ベームの「コシ・ファン・トゥッテ」を聴いて

 以前は、モーツァルトのオペラの最高傑作は「魔笛」だと思っていたが、今は断然「コシ・ファン・トゥッテ」だと思っている。ただ、このオペラは、モーツァルト生前には5回しか演奏されず、その後もずっと不遇のままだったそうだ。戦後になっても、かなり時間が経過してから上演されるようになり、今では多くの人に親しまれている。おそらく、最初の全曲録音は、カラヤンのフィルハーモニア菅を振ったものだったと思う。しかし、その後カラヤンは「コシ・ファン・トゥッテ」を取り上げていない。モーツァルトの他の主要オペラであるフィガロ、ドン・ジョバンニ、魔笛は、いずれも複数の録音があるのに、「コシ・ファン・トゥッテ」のみはこの一回きりだ。おそらく、フルトヴェングラーが「マーラーはワルターに任せた」というような感じで、「「コシ・ファン・トゥッテ」はベームに任せた」という感じだったのだろう。カラヤンに限らず、昔の指揮者にはそういう面があったようだ。カラヤンは、ビバルディの「四季」を長く録音しなかったが、イムジチの録音があるからいいではないか、と語っていたそうだ。

 ベームは正規録音でも、「コシ・ファン・トゥッテ」は、デッカのウィーン・フィル盤、EMIのフィハーモニア盤、ドリームキャスト販売の映像盤、そして、グラモフォンのザルツブルグライブ盤がある。ライブは最後のものだけで、あとはセッション録音・録画だ。今回通して聴いたのは、最後のものだが、これまで聴いたなかで、もっとも素晴らしいと思ったのは、映像盤だ。残念ながら、DVDはもっておらず、廃盤となっており、アマゾンの中古で最低が12000円、最高は89万円もする。たった1曲のDVDにこんな高値がついているのは、初めて見たが、買う人がいるとは思えない。私は、クラシカ・ジャパンの放映を録画したもので視聴している。
 一般には、ザイツブルグライブのグラモフォン盤がベストという人が多いが、この演奏は、私はあまり気にいらない。まず、ペーターシュライヤーのフェランドがどうも好きになれない。ペーターシュライヤーは、宗教曲では素晴らしいと思うのだが、どうもモーツァルトでは気品を感じないのだ。魔笛のタミーノなどでも、王子としての気品がなく、なんとなくおじさん風に感じてしまう。私だけの偏見かも知れないのだが。それに対して、映像盤のルイジ・アルバは、柔らかい声質が気品を感じさせる。
 次に、パネライのドン・アルフォンソがいけない。パネライは、カラヤンのお気に入りだったが、あくまで脇役としての名歌手であって、主役級になるといかにも力んでしまい、力不足を露呈する。素晴らしかったのは、カラヤンの指揮で二度録音・録画している「ボエーム」のマルチェルロ役だ。これは、本当にすばらしい。しかし、「コシ・ファン・トゥッテ」というオペラは、6人の歌手が完全に主役を歌える実力がなければならない。ドン・アルフォンソも同様だ。だから、パネライはどうしても無理が見えてしまう。女声には不満がないが、ヤノビッツと組んでいるのは同じだが、映像盤のクリスタ・ルードヴィヒのほうが、私は好きだ。
 ところで、何故、「コシ・ファン・トゥッテ」は戦後もかなり経ってから、やっと人気オペラになったのだろう。19世紀は、モーツァルトはかなり不遇の時代で、史上最高の天才と認められていたが、あまり演奏されることはなかったという。オペラも「ドンジョバンニ」が人気だったくらいで、他の曲の上演はかなり少なかったらしい。まして交響曲や協奏曲は、現在と比較すると、かなり知られずにいた。録音の実現で復活した要素が強いらしい。最初のレコードであるSPは片面5分しか入らないから、各楽章が短いモーツァルトは、非常に都合がよかった。また、小編成だから、初期の不完全な録音にも、なんとか収まりがよかったわけだ。SP時代にマーラーやワーグナーなどは、とうてい無理だった。しかし、それでも「コシ・ファン・トゥッテ」が避けられたのは、何故なのだろう。ひとつには、筋がかなり遊びの要素が強く、悲劇的で壮大なものが好まれたロマン派時代には、あまりに異質だったということがあるだろう。クレンペラーの「コシ・ファン・トゥッテ」の演奏は、かなり違和感があるものだ。HMVのレビューで、話は面白いのに語り口がまったくおかしくもなんともない落語みたいと、書いたことがある。フルトヴェングラーの「コシ・ファン・トゥッテ」って、ちょっと想像ができない。巨匠風の演奏が支配的だった時期には、まったくそぐわない音楽だった。そういう意味では、戦後始めて、若きカラヤンが録音したが、巨匠になったあとでは、やらなくなったというのは、納得できるのだ。
