって、それから懸命に勉強するようになりました。最初は就活から逃げたかったというのがあったですね。就活はどうしたら受かるかわからないけど、大学院は勉強すれば受かるんじゃないかという気持ちがあって、それで大学院に受かれば、就活に落ちたというのも補填ができるかなと。
でも受けた大学院が全部落ちてしまって、来週には文教大学卒業式という時点で、何も決まっていなくて、浪人せざるをえない状況だったんです。その時、秋山ゆたか先生からA大学大学院の募集の口があるから行きなさいって言われて、臨床心理学科で、A大学大学院応募のとりまとめをしていた進藤先生の部屋に行ったら、私が臨床心理学科の学生ではないのでと断られてしまったんです。
−最初一人で行ったの?
西 はい、最初ひとりで行きました。そのまま太田先生のところにいって、「断られました」って言ったら、一緒に進藤先生のところに行ってくださって、「臨床心理学科が条件でないなら、受けられるでしょう、この人は秋山ゼミを志望していたし、臨床心理の授業はかなり受けているので、力はあるから受けさせてほしい」と言ってくださって、進藤先生が受験推薦名簿に加えてくださったのです。あのとき、文教から6人くらい受けて4人受かったのかな。
−ああそうなの。落ちた人もいるの?
西 はい。3次募集で、20人くらい、意外といっぱいいました。全員は受からないなと思いました。半分以上は落ちましたね。
−あれは自動的に受かる推薦なのかと思っていたんだけど。
西 私もそう思っていたんですけど、違いました。
大学院時代
−いろいろと錯覚がありますね。(笑)大学院時代はどういう勉強をしていたの。
西 まず基礎ができていないので、入学式のときに、あなたは他人の3倍勉強しなさいって言われました。でも3倍もなにも、課題が忙しくて、必死でしたね。
−宿題がたくさんでたの?
西 はい、でもついていきました。全部の授業が最初には分担をいわれるだけで、2回目からは分担者が発表形式でやっていくものばかりだったので、常に自分が分担している課題が5個以上あるような生活でした。毎日、授業やって、研究室に帰って課題をやって、レポートをやって、また授業にいって、また英語を和訳しなければいけなくって、毎日、研究室にぎりぎりの9時まで残ってやっていました。そして翌日また、朝8時くらいにきてという生活でした。あの2年間はよく勉強したなあと思います。
−一期生だよね。
西 一期生です。先生たちが張り切っていたこともあるんですが、実は、先生たちはすごく不安で、私たちが入った時点で、認可がおりていなかったんですよ。認可がおりるかもわからない、また、おりたとしても、臨床心理士受験の認定の一種か二種かもわからない。入試の時点で、もし認可がおりなかったから、あなたたちは、ここの大学院にいても、臨床心理士の受験資格はえられない。それでも学校を訴えませんかって聞かれたくらいなんです。だから、先生たちは、認可をとるために、学習状況がいい、きちんと実習にいっている、問題をおこさないとかをすごく気にかけていたし、第一期生がもし臨床心理士試験を受けることができた場合、合格率が80%を超えるとか、いっぱい目標があったんですね。だけど、集まったのが、認可がおりていない学校、しかも卒業式間際の受験でくるような人たちなので、あとからいわれたんですけど、「あんな馬鹿ばっか集めてどうするんだ」というようなくらい、みんなお馬鹿さんだったんですね。それで、鍛えていただきました。でも、結果的には、今10期生くらいまでいるんですが、一期生が一番合格率高かったんですよ。
それから、そんなギャンブルなことをするくらいエネルギーのある子たちが集まっていたんですよね。だから、すごく積極的で。授業中も分からないことばっかりなんですよ。ほんとうに初歩的な質問をするんですけど、それは別に恥ずかしいとは思わない。何度も何度も分かりません、分かりませんって、前期授業でわからなかったら、後期も受けさせてもらって、次の学年に混じって、「わかんないんです」と声を大にして言ってました。先生たちは、最初はあまりに馬鹿でこまっていたみたいなんですけど、だんだん、かわいくはなってきたみたいですね。(笑)後輩たちは、基礎ができていて、だからあまり質問もしなくて、優等生っぽいんですよね。