日本型学校教育の検討2 同調圧力と日本型学校教育は表裏一体だ

 今回の中教審答申への提示案は、さすがにコロナ禍を経たなかで出されたので、社会や学校に露わになった問題に対する「配慮」をしているかのように書かれている。しかし、配慮するように書くことと、それを実行可能な案としてまとめること、あるいは、まとめたとしても、それを実行できるかどうかは、全く別問題である。そうした実行可能性という批判的視点がないと、まるでよいことのように書かれた提言の実際の方向性を見失うことになる。
 さて、まずは、日本型学校教育なるもののひとつの側面について検討しよう。

 
 「こうした学校の臨時休業に伴う問題や懸念が生じたことにより,学校は,学習機会と学力を保障するという役割のみならず,全人的な発達・成長を保障する役割や,人と安全安心につながることができる居場所・セーフティネットとして身体的,精神的な健康を保障するという福祉的な役割をも担っていることが再認識された。特に,全人格的な発達・成長の保障,居場所・セーフティネットとしての福祉的な役割は,日本型学校教育の強みであることに留意する必要がある。」(案p4)
 
 読めば、国民の願いを実現するような学校を構想しているように思われてくる。学力保障だけではなく、全人的な発達を保障し、暗然な居場所・セーフティネットを提供する福祉的役割を担っている、そのことが、コロナ禍で再認識された、日本型学校教育の強みだというのだ。問題は、そういうことが機能しているかということと、もし機能したとしたら、それはいいことなのか、という真逆の問題として検討される必要がある。人間の行うことだから、完全に機能するはずはないし、また、いろいろな問題が生じていることは、誰でも知っている。いじめによる自殺があるほどだから、安全安心な場ではないと感じている子どもも少なくないはずであるし、そこに居場所がないと思うから不登校の子どもが出てくる。
 しかし、ここでは、不完全であることよりも、むしろ、本当にそういうことをかなりの程度満たすようになったとしたら、それは本当にいいことなのか、という点での検討をしたい。この日本型学校教育の特質が、十全に保障されるとしたら、まず、ふたつのことを考えねばならない。
 第一は、学力保障、居場所提供、福祉的機能を満たすには、当然、かなりの人的保障をしなければならない。現在の日本の学校の状況は、日本型学校教育が「期待」されているにもかかわらず、人的保障がなされていないが故に、教師の過重労働が強制されているわけである。もちろん、そういう人的保障が必要であることは、この案にも書かれている。しかし、それが実現すると考えている人は、どれだけいるだろうか。40人学級の是正すら、小学校一年生でストップしてしまったのである。現在、少人数学級の実現の機運が高まっているが、高まったのは、今回始めてではないし、かつて何度も運動の盛り上がりはあった。その都度大蔵省、財務省の反対によって、頓挫してきたのが実際である。さすがに、今回のコロナ禍では、これまでのような学級規模では、感染症に対応できないことが明らかになっているから、学級規模の是正には、ある程度踏み出すかも知れない。しかし、居場所機能や福祉機能を満たすには、学級規模是正のための人的保障では足りない。案としては人的保障を要請していても、それが実際に実現しなければ、しわ寄せは教師にいくし、また、実際にそうした機能を果たすように、指導がなされるのである。
 従って、このような日本型学校教育のよさを強調することが、現場をますます疲弊させるのだという側面を見落としてはならない。
 第二は、今回重点的に考えようと思うことである。まず次の引用をみよう。
 
 「その際,従来の社会構造の中で行われてきた「正解主義」や「同調圧力」への偏りから脱却し,本来の日本型学校教育の持つ,授業において子供たちの思考を深める「発問」を重視してきたことや,子供たち一人一人の多様性と向き合いながら一つのチーム(集団)としての学びに高めていく,という強みを最大限に生かしていくことが重要である。(p11)
 
