先日文科省から、中教審に提出された答申案の骨子が公表されている。そして、「令和の日本型学校教育」の構築をめざす立場からの提言となっている。この「日本型学校教育」という言葉が使用されたのは、2016年の「次世代の学校指導体制強化のためのタスクフォース」の最終まとめ「次世代の学校指導体制の在り方について」からのようだ。これは、「教員が、教科指導、生徒指導、部活指導」等を一体的に行うことを特徴としていることを指し、またその成果として、PISAなどでも「学力面がOECDでもトップクラスであり、更に、勤勉さ、礼儀正しさなど、道徳面、人格面でも評価されてきた」としている。ただし、このまとめでは、こうした特質が教師の労働時間を過重にしているために、いままでのような形の継続は困難になっているという認識があるために、「学校指導体制」の改善が必要であるとしていた。
このタスクフォースの提起を簡単に整理しておくと、まず、新しい必要性が生じているとする。
1 AI等の加速度的な変化に対応することと、伝統的な文化に立脚した資質の形成
2 自己肯定感、主体的に学ぶ姿勢
3 問題解決能力
4 アクティブ・ラーニング
5 社会の変化への対応 特別支援教育の必要性の増大・在留外国人の子どもの増大・貧困家庭の増大・いじめ等学校環境の複雑化
こうしたことを見据えた次世代の学校の指導体制強化として何が必要かをあげている。
1 教職員定数の改善と質の向上
2 校長のリーダーシップとチーム学校
3 業務の適性化(具体的記述なし)
そしてそのため具体的に必要なことは
1 専科指導の充実
2 少人数による指導
部活動については、手当ての支給、地域との連携などが書かれている。
これは、あきらかに、先日出された中教審答申案の素案ともいえるものだ。
最近の中教審は、必ずしもかつての文部省下における「国家教育権」を前面に押し出すような提言ではなくなっており、かなり目配りをしているような側面もないではない。案の骨子でも、次のような文言もある。
「学校では「みんなで同じことを,同じように」を過度に要求する面が見られ,学校生活においても「同調圧力」を感じる子供が増えていったという指摘もある。社会の多様化が進み,画一的・同調主義的な学校文化が顕在化しやすくなった面もあるが,このことが結果としていじめなどの問題や生きづらさをもたらし,非合理的な精神論や努力主義,詰め込み教育等との間で負の循環が生じかねないということや,保護者や教師も同調圧力の下にあるという指摘もある。」
これこそ、日本型学校教育の特質の批判をしているようにも見える。しかし、これらを根本的に解決しようという姿勢は、あまり感じられない。ただし、上記に書かれている日本型学校教育の特質を、そのまま維持しようというのではなく、そこに21世紀型の先進国で追求されている課題を付加していこうというのが、今回の答申案のめざすところである。これは、新学習指導要領でうちだされていることの確認に対して、コロナ騒動で明らかになった学校の、これまで見過ごされてきた(と政策側が認識している)側面の見直し(例えば、居場所としての学校)を加えていこうという姿勢である。
では、肝心の「日本型学校教育」というのは、国際的に広げていこうというような、誇らしいものなのだろうか。海外からも高く評価されていると自画自賛しているが、そうなのだろうか。
注目すべきは、日本型学校教育という言葉を、朝日、読売、毎日新聞検索(2000年以降で)にかけると、毎日新聞は全く記事にしておらず、読売と朝日も2,3の記事しかない。しかも、いずれも、海外から称賛されているという文脈ではなく、教師の過重労働の原因となっているという記事である。常識的に考えて、現在の日本の学校教育の最大の問題は、教師のあまりに過酷な過重労働であり、そのために、教師が病で倒れたり、辞めていく数が多いというだけではなく、授業の質が低下しているという結果に繋がっている。過重労働の原因が、まさしく日本型学校教育として把握されるわけである。教師のやるべき対象が広すぎる、つまり、西欧では教師の仕事ではない多くのことが、日本では教師に課せられているために、職場のブラック化が起きている。教師の過重労働に関する中教審答申を受けて、文部科学省は、過重労働対策をうちだしたが、まったく解決しない方法であった。夏休みに年休を多くとなり、学期中は仕事を増やすというものだったから、逆に過酷の度合いが強まったに過ぎない。単なる数字合わせ以上にマイナスなものだった。現場の教師にきいても、軽減されたなどという話は、ほとんど聞こえてこない。
ちなみに、日本の生徒は学力が高いということになっている。しかし、これは、教育産業、塾や通信添削等の力が補充されて、日本の子どもの学力が形成されているのであって、決して学校教育だけの成果ではないことも忘れるべきではない。もし、塾などがなくなったから、日本の子どもの学力は目立って低下するに違いない。これは、多くの人が感じているはずである。
さて、日本型学校教育の特質として、具体的には、部活指導、給食指導、掃除指導等があげられる。その他、多くの学校行事が日本独特だが、それは今回は除いて考えよう。それから、生徒指導は、必ずしも日本の特質ではなく、どんな国にでも、およそ教師である以上、明確に定められているわけではなくとも、様々な相談にのるだろうし、クラスに問題があれば、担任として解決のために努力するはずである。
部活指導については、私は散々論じているので、部活は学校の活動から外し、社会体育に移管するべきという結論のみをあげておく。
給食指導については、長年の慣行となっているので、直ぐに食堂方式などに移行するのは難しいだろう。給食指導は、教師の昼休みをとる権利を侵害しているのだから、解決しなければならない。徐々に食堂方式に移行する、4時間目、5時間目が空きになっている教師が、担任の代わりに入る、ボランティアが入るなどによって、担任教師がきちんと昼休みをとれる体制を保障すべきであり、担任教師が給食指導していることを、国際的に「誇る」などというのは、筋違いであろう。
掃除指導についてはどうだろうか。
掃除を子どもが行うのは、国際的にみれば、だいたい仏教圏が多いとされている。キリスト教圏ではまずない。専門の清掃労働者が行う。日本でも、大学などはそうなっている。なぜそうなのか。
仏教においては、修行の第一が、清掃や清めることであり、そのあとで仏典の学習などが続くくらい、清掃が重視されていることがあるという。それに対して、キリスト教圏では、職業として成立していることについては、職業の専門家に任せるべきで、勝手にそれ以外の者が行うと、職業を侵すことになるという意識があるようだ。サッカー場で日本人観客が、ゴミを後始末して帰ることを、称賛する声があり、日本人はそれを聞いて喜ぶのだが、実は、清掃労働者の仕事を奪っているという批判もあるのだ。また、清掃労働を低く見る職業観があり、かつては学校に通う者は、エリートに近かったので、その名残りがあるとも言われている。ただし、西欧でも、教室は、子どもや教師が、自分の周辺をきれいに保つ責任があるとされ、ごみを拾ったりするルールはあることが多い。
掃除指導については、完全に清掃員を雇って行うには、財政的な問題もあり、簡単に無くすことは難しいだろうが、これも、担任の仕事から解放することは可能な気がする。
結論的には、日本型学校教育とされることは、消滅させるものであり、決して、国際的に自慢し、広めるものではないということだ。
次回からは具体的対策としてあげられていることについて、検討していくことにする。