教育学を考える19 教育における実験

 『岩波講座現代』8巻『学習する社会の明日』の巻頭論文が、「教育の実験をしてよいか」という題になっているので、興味深く読んでみた。しかし、実際には、ほとんどテーマ、つまり「教育の実験をしてよいか」については論じられていないのに驚いた。最初に「教育はもっとも実験室化してはならぬものでありながら、もっとも実験室化しやすいもの」という福田恆存の言葉をひいて、教育における「反知性主義」を批判する形になっている。巻頭論文で、各論文の趣旨を説明することに半分を費やしているが、あまりに題名との内容に乖離が大きい。ついでに、蛇足で書いておくと、この巻は、明らかに「教育」を論じることがテーマになっているが、狭義の教育学者が一人しかはいっていないのにも驚いた。

 ただ、紹介されている福田恆存のいいたいことは、教育は本質的に知性主義に基づくべきものであり、保守的なものであるのに、社会的改革論が教育によって社会を作り替えるなどという妄想にとらわれ、それが教育を実験室化しているという批判である。教育現場にある「反知性主義」が批判される必要があることは、私も同意見だが、実験に関しては、意見が異なる。
 教育と実験は、もちろん非常に重要なテーマである。近年、ほとんどすべての学問領域で、エビデンスが重視されるようになり、そのために、実験やデータ収集が求められる。教育学と近いと考えられている心理学では、特に実験が不可欠と考えられているといっても過言ではない。しかし、教育学は、心理学の実験に対する位置づけとは、全く異なるように考える必要がある。しかも、極端に異なるふたつの考えをとる。
 第一は、心理学のような厳密な実験は、教育学では、倫理的に否定されるべきであること。非常に有名なピグマリオン効果の実験がある。最初の実験は、任意の生徒の名前を、教師に期待できる生徒であるかのように話しておいただけなのだが、(それだけでも、その任意の生徒の成績があがったとされる)以後、その実験に触発されて多様な実験がなされることになった。そのひとつに、教室をふたつのグループに分け(ただし、生徒にはまったく知らせない)、一方には、褒めたり励ましたり、肯定的に接し、他方には、叱責等否定的な態度をとる。そうして、一定期間実験的にそのような対応を継続して、その結果、前者の生徒たちはよい結果を残し、後者はそうではなかったという結果となった。この二番目の実験には、批判が出されるが、心理学はこうした実験を比較的肯定的に捉えていたと、私は理解している。尤も、近年は、実験における倫理性が問題となるので、さすがに行われていないかも知れない。
 教育学的に考えれば、いくつかの批判がありうる。まずは、そんな実験をしなくても、結果は分かっている。分かっていることを実験して、どんな意味があるのかという批判である。ただし、もう少し吟味していえば、褒めて伸びる子どもと、注意して伸びる子どもがいることも事実であり、やはり、子どもの性格などを把握した上で、必要に応じて褒めたり、注意するべきである。だから、こうした一括するような対応が、そもそも間違っているともいえる。
 また、ある方法が効果的であると、教師が考えれば、実験的に実施するのと、しないのと、ふたつのグループに分けてやってみる、などということはしないはずである。効果的であると教師が思えば、それを実際にやってみるのではないだろうか。教育の効果は、どんなよいものであっても、100%の子どもに効果を発揮することはない。従って、優れた教師であれば、効果的である場合とそうでない場合、また対象となる子どもを、正確に区分して把握するだろう。要するに、通常の学問分野における厳密な実験は、教育にはなじまないのである。それでは、科学といえないと批判されれば、教育学は、通常の意味での科学とは異なる「実践的な学問」であると、私は答えることにしている。
 第二は、それにもかかわらず、教育という行為は、「すべてが実験である」という側面をもつ。この場合、実験とは、最終的にはやってみないとわからないが、たぶん効果があるだろうと思う行為をやってみる、という意味である。教育はまさしくそういう行為なのだ。算数の授業をしていて、この単元のこの部分は、だいたい理解されたから次に行こうと考えて、次の内容に進めたが、実際には、その過程で、子どもたちの理解は不十分であることがわかり、復習が必要なことがわかった、などということは、いくらでも起りうることだ。また、ふざけあっているようなグループがあったので、もしかしたら、いじめではないかと思って対応する必要を感じたが、ではどういう風に切り出すか、様々にあるはずだが、そのひとつを選択してやってみるわけである。だから、試しにやってみるに近い。このようにすれば、必ずこうなる、というものであれば、実験を積み重ねて、その「こうなる」結果を科学的に見つけて、そうすれば、効果的な教育実践になるだろうが、そういうものではない。だから、永久に、そして、すべての教育実践は、実験といってもよいのだ。
 だから、「教育は実験をしてもよいのか」と問われれば、科学的な対照実験は、教育にはなじまないし、倫理的に必ず問題が生じるというべきだが、しかし、あらゆる教育実践は、実験のようなものだという意味では、「よいかどうか」を問うまでもない。
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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