矢内原忠雄と丸山真男19 再出発

 大分間があいてしまったが、矢内原忠雄と丸山真男論を復活する。これまでこのブログでまとまったテーマで書いていたものを、いくつかきちんとした形でまとめていきたいと思っているが、そのひとつとして、矢内原忠雄と丸山真男に関する文章を考えている。
 前回は、「知識人とは何か エドワード・サイードの知識人論」という文章で、2020年12月だったから、ずいぶん時間がたってしまった。
 この18回で書いたように、矢内原忠雄と丸山真男を「知識人」論としてまとめていくつもりだが、その基礎となる議論として、サイードの知識人論を整理してみたわけだ。そして、矢内原と丸山の知識人論を比較してみることになるが、非常に興味深い違いがふたりにはある。

 丸山真男の著作集でチェックしてみると、丸山は、「知識人」という言葉が題名に入っている文章が3つある。
・「丸山真男氏に聞く」というインタビューをまとめた文章に「五・一九と知識人の『軌跡』--丸山真男氏の思想と行動(著作集16巻)
・「近代日本の知識人」(10巻)
・『文明論之概略を読む』のなかの「幕末維新の知識人--福沢の世代」
である。
 もちろん、他にも、実質的に知識人を論じた文章は多数あるが、直接題名にしているのはこの3点だ。
 それに対して、矢内原忠雄は、膨大な文章一覧をざっとチェックしただけなので、見落としがあるかも知れないが、「知識人」が題名に入っている文章は皆無なのである。もちろん、矢内原も、具体的な知識人を多数論じている。しかし、あくまでも一人の個人としての知識人を論じているのであって、多数の知識人を分析して、知識人の類型化をしたり、知識人の系譜を整理するなどということをしていない。例えば、矢内原の著作で最も売れたと思われる『余の尊敬する人物』で、取り上げられている人物は、いずれも知識人として考えられる人ばかりであるが、しかし、やはり、個別の人物論である。知識人論として広がっていかない。
 
 現時点での、この二人についての結論は、矢内原忠雄は、近代日本の生んだ最も優れた「知識人」であったが、世評として「知識人」の代表とは考えられていない。他方、丸山真男は、戦後の代表的な「知識人」と評価されているが、私は、私の定義における「知識人」に、丸山真男は当てはまらないと考えている。また、丸山は、知識人であろうともしなかった。では、丸山は何だったのか。端的に日本政治思想史の「研究者」だった。矢内原は知識人だったが、丸山はそうではなかったということで、丸山が劣っているということではない。また、矢内原も、東大教授だったのだから、「研究者」であったことはいうまでもない。ただ、丸山は、あくまでも研究者であり、そこに自己限定をしていたのに対して、矢内原は、戦前東大を追われてしまったために、研究者としての生活は10年余でしかなかった。その後の活動が、キリスト教徒としての活動に注力することになったという、外からの事情が影響もしていた。しかし、研究者としての姿勢も、ふたりは大きく異なっていたといえるのである。
 
 前回サイードの知識人論を整理した。
 サイードは知識人に必要なこととして、「アウトサイダー」「アマチュア」「現状の錯乱者」をあげている。
 この定義で考えてみると、矢内原は確かにサイード的な知識人だったといえる。軍国主義化した政府の政策を批判して、東大教授を追われたのだから、典型的な「現状の錯乱者」だった。そして、その批判は、専門である植民政策からもなされたか、それ以上にキリスト教徒としての平和主義者としてなされたものだった。東大教授のときから、生涯、私的な雑誌を発行して、キリスト教や時論を書き続け、専門の宗教学者よりも優れた著作をたくさん書いたけれども、しかし、宗教学の専門家だったわけではない。あくまでも一信徒としての仕事だった。そして、国家レベルでのインサイダーではなく、アウトサイダーだったことも否定できない。
 それに対して、丸山真男は、サイードの3つの要素のいずれにもあてはまらない。
 大学卒業後、直ちに東大法学部の助手となり、その後ずっと東大の教職にあった。従って、アウトライダーとはいえない。また、丸山の書く文章は、ほとんどが思想史の専門家という立場から書かれており、「近代日本の知識人」は、その典型である。生涯アカデミズムの世界で生きた、あるいは生きようとしたその姿勢は、現状の錯乱者になったことはほとんどなかった。丸山が、自ら、アカデミズムの外で活動したことは、3回あると語っている。第一回は、戦後三島での住民の学習運動に講師として参加したこと、第二回は、憲法制定に際して、憲法研究会に参加したこと、そして第三回が有名な、60年安保闘争に参加したことである。そして、安保闘争の闘士だったことが、丸山が戦闘的な知識人であるかのような印象を世間に与えたといえる。しかし、安保闘争といっても、議論の当初から立場を明確にして、見解を公表していたわけではなく、岸内閣が衆議院での強行採決をして、あとは一切国会を開かず、自然成立を待つ方法をとったことに対して、強行採決とその後の審議無視に対して、闘いを呼びかけたのであって、その時には、政治的には決着していたのである。錯乱者にはなりえなかった。従って、丸山真男はサイード的な意味では、知識人ではなかったといわざるをえない。
 
 では、ふたりは、知識人をどのように論じたのか。(続く)
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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