 正解主義や同調圧力への偏りから脱却して、本来の日本型学校教育の特質を実現していくのだというのだ。つまり、本来の日本型学校教育は、正解主義や同調圧力とは違うものだという認識にたっている。私の知る限り、正解主義も同調圧力も、まさしく日本の学校教育の特質であって、別物ではない。正解主義は別の機会にして、ここでは、同調圧力を考える。
 同調圧力は、まさしく日本社会の特質と考えられており、学校に限らない。以前は、企業は「家族」の論理が適用され、社宅、旅行、サークル、宴会等々、ほとんどのことが「社内」で行われるのが、企業の人間関係を緊密にし、企業力を高めるような感覚があった。しかし、今は、社宅もかなり少なくなり、企業で大運動会を行うところは、ほとんどなくなっているだろう。サークルがあるとしても、かなり特別な存在なのではないか。宴会は、残っている企業も少なくないだろうが、企業の家族的一体感、つまり、企業文化への同調圧力は、かなり軽減している。
 しかし、学校では、中教審答申の案ですら指摘しているように、同調圧力は、まだまだかなり強く、その弊害も多々指摘されている。
 問題は、日本型学校教育と同調圧力はどのような関係にあるかという点である。結論的にいえば、日本型学校教育と同調圧力は、表裏一体の関係にある。だから、日本型学校教育を押し進めながら、同調圧力の偏りも是正することは、不可能なのである。具体的に考えてみよう。
 前回の日本型学校教育の特質は、学力だけではなく、人格形成、生活指導、部活指導などを含んで指導をしていることと確認した。そして、更に、居場所やセーフティネットなどの福祉的役割も含んでいたことを、再認識したわけである。
 「同調圧力」とは何か。それは、違うことを否定し、皆が同じように行動する、更にいえば、考えも同じようになることを求めることである。では、具体的に、学校で行われている「同調圧力」はどのようなものだろうか。まず給食指導。同じものを食べ、決められた服装をした配膳係の子どもが、配膳し、一斉に挨拶して食べる。極端な場合には、黙々と食べることが強制されたり、あるいは、全部食べなければいけないと指導される。掃除当番も似たようなものだ。清掃のやり方はほとんど統一されており、これも黙々と仕事をすることが求められることが多い。
 学校で使用するもののほとんどが、指定されたものを使う。上履き、ノート、ワークブック、スポーツウェア、鞄等々。多くの中学では、揃いのジャージを着て授業を受ける。また、授業中の発表形式なども、決められていることが多い。挙手の仕方、発言後の対応等々。こうしたことは、「圧力」の結果であって、決して、自発的にそうなったのではない。その圧力も、通常の圧力以上の「規則」によって、揃えているのである。
 では、何故、こうした同調圧力が必要とされるのか。それは、まさしく、日本型学校教育を実施するためには、「揃っていること」が必要だからである。
 典型的なヨーロッパの学校と比較してみよう。そこでは、学校の役割は、基本的には、知的教育が中心である。服装や持ち物の規制はない。体育などの服装も自由である。昼食は、帰宅して食べる。(近年は少なくなっているようだが)体育は、市の施設を使って、そこの指導員が授業をする。クラブは、学校とは切り離された社会教育に属している。もちろん、(会場が学校である場合もあるが。)しつけは基本的に家庭の役割であって、強制的な道徳教育も存在しない。宗教の授業は、選択できることが普通である。掃除は清掃員が行う。
 こうして見れば、ヨーロッパの学校では、授業をしっかり行うことが求められるだけで、その他のことは、それぞれに任せればよいことがわかるだろう。とすれば、皆が「同じよう」である必要もない。
 では、日本ではどうだろうか。授業だけではなく、食事や清掃、部活、様々な行事を一緒にやらなければならない。どんな子どもでも個性がある。好き嫌いがあり、好きなことは一生懸命やるだろうが、嫌いなことは避けたがる。しかし、学校として、それをすべて「一緒」にやらなければならないのだから、好き嫌いや個性を尊重していては、成り立たない。だから、学校、学級に属している「仲間」としての一体感が必要となる。そのためには、可能な限り、「揃える」ことが求められる。だから、服装だけではなく、行動様式も、道具も、そして、行動そのもの(例えば、学校行事)を揃えていくことになる。そのようなことは、圧力なしには実現しないから、「同調圧力」が様々な形でかかるようになってている。
 つまり、「同調圧力」と日本型学校教育は、不可分のものなのである。「案」と同様に、私も同調圧力は止めるべきものであると考える。なぜなら、この多様性が求められる社会で生きていく上で、同じ資質や能力の形成をめざすような教育では、とうてい必要な資質・能力は育たないからである。では、何が必要か。結論は単純、日本型学校教育を止めること以外には、「案」(1で書いた)が求めている「結果」も不可能だということだ。
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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