私が取り組んでいるのは、矢内原忠雄論である。いろいろと考えているうちに、矢内原忠雄については、多数の人が多面的に論じているから、多少の新鮮味を出すことが必要だろうと思い、戦後の代表的な知識人と言われた丸山真男と比較して論じてはどうだろうと考えたわけである。もちろん、矢内原忠雄も丸山真男も長いことさまざまな著作を読んできたが、この二人を対比してみると、政治的には比較的近いと見られる知識人でも、かなりの違いがあると感じてきた。結論的にいえば、丸山真男という人物は、「知識人」だったのかという疑問である。矢内原忠雄も丸山真男も研究者として超一流であることは疑いない。しかし、研究者であることの「姿勢」に関しては、ずいぶん違うと感じる。知識人としての姿勢は、100%異なる。
矢内原にとって、研究とは、今ある状況を実際のデータや出来事を通して分析し、そこに間違った行いがあれば、是正させるべく批判することだった。必要な限り歴史的な研究も行ったが、それはあくまでも現在に至る過程を知るためであって、主要な対象は「現在」だった。矢内原が研究者になったのは、あくまでも「要請」されたからであり、自分の意思ではなかった。その要請は、友人が行ったものだったが、キリスト教徒であった矢内原は、それを天命のように感じただろう。だから逆に、東大を追われたときには、その「要請」が消滅したと感じ、研究者であることにいささかも執着しなかった。しばらくは「大東亜体制」の研究を仲間と行っていたが、空襲ですべての資料が失われると、それもあっさりと諦めた。東大に復帰してからは、ずっと管理職を要請されたので、そこにエネルギーを集中させている。つまり、矢内原にとっては、何よりもキリスト教徒として生きることが中心であり、そして、具体的に行う社会的活動は、「要請」されたことに全力を注ぐということだった。そして、一度その要請を受ければ、自身の信念に反することについては、徹底的に闘ったわけである。
他方、丸山は、専門領域を南原繁によって指示されたとはいえ、思想史という「歴史」を対象とした。これも要請といえないこともないが、ただ、助手に応募したのは丸山の意思であり、あくまでもテーマ設定の問題だった。当時の軍国主義体制に批判的であった丸山は、「抵抗の論理」を日本の思想史のなかに見いだそうとした。それは、当時においては「抵抗」の表明だったというべきだろう。また、若き助教授であり、かつ、一度特高に目をつけられた事情もあり、思想史研究のなかに、自分の抵抗精神を入れ込み、直接の批判は避けたことは、批判されるべきではない。当時生きていたわけではない人間が、そうした形での抵抗をした人を、迎合していたなどということはフェアではないからである。
しかし、戦後、言論の自由は徹底され、少なくとも丸山真男が言いたいがいえない、というような状況は皆無であったはずである。だから、戦後の「抵抗」については、単に学問的な研究のなかだけではなく、実際に起こっている事態に対する発言がどうだったのかを、きちんと検証する必要がある。
丸山が「抵抗」の日本思想史を検討したのは、「忠誠と反逆」という論文であるが、私には、「いいわけ」の羅列のように感じられてしまう。そんなことを書くと、丸山研究者に怒られることは必定だろうが、個人の感じ方は如何ともしがたい。
明治維新は、それまでの「公儀」である幕府を打倒したのだから、忠誠と反逆の転換が行われ、新しい概念が形成されたわけだが、結局、芯のある「抵抗」主義、抵抗権の思想は生まれなかったというのが、その柱である。本文に則してみていこう。(ページ数は、ちくま学芸文庫版)
丸山の最も究明したいことは、明治維新を成功させた「反逆」が、西南戦争等の直接的謀叛、その後の自由民権運動の抵抗などが結局失敗し、国体に絡め捕られていくことの原因である。
「結論的にいえば、謀叛の発想の衰滅ということと、忠誠と反逆の問題を自我の次元で意識化しようという内的な衝動の減退ということと、ほとんど同時的に進講したように思われる。
自我の内部における「反逆」を十分濾過しない集団的な「革命運動」は、それ自体官僚化する危険をはらんでいるだけでなく、運動の潮が退きはじめると集団的に「転向」する脆弱さを免れない。」(p130)
つまり、抵抗をしている個人や組織が、「反逆」を十分に自我内部に意識化できなかったからだという。
