矢内原忠雄と丸山真男20 丸山の知識人論1

 丸山の論文は、極端に言えば、すべてが日本の知的状況、日本の知識人への批判が土台になっている。彼の専門が思想史であり、思想は、広い意味での知識人の営みが中心だから、ごく自然なことといえる。そして、丸山の問題意識が、戦前の軍国主義に至った経緯と、戦後その反省から出発した知識人の状況への疑問から出ていたことも、当然のことといえる。
 「近代日本の知識人」は、1977年、敗戦から約30年経った時点で書かれたものである。(当初書かれた原稿が、様々な経緯を経て修正を重ねられた事情があるが、ここでは著作集10巻所収の論文をみていく。()内の数字はページ)そして、「戦後、「暗い谷間」を過ごした知識人が、知性の王国への共属意識が呼び醒まされた」(p253)が、30年経過した時点では、「戦争直後に民主主義の知的チャンピョンとして活躍した知識人たちに対して・・・非難と嘲弄を浴びせるのが一種の流行となっている」ことに対して、その非難の不当性を指摘するとともに、知識人たちの弱点をも批判する内容になっている。

 
 1977年の時点で、丸山は、戦後民主主義者への批判が「流行」になっているとし(254)、「民主主義者は、外からの解放に有頂天になって、先覚者気取りで説教していた」と揶揄していたというわけだ。
 そして、こうした批判は、新しい政治神話を生んだという。
・戦後民主主義の改革は行き過ぎだった
・新憲法は空想的で欺瞞的である
・日本の伝統は知識人によって踏みにじられた
 しかし、丸山によれば、実際の知識人のあり方は、もっと複雑であり、多様だった。そして、新しいスタートは、将来への希望と過去への悔恨があったとする。丸山があちこちで言及する「悔恨共同体の形成」である。(254)
 では、何を悔恨したのか。
 信念を貫けず、転向してしまった人は信念の弱さを、貫いて転向しなかった人は、消極的な抵抗しかできなかったことを悔恨したと。(255)
 いずれにせよ、転向せず抵抗を貫いたとしても、日本が軍国主義化して、戦争に突入し、そして甚大を被害生じさせて敗戦したことは、抵抗そのものが粉砕されてしまったことを意味したから、丸山は、その後も抵抗勢力の「敗戦責任」を問うことになる。
 
 悔恨共同体の知識人にとっては、戦前の激しい弾圧にもかかわらず、信念を曲げず、投獄されたが、戦後解放されて活動を再開した共産党への劣等感が、大きな位置を占めていた。しかし、丸山によれば、彼らの劣等感は追随をもたらすとともに、共産党の傲慢さを済むことになった。そして、共産党の衰退が始まるが、知識人のなかの共産党に対するシンパシーはあまり衰えておらず、むしろ、衰退の原因は、共産党の内部抗争だったと断定する。(257)直接言及しているわけではないが、そうした内部抗争が、日本の知識人の典型的な弱点に由来するという評価を、丸山はしていたに違いない。
  戦後民主主義を守ろうとするひとたちを、その後「進歩的文化人」として揶揄することが大きな潮流となったが、それに対しては、丸山は揶揄する側も、論理一貫せず、同じような欠点をもっていることを指摘するが、それはここでは省略したい。丸山が結論的に強調するのは、戦後の知識人が、悔恨共同体として成立したことの「限界」から逃れていないということだ。それは、戦争責任を曖昧にしたこと、戦犯が返り咲いてしまい、それを許してしまったことである。(261)
 更に、高度成長が進み、政治や経済がルーチン化したことが、知識人の欠点に拍車をかけた。(261)政治においては官僚システムが確立し、それぞれの専門領域に分化されることによって、「魂のない専門家」が支配するようになる。経済については、具体的に書いていないが、70年代になると、それぞれの分野が閉鎖的になってしまった。ここに丸山は最大の知識人たちの問題を見いだす。
 
 丸山にとってのあるべき姿は、以下のようなものだったと思われる。
 相反する考えをもっているひとたちも含めて、様々な領域のひとたちが、共通の土台で論争したり、交流していること。そして、究極的な目的を共有していて、分野や立場の違いを乗りこえていること。
 そのためには、理念的な普遍主義が必要であり、理想・ユートピア思想をもっていなければならない。だが、日本の知識人は、普遍主義を主張しながら、それが特殊主義と結びついてしまう。マルクス主義ですら、ソ連や中国に行き着いてしまう論法をとる。そして、もともと日本にはユートピア思想が欠けている(264)
 では、日本では、丸山のいうあるべき知識人形成は不可能なのか。それに対して、日本にもそうした知識人共同体があったという。それは江戸時代後期である。江戸時代は身分と藩によって、縦と横に分断されていたにもかかわらず、全国に散らばる、様々な領域の知識人たちは、論争をしつつ、知的共同体を形成していたと、丸山はみている。(262)それは、「聖人の道」を学んでいるという共通の目的があったから、縦横の分断を超えることができたのだという。(263)
 もっとも、そうした知的共同体が、幕末から維新にかけて、積極的な役割を果たすことができたかどうかは、検討される必要がある。水戸学が、尊皇攘夷論を拡散し、日本国家を窮地に追い込んだことは、否定できない。
 
 さて、丸山の知識人論に中核となる「悔恨共同体」だが、私が最も疑問に思うのは、丸山自身が、この悔恨共同体に属しているという自覚をもっていたのか、自分は、戦前に対する悔恨をする必要がない人間と自己評価していたのか、という点である。丸山は、日本共産党以外は、すべて悔恨共同体に属しているかのように論じているが、実際には、悔恨する必要がなかったと、評価されている人物も少数ながらいる。矢内原忠雄はその代表的人物である。日高六郎は、『戦後日本の出発』という、戦後初期に書かれた文章を集めた著作の解説のなかで、矢内原について、次のように書いている。
 
 「矢内原忠雄の戦中八年間のたたかいは、じつに見事であったと思う。そこには「神の僕たる以外」にはない矢内原忠雄だけがある。彼はみずからかえりみてやましいと思ったことがただの一度もなかった希有の人だった。」(『戦後思想の出発』筑摩書房 p36)
 
 つまり、矢内原忠雄は、悔恨共同体の一員でなかったことは間違いない。丸山はどうだったろうか。少なくとも、彼の論じかたからみれば、自分が悔恨共同体の一員とは考えていなかったと思われる。しかし、悔恨する余地がなかったのか、軍国主義政策に明確に反対の意思表明を、多少なりともしたのか。そう問われれば、いかに軍部から睨まれる要素はあったとしても、日本統治の中心人物の輩出機関だった東大法学部の教官スタッフであり、そこで守られていたことは間違いない。軍部への批判意識をもって論文を書いていたとしても、それは表面に現れるものではなく、純粋に学術論文の形をとっていた。もっとも、丸山は学生時代に、運が悪かったともいえるが、特高警察に捕まったことがあり、それは丸山にとってかなりのトラウマになっていた。それから、その事実が影響しているとみられるが、本来招集されるはずのない徴兵をされ、広島で被爆している。そのことが、自分は軍国日本の被害者であり、悔恨しなければならない立場ではない、と考えたのかも知れない。(続く)
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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