矢内原忠雄は、東大の植民地講座の教授であったにもかかわらず、朝鮮への学術調査をすることがほとんどできなかった。もちろん、彼の意志ではなく、公的機関が妨害したからである。従って、非常に残念なことに、矢内原の朝鮮植民地政策に関する論文は非常に少ない。だが、「朝鮮統治の方針」(全集1巻の『植民政策の新基調』所収)を読むと、政府が矢内原の朝鮮調査を妨害した理由がよくわかる。逆に、矢内原自身の説明によると、この論文は朝鮮人に感激をもって読まれ、多くの手紙を受け取ったという。これは、現在でも続いている日本による朝鮮統治の性格をめぐる議論でも、きちんと取り上げられるべき論文であると思う。
「朝鮮統治の方針」という論文は、1926年4月に、李氏朝鮮王朝の最後の王が、逝去したとき、民衆が葬儀の列に、多数集まって、慟哭したというが、官憲が追い散らしたという事実を最初に書いている。「ここに至って何たる殺風景」と記しているのであるが、そのあとすぐに、李大王が1919年に死去したときに、3.1独立運動が起きて、長期的、かつ暴動に発展するような事態になったことを回想せざるをえないとしている。このことが、本論文を書くきっかけになったものであり、『中央公論』1926年6月号に発表されている。李王の逝去とその後の朝鮮民衆の行動、そしてそれを押さえ込んだ日本の官憲に対しての憂慮から、一気に書かれたものだろう。
3.1独立運動(矢内原は本文で万歳事件と呼んでいる)は、日本の朝鮮支配が、武断主義から文治主義になったきっかけとされる。しかし、矢内原は、この文治主義の政策に対して、強い批判を投げかけているのである。
3.1独立運動は、アメリカ大統領ウッドロー・ウィルソンの民族独立の思想に影響を受けたもので、政治的な要求が中心であったと、矢内原は規定している。そして、日本の統治は、武断主義から文治主義に転換した。
教育衛生などの重視、地方では、公選か任命の諮問委員会が設置された。
日鮮同治
日鮮融和
共存競泳
がスローガンであった。しかし、矢内原の理解では、朝鮮の民衆はそれに満足していたわけではない。1926年(大正15年)の李王の逝去によって、多数の民衆が集まった。何度も秘密裏に文書が撒かれたとされる。官憲は、民衆を四散させ、260名が検挙されたとする。
矢内原は、1919年と違って、1926年では、ソ連(労農ロシアと矢内原は呼んでいる)の影響による経済要求になっているとする。それは、日本の文治主義の統治によって、一見朝鮮人の生活は向上したように見えるけれども、むしろ全体としては苦しくなっていると見ているのである。
鉄道の敷設等によって、欲望が刺激され、必要もないのに旅行するなどが行われた。いわば、文明の誘惑である。学校がたてられ、教育が普及したり、病院が建設されたが、それによって、それまでになかった費用負担が生じた。朝鮮経済は、まだ農業中心であるが、土地の多くが、内知人の手に移っていて、農業を捨てざるをえなくなって、都市に流入しているが、十分な職がない。つまり、生活の欲望が増大しているのに、生活水準は低下しているというわけである。
では朝鮮統治をどうすべきかを示す前に、矢内原は、植民政策の3つの型を整理している。
第一は、従属主義であり、スペインやポルトガルが南米でとった政策である。本国人が、本国の利益のために、原住民を従属させ、収奪する政策である。この結果は、原住民が絶滅するか、反抗が起きる。矢内原は問題外としている。
第二は同化主義で、フランスが典型である。
本国の政治制度、社会的風習、文化と同等にすることをめざし、婚姻も奨励する。しかし、植民地といえども、独自の政治制度や文化をもっているのであり、同化主義は、それを完全に否定することになる。当然言語も否定される。これは、如何に本国と「同じ」に扱われるとしても、それはほとんどの人にとっては、侮辱的なものになり、やはり反抗をもたらす。アイルランドがその典型であるとする。
第三は、自主的結合である。イギリスとカナダ、オーストラリア、ニュージーランドの関係がそれにあたる。
植民地との協同による結合がめざされ、集団的人格が尊重これ、強制支配が除かれる。その結果、これらの国は、国家的争いもなく、協力関係が維持されている。つまり、友誼による結合ほど強いものはないというのが、矢内原の主張である。
そして、朝鮮統治はどうあるべきかを矢内原は提起する。
まず、朝鮮は、2000年の独立国家であることを忘れてはいけないという。ずっと独立国家であった朝鮮人を、他国が自由に支配することなど、正しくないし、不可能だという認識があった。だから、朝鮮人を主とする社会であることの確認が第一に必要であるとするのである。
そのとき取られていた文治主義はよいが、それには実質が重要である。
例えば、朝鮮での米増産計画は、増産された米は内地に吸い取られ、朝鮮の農民は、逆に米を食べる割合が減ってしまった。だから、朝鮮のためになる政策を実行するには、やはり、朝鮮の政治を朝鮮人が選んだ代表が行うことだ。つまり、参政権といっても、朝鮮区域の代表を内地の議会に送りこむのではなく、朝鮮のなかに議会を設置すべきなのである。つまり、自主的結合の関係になるべきであると主張する。
そんなことをしたら、朝鮮は分離独立してしまうではないかという危惧について、まずは、そういうことは望まないのではないかという考えを示したあとで、たとえ、望んだとしても、そのことによって関係が悪くなるのではなく、よい関係になる。イギリス連邦を矢内原はモデルに考えているのである。そして、結論として、次のように書いている。
「朝鮮議会の開設は朝鮮統治の根本方針、その目標たるべきものである。」
結局矢内原は、朝鮮統治の文治主義はよいとしても、植民政策としては同化主義になっており、いかに、学校教育を改善し、日本語教育を充実させ、社会的なインフラを建設しても、2000年の独立国家である朝鮮にとっては、屈辱であり、朝鮮人の人格を侮辱していることになる。だから、やがては、植民政策はゆきづまるといいたかったのだろう。
現在、日本の朝鮮統治を肯定する人たちは、日本がいかに朝鮮に投資し、経済を活性化させ、社会的インフラを充実させたかを強調し、朝鮮に対していいことをしてあげたと主張している。しかし、それは、施しものをしてやったという意識に他ならない。施しをしてやる、という意識で行われることは、別の側面として、抑圧があるのが普通である。まさしく、日本の朝鮮統治は、そうした両側面をもっていた。矢内原は、その片面のよい部分だけをとっても、その国の文化を否定する同化主義は、侮辱と受け取られるのだという指摘だが、その後の日韓関係の歴史を見れば、矢内原の指摘は、正しかったといわざるをえない。また、この論文は、矢内原が朝鮮にいって調査することを、ますます妨害されきっかけになっただろう。