トルストイの「十二月党員」は未完の小説の第一章で、しかも書き直しが複数ある。トルストイ全集3巻(河出書房新社)には、3編が収録されている。
『戦争と平和』を先日読み終えて、高橋精一郎氏による、最終巻の解説を読むと、『戦争と平和』が最初デカブリスト(十二月党員)を描くことから構想し、次第に時代を遡って、ナポレオンとの戦争にまで至ったという話は、既に知っていたが、デカブリストを描いた断片があり、その部分は、流刑から戻ったピエールとナターシャ、そしてその子どもたちがモスクワに宿をとる部分であると書かれていた。『戦争と平和』の最後の部分では、ピエールがペテルブルクに出かけて、政治的な結社の仲間と相談して帰宅した場面が描かれている。予定を過ぎてもピエールがなかなか帰らないので、ナターシャがいらいらしている。たまたまそこに、昔ナターシャにプロポーズしたデニーフソが滞在していて、昔の生き生きとして魅力的だったナターシャの姿とは全く違うので、驚いているのだが、ピエールが帰った途端に、昔のナターシャに戻ってしまうという場面がある。そして、そのあと、みんなが楽しみにしていたお土産が配られ、そして、ペテルブルクでの話が若干語られる。しかし、具体的なことは明らかにされないのだが、何となく、やがてデカブリストとして登場する人たちのことだと想像されるように書かれているのである。その後、アンドレイ侯爵の息子が亡き父を思う場面で物語は終了してしまう。そして、トルストイの戦争論がながながと展開されることになる。
それから高橋氏の解説を読んだわけだが、ぜひ、「十二月党員」の断片を読んでみたいと思って調べたところ、トルストイ全集に含まれていることがわかった。図書館で借りることができたのである。
トルストイのような大作家の、途中で放棄された断片を読むのは、たいへん興味深いが、そのような機会は、それほどあるわけでもない。作曲家の場合には、モーツァルトやシューベルトの未完成の断片は、ファクシミリで出版されたりしているし、また、印刷される前の手書きの楽譜なども、同様に出版されている。演奏家は、そういう楽譜などもチェックしながら、演奏の解釈を決めていくのだが、文学の場合には、あまり行われていないように思う。漱石の『ぼっちゃん』は、漱石の手書きの生原稿が、そのまま写真製版された本があるが、広い関心をもたれているわけではない。
「十二月党員」の断片では、最初のものがもっとも面白い。デカブリストとは、1925年に、リベラルな改革を求めた貴族たちを中心とする叛乱だが、実際には、すぐに鎮圧されてしまったもので、計画者たちが逮捕され、一部処刑されたが、何人かがシベリア流刑となった。かなり経過して許され、モスクワに帰宅することができた者もいたが、当然現地で死んだ者もいる。話題になったのは、何人かの貴族の妻たちが、周囲の猛反対を押し切って、夫のいるシベリアに向かったことである。当時、かなり話題を呼んだらしい。なにしろ貴族階級の人々だから、何不自由ない生活をしており、夫が流刑になったとしても、妻の生活が脅かされるわけではなく、妻たちも貴族出身だから、裕福な生活を保障されていたのである。
流刑地は満州の近くにあるネルチンスクで、モスクワから、短めに見積もっても、4,000キロ以上あるだろう。冬、橇でいく。想像しがたいほど過酷な旅だったと思われる。
デカブリストの反乱は、ロシアの政治的事件として、極めて重要ものだから、トルストイが、長編小説を書こうとしたことは、十分に納得できるが、シベリアに流刑になった人たちが帰還したのは、1850年代だから、トルストイは20代の青年であり、大きな話題になったのだから、その帰還から話を始め、それから、遡っていこうと考えたのだろう。そして、主人公が、ピエールとナターシャという名前であった。『戦争と平和』の主人公は、「十二月党員」の主人公でもあったのだ。
第一稿の場面は、特別なことは何も起きない。モスクワの宿屋に到着し、荷物の整理をして、翌日、知人のところに出かけるというだけの内容である。もちろん、宿での主人との話、客たちの会話(ピエールが帰ったことが話題になっている)、出かける際に、訪問客があって話し込んだりする、といったことが起きるだけである。出かける相手が、マーリア・イワーノヴナという人物だが、ピエールの教母と訳されているが、どういう人かは、文章だけではわからない。
これが『戦争と平和』の主人公であるピエールとナターシャの数十年後の姿なのか、という興味が湧く程度だ。
ところが、第二、第三の断片になると、同じ「十二月党員」という作品の出だしであるにもかかわらず、まったく内容が違っていて、1817年の農民騒動の話になっている。つまり、デカブリストたちが、政府への意見提出を考えるきっかけとなった事件を扱う形になっている。つまり、1825年の事件を描こうとして、最初は、1850年代から始めたが、次は1817年というように、興味が遡っていったということが、こうした断片の原稿からもわかる。
デカブリストの叛乱は、ロシアがヨーロッパにさまざまな点で遅れていることを憂えた貴族が起こしたものだが、1812年の対ナポレオン戦争に勝利し、更に進撃したロシア軍が、実際にヨーロッパに触れて、特にフランス革命での民主主義的な改革を知ることになったのが、きっかけであるとされている。これは、アジアの植民地支配のなかで、現地人の優秀な若者が、本国に留学して、民主主義を知り、帰国して革命家になるというのと、よく似た現象である。ところが、『戦争と平和』もこの断片群も、1812年のナポレオン敗退後に、ロシア軍がヨーロッパにまで攻めて行ったこと、そして、1815年のウィーン会議などは、まったく触れられていない。断片は、まだいくつかあるのだが、日本の全集では3つ程度でいいだろう、と編者が考えて、残りは訳さなかったようだ。実際に、「十二月党員」の構想ではそれがあったに違いない。
しかし、『戦争と平和』では、生き残った主人公たちは、いずれもすぐにモスクワに帰宅してしまうから、ヨーロッパまでは出かけていかないのである。ただ、ピエールは、最初の登場からフランス帰りのナポレオンを崇拝する人物として登場することで、後年を暗示させたのかも知れない。若いころに、フランス革命の思想に共鳴したピエールは、壮年になって、民主主義革命の旗手となると、トルストイは想定していたということだろう。『戦争と平和』執筆後、また、「十二月党員」に戻れば、優れた傑作群になったと思うと、書かれたかったことが残念だ。