遅まきながら国葬について

 国葬に対する国民の反対が強い。調査で国葬賛成が多数だったのは、「月刊hanada」のみだそうだ。産経新聞の調査まで含めて、反対論が多い。
 岸田首相が、安倍氏のために国葬をすると発表したときには、びっくりしたが、当初は、茂木幹事長は、「国民に反対意見があるとは聞いたことがない」などと言っていたくらい、国民は支持していると、政府自民党は思い込んでいたのだろう。
 しかし、そこにはいくつもの勘違いがあった。
 
 そもそも葬式とは何のために実施するのだろう。それは端的に、生き残った人、誰かの名誉誇示のために行うものだ。決して、死者のために行うのではない。死んでしまった者は、既に単なる物質なのだから、どのような葬式が行われようと、自身には関係がない。だからこそ、世界には様々な葬儀の形式があるわけだ。

 生き残った者のために行うということは、生き残った者が、世の中に葬儀を通じて、自己アピールをする場であることを意味している。それが非常に明確に表れた歴史的葬儀が、織田信長の葬儀だったといえる。
 信長は、本能寺で死んで、死体は完全に灰になってしまったから、遺骸はなかった。そこで、葬儀そのものが困難であると思われていたようだが、大規模な葬儀が行われた。実質的な主催者は秀吉だった。司馬遼太郎の小説では、柴田勝家は遺体がないのに、葬式などできないではないかと、葬儀執行する意思がなかったか、秀吉は遺体などなくてもいいのだ、柴田は葬式をする意味がわかっていないと馬鹿にしたことになっている。しかし、秀吉が柴田ら重臣たちを出席させないようにしたという説もある。いずれにせよ、大規模な葬儀を秀吉が実質的に差配したことによって、秀吉の存在感が高まったことは事実だろう。
 形として「国葬」が成立したのは、明治時代であり、法令が存在したのは、終戦までである。そして、明治から昭和20年までに行われた国葬は、明確に国家活動に国民を動員する手段であり、その雰囲気づくりのためだったという。
「安倍氏国葬「時代を逆行する恐怖感じる」 研究者が警鐘鳴らす理由」(毎日新聞2022.8.1)
 しかし、戦後は民主主義社会になったために、葬儀などによって国民動員をする必要はなくなった。だから、吉田国葬を佐藤首相が行ったのも、安倍国葬を岸田首相かやろうとしているのも、自らの首相としての権威誇示が目的なのである。安倍元首相が、本当に国葬に値すると、多くの国民が思っていたら、その目論見は成功するだろうが、肝心の安倍元首相の政治的功績が、いかにもおそまつで、しかも、現在重大な疑惑をもたれている統一教会と、ほとんど一体化していたよう事態が認識されるに従って、国葬自体への拒否反応が強くなってきたということだ。従って岸田首相への支持率が下がっている。
 
 国民の葬儀自体への感覚も、近年相当変化している。一世代前くらいまでは、葬儀は派手に行うのが、一般的であり、葬儀費用を惜しまないことが、社会的ステータスであるように思われていた。そのために、高齢化社会になり、葬儀の数が圧倒的に増加する時代になると、葬儀屋は花形産業になると、私も思っていた。しかし、実際に高齢者が増加し、葬儀も増加するにしたがって、葬儀自体が地味なものに変化してきた。現在は「家族葬」が非常に増えており、かつては数百万かけていた葬儀も、10万円代で済ませるような例が多くなっている。私の地域にも、家族葬の葬儀場が多数ある。高齢者の葬儀だと、参列者も高齢であり、遠方から来てもらうのも申し訳ないという感情と、そもそも、葬儀にそれほど費用をかけることに、意味があるのかという意識が広まってきたし、それは墓などについても同様だ。6000人もが参列し、警備費用も含めて100億もかかるような葬儀そのものについて、国民の多くが違和感を感じているのではないだろうか。
 
 もちろん、可能性としては、国葬にするメリットはある。それは、岸田首相がいうように、首脳人外交が実現するということだ。しかし、現在の政府に、各国から要人がやってきて、外交交渉をして、何か実績をあげるように準備や課題があるのだろうか。挨拶をして終わりという以上のものにはならないのではないか。
 
 国葬を強行したが、国民の反対運動にあった、後味の悪い葬儀になってしまったというものになるのではないかと思う。オリンピックで数兆円の費用をかけ、1人の葬儀に100億円の費用をかける。他方、社会保障を維持するためには、消費税をあげなければならないと公言する。狂った政治だ。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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