矢内原忠雄と丸山真男16 丸山は分析以上に語らない

 
 丸山真男の文章を読んでいくと、丸山は、現実の日本社会をどうしていったらいいのか、それをどのように考えていたのかが、ほとんど触れていないことがわかる。しかも、それは自覚的であったといえる。「ある自由主義者への手紙」(著作集4 p314)で、以下のように書いている。
 
 「これまで僕は、広い意味での政治学を勉強していながら、当面の政治や社会の問題についての多少ともまとまった考えを殆んど新聞や雑誌に書かなかった。なぜかということはここでは述べないが、ともかく、それには僕なりの理屈があったし、いまでも原則としてはその理屈を間違っていないと思っている。」

 
 この理屈については、どのように書かれているか、まだ見いだすことができないのだが、丸山はとにかく、当面の政治や社会については、「書かない」という積極的姿勢をとっていたことがわかる。しかし、そうした姿勢、あるいはたまに現実的な政治・社会についての文章を書いたときには、「ではどうすべきなのか」という疑問を発せずにはおかない。もちろん、丸山はそれに回答を与えているわけでもないのだ。
 例えば、「現実主義の陥穽」という文章の追記(『現代政治の思想と行動』に収録)に、次のような文章がある。
 
 「底辺のナショナリズムは、いうまでもなく近代的ナショナリズムではなく、家父長的支配を国民的規模に拡大した戦前ナショナリズムの変形で、これによって、国民の漠然としたいまだ組織化されていないナショナルな感情を吸い上げていく。しかもそれが危険な反米という方向にいかないようにすることが必要である。そのためにはどういう手段が保守勢力によってとられるかというと-これは予測の問題ですが-例えば現在ある程度現われている古いナショナリズムのいろいろなシンボルのなかで、直接的積極的には政治的意味をもたないシンボルを大々的に復活させることです。たとえば村のお祭りとか、神社信仰の復活。その神社も国家神道という形であれば直接政治的になるが、そうでなく、ただ町村の神社やおみこしを再築するとか、祭礼や儀式を盛んにするとか、そういう形をとる。修身、道徳教育の復活もその一つだと思う。その際にも露骨な国体思想や神権思想はカットし、もっと日常的な徳目のような形で、日本古来の淳風美俗と言われる家族道徳や、上下服従の倫理が鼓吹される。それから芸術娯楽面における復古調、たとえば生花、茶の湯からはじまって、歌舞伎、浪花節に至るまでいろいろあります。これらの現象はいずれも直接的には政治的意味をもたない。しかしながらこれらは、一定の状況の下では間接的消極的に非常な政治的効果を発揮する。いずれも戦前の日本にたいするノスタルジヤを起こし、その反面、戦後の民主主義運動、大衆を政治的に下から組織化していく運動に対する鎮静剤、睡眠剤として、非常に大きく役立つということですね。」(著作集6 p278)
 
 実に分かりやすく、多くの人が納得する分析だろう。しかし、では、そうしたナショナリズムのソフトな組織化について、丸山は当然警戒心をもっているし、このようにして絡め捕られていくことに、注意を喚起しているはずである。だが、ではどうしたらいいのか。村のお祭や、神社の御神輿、祭礼や儀式には、反対すべきだというのか。道徳の復活については、教育界では大きな批判が巻き起こったが、確かに、道徳が必要ではないかという、素朴な感情によって、道徳教育は受け入れられて行った。生花、茶の湯、歌舞伎、浪花節、こんな芸は、危険なナショナリズムだから、反対してやめさせようというのだろうか。ナショナリズムや復古的な風習の復活に危機意識をもっている人たちは、こうした事実の進行は十分に理解しているだろうし、また、警戒しているだろう。しかし、いくらナショナリズムに警戒心をもっていても、生花や茶の湯は、日本の復古的な策動だから、やるべきではないと反対できる人がいるだろうか。
 上記文章のあとには、天皇制に関して、天皇ではなく、脛に傷をもたない皇太子(現上皇)のお披露目という形をとって、天皇制の浸透を図ると指摘する。私自身は、当時の皇太子と正田美智子さんの婚約、ミッチーブーム、結婚のパレードなどを、よく覚えている。天皇のシステムに対する、好意的な感覚が広まったことも感じていた。
 こうした分析をしながら、丸山は、それにどう対抗すべきなのかは、まったく示さない。読者は、「わかった気持ち」にはなるが、実践的指針に関しては途方に暮れてしまう。しかも、丸山の分析は見事だから、何もしなければ、どんどんナショナリズム化が進み、ソフトな天皇制が復活するかのような気持ちに囚われてしまう。
 ただ、丸山の予想したいたところかどうかは不明だが、現在の皇室は、必ずしも、国民の動員のための組織として機能しそうにはない。確かに自発的に皇室のメンバーをみようと、参拝に出かける人は多いが、それは政治的動きというよりは、ある種のスターに対する応援に近いものになってしまっている。また別の面としては、平成になってからの何度かの皇室スキャンダルの影響もあって、皇室へのクールな見方も広まっている。特に平成の時代に、皇后の積極性による皇室財政の膨らみに対する批判意識、つまり、皇室といえども、税金で運営されている以上、税金が有効に使われているかという、戦前にはありえなかった意識が、国民のなかにそれなりに浸透していることも見逃せない。
 こうした動きを丸山がどのように見たかは、もちろんわからないが、丸山の分析は、その分析内容から、対策が論理的に出てくるようなものではなかった。だから、マルクスの有名な次の言葉が、丸山への批判となるといえる。
 「哲学者たちは、世界を様々に解釈してきただけである。肝心なのは、それを変革することである。」(マルクス)

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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