 また別の面として人権意識が高まってくると、やはり、女性を愚弄するような感じの内容への批判もあったに違いない。
 しかし、このオペラは、女性を愚弄したり、蔑視している内容とは、私には思えない。
 簡単に筋を整理しておくと、二組の熱烈なカップルがあり、永遠の愛を誓っている。しかし、哲学者のアルフォンソが、愛などは直ぐに変わるものだ揶揄し、24時間以内に女性の愛が変わるかどうかを賭けることになる。そして、男が入れ代わって、熱烈に求愛し、結局、それが受け入れられるが、最後のそのからくりが明らかにされるというものだ。
 確かに、女性二人が裏切るわけだから、一見女性蔑視的だが、むしろ、滑稽な扱いになっているのは男性で、女性二人は、徐々に独立した恋愛主体として自覚するようになり、それに応じて、男性二人は怒り、自信喪失になっていく。結婚式の場面では、フェランドはともかく、グリエルモは、しょげ返ってぶつぶついっているだけだ。そういう意味で、「コシ・ファン・トゥッテ」は、女性が自立的になっていくことが描かれているように、私には感じられる。
 あとは音楽的な要因があるだろう。フィガロの結婚や魔笛などは、一度聴いただけで忘れないような、本当に分かりやすく美しいメロディーにあふれているが、「コシ・ファン・トゥッテ」は、そういう点では地味であり、噛めば嚙むほど味が出てくるが、最初は固くて噛みにくい、しかも、重唱が多いので、かなり技巧的に作られている。そうした点が、直ぐに人気が出る要素に乏しかったのではないだろうか。
 しかし、聴き込んでいくと、このオペラは、本当に名曲であると感じる。オペラが、他の表現芸術に比較して、絶対的に優位な点がひとつある。それは、同時に、複数の感情表現が可能な点だ。小説は、同時に起こっていることでも、順番に描いていく必要がある。演劇は可能だが、見ている人には混乱が起きているとしか感じられない。映画も同様だ。しかし、オペラだけは、一人が喜び、一人が悲しみ、もう一人が笑っている場面でも、同時進行させることができるし、混乱ではなく調和が生まれる。そういう場面が、「コシ・ファン・トゥッテ」にふんだんにある。
 それから、「コシ・ファン・トゥッテ」の特に優れている点は、「中間的表現」に富んでいることだ。ヴェルディにしても、ワーグナーにしても、感情表現はだいたい大げさになされる。愛はいつも情熱的だし、怒りはそれこそ怒濤のごとくであり、喜びも爆発する。しかし、人間の感情は、いつもそうではない。少しずつ変化していったり、戸惑いながらとか、両方の感情を含んでいるとか、微妙な部分がある。それをモーツァルトほど匠みに描いた作曲家はいない。「コシ・ファン・トゥッテ」ではふたりの男性は、最初恋人に対する絶対の貞操への信頼があるが、それが少しずつ揺らいでいく。逆に、女性二人は、最初恋人への愛を断固守ろうとするが、これも少しずつ、新しく現われて言い寄ってくる男性を受け入れていく。そして、最後は結婚式まであげてしまうわけだ。途中には、もちろん戸惑いも躊躇もある。そのような微妙な感情の変化を描ききったことが、次第に理解されるようになって、今やモーツァルトの人気曲になっている。
 ちなみに、私がもっとも好きな演奏は、ムーティの最初のザルツブルグでのライブの映像バージョンだ。CDもあり、一部歌手が異なっているが、やはりオペラは映像があるほうがよいし、映像盤のほうがバランスがとれている。同時期の演奏なので、あまり違いはないが。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です