「日本の革命運動における「天皇制」といわれる諸傾向の跳梁は、個人の内面における忠誠の相剋を通過しないうちに、革命集団内部において「正統性」が確立したことと無関係ではなかろう。
もともと忠誠の相剋や摩擦のダイナミズムの減退を背景に生まれた反逆は、いわばのっぺり反逆という性格を免れず、自我の内面的な規制と陶冶はどうしても乏しくなる。そのうえ、天皇制自体がもともと「原理」的な統合でないところへ、近代日本では官僚化と世間化を通じて、「天」の思想のような伝統的な超越的契機をもふり落として行ったので、これにたいする反逆も、内側から対抗省庁としてのイデーを成熟せしめることがきわめて困難となった。」(p131)
丸山は決して、抵抗が不十分に終わった人々を非難しているわけではないようだ。天皇制自体が「原理的」でもないし、また、「超越的」契機を振り落としたものだったので、抵抗しようにも、相手が軟体動物のようなものだったので、自我の内部の「反逆」を鍛えることができなかったのだという。しかし、これはどうも納得がいかない。一高の学生だった丸山が、単に呼ばれただけで、その後の人生に大きな「躊躇」の姿勢を作り出したほど強力な権力をもっていた特高という実際があった。後年、丸山は、闘う姿勢が喪失した理由として、天皇制とマルクス主義が消失、衰退したから、取り組むべき相手がいなくなってしまったことをあげているが、上記の文章は、丸山自身の問題の指摘になっているように、私には感じられる。
丸山は、更に、こうしたことが、戦後にも継続していると嘆いている。
「私を驚かせ反省させたことの一つは、既成の忠誠対象のドラスティックな崩壊と大量的な忠誠転移という意味で明治維新に当然比較されるはずの1945年以後の「変革期」において、忠誠と反逆の工作や矛盾の力学を自我化しようという試みがあまりにも乏しいという事実であった。それはむろん天皇制下における国家的忠誠が敗戦までにすでに実質的に形骸化していたことを物語るものであろう。」(p133)
では丸山自身は、「忠誠と反逆の工作や矛盾の力学を自我化しようという試み」を遂行しきったのだろうか。丸山の言葉によれば、前に紹介したように、昭和天皇が亡くなったことを契機に書いた文章のなかで、「超国家主義の論理と心理」が、天皇制に対する自分の信念にけりをつけるためのものだった、それは極めて苦しい作業だったと書いている。しかし、本当に必要なのは、その次の作業だったのではないか。新しく発足した象徴天皇制が、「超国家主義の論理と心理」から完全に脱却した、民主主義的な性質を実現したのか、あるいは、戦前の「国体」的要素を温存したものなのか、現在進行形での分析である。象徴天皇制といっても、変遷している。また、戦前天皇制を支えた神道の在り方も、戦後宗教法人化されたあとは、一貫していたというものでもない。A級戦犯の靖国神社への合祀と、それをきっかけとした昭和天皇の参拝停止、靖国神社への閣僚の参拝をめぐる東アジアでのトラブル等々、様々な変化があった。
「近代日本の組織のエートスは、旧体制下の忠誠構造の何を引き継ぎ、何を引き継がなかったのか–こうした問題はもやは懐かしのメロディとしてではなく、現代の地点において日々決済しなければならない債務関係としてわれわれの前に置かれている。「ネガ」を「ネガ」のままに美化したり、排撃したりするのが問題なのではなく、われわれの今日の責任と行動において「ネガ」像から「ポジ」像を読みとることが問題なのである。そのときに「本来忠節も存ぜざる者は終に逆意これなく候」というパラドックスは、そこにまつわりついたあらゆる歴史的制約をこえて、われわれにある永遠の予言を語りかけて来る。」(p136)
「ネガ」像から「ポジ」像を読みとるための作業が、次の大きな論文「歴史意識の古層」だが、ますます過去に沈潜してしまう。丸山が批判的に検討した明治・大正・昭和の「抵抗」を試みた人たちは、決して、江戸時代と格闘したわけではない。あくまでも、当時の「現在」と格闘したわけである。その格闘を「自我の次元で意識化」できなかったとか、「自我内部の反逆を十分に濾過しなかった」などと批判するのは、学究的な論文としては価値があるだろうが、ずっと後の時代の思想史家が、丸山の思想を分析するとき、明治時代の挫折した民権運動家にまったく及ばない「現実との格闘」具合でしかなかったのではないだろうか。