矢内原忠雄と丸山真男22 役重善洋氏の矢内原批判

 役重善洋『近代日本の植民地主義とジェンタイル・シオニズム 内村鑑三・矢内原忠雄・中田重治におけるナショナリズムと世界認識』は、氏の京都大学に提出した博士論文である。一度ざっと読んだだけという段階だが、おそらく、これまでにない視点から、日本の代表的なキリスト教徒と植民地主義の関係について研究した労作である。しかし、私は、あまり共感することができなかった。矢内原忠雄研究をしている立場から、無視することはできないので、読書ノートとして検討しておきたい。
 共感できない単純の理由のひとつが、日本のキリスト教徒3人の植民地主義を検討するということで、他人をとりあげているのに、植民政策の専門家であった矢内原忠雄がもっとも簡単に扱われていることだ。ページ数では、内村93ぺージ、矢内原35ページ、中田56ページとなっている。内村も中田もキリスト教徒として生きた人物であるが、矢内原はキリスト教徒と同時に、植民政策の日本を代表する研究者であった。しかも、他の二人は植民地に関する専門的論文を残したわけではない一方、矢内原には、当然だが、膨大な植民政策に関する著作がある。ならば、そうした多数の論文を検討しつつ、矢内原のキリスト教徒としての活動をあわせて考察すべきだと思うが、実際に、役重氏が扱った矢内原の植民政策論文は、「シオン運動について」と『満洲問題』であり、少しだけ『植民及び植民政策』が参照されている程度だ。これで、矢内原の植民地主義を批判する上で十分とはとうていいえない。

 
 役重氏の基本的立場は、現在のパレスチナ認識によっている。つまり、不当なイスラエルによるパレスチナへの進出、暴力的な抑圧を批判する立場である。その源流となったのが、シオニズム運動手ある。
 シオニズム運動は、様々な潮流があったが、現在のイスラエル国家設立に向かう勢力の主力は、決して敬虔なユダヤ教徒が、聖地に移住して、そこに安住の地を見いだすというものではなく、むしろ、ユダヤ人ではあっても、非ユダヤ教徒(そういう存在は論理矛盾ともいえるが、改宗ユダヤ人のことだろうか)が、欧米(特に英米)キリスト教政治勢力が、中東地域のオスマントルコ(イスラム教徒)を追い出し、キリスト教世界に奪還する目的で行われたのが、シオニズム運動であり、それにのってバルフォア宣言がだされ、イスラエルが建国された。そして、既にそこに住んでいたパレスチナ人たちを抑圧する構造ができた。この認識には異論がない。
 この認識にたって、3人のキリスト者が断罪されるような論述になっている。特に矢内原については、自身がパレスチナを訪れたことがあり、そこで、ユダヤ人たちが、荒廃した土地を開墾していく様子を感動をもってみたということが、矢内原の認識の欠陥を示しているという。
 矢内原がパレスチナを実際に訪れたときの様子を自ら書いた文章を引用して、青年たちが、荒れ地を開墾していくさまを、感動してみた矢内原は、内村の再臨運動の影響を受けているとする。
 矢内原は、大学卒業後、既に父母が他界していたので、弟や妹の面倒をみるために、郷里に近い住友系別子銅山に勤め、3年後新渡戸が国際連盟にいったので、その後任として東大に迎えられることになる。民間企業に勤めていたから、論文などはまったくない状態での助教授就任だった。そして、すぐにヨーロッパに留学にでかけ、その途中でパレスチナを訪れたのである。だからまだ研究者として世に出る前のことだった。そして、現実に、若者たちが荒野を開墾している現場をみたのだろう。(「パレスチナ旅行記1922 全集26巻)
 そして、帰国後最初に書いた論文が「シオン運動について」である。当初『経済学論集』に書かれたが、後に、『植民政策の新基調』に収められ、その際若干の訂正を行ったと矢内原は「まえがき」で断っている。役重氏は、この論文から、「人類的見地より観れば「六七十万のアラビア人がパレスチナの所有権を主張する権利はない」のである」という文章を引用して、矢内原が、シオニズム運動の正当性を主張しているとする。そして、この文章は、シュロモ・カプランスキーという人を参照しているというのである。(218)しかし、この文章は、「経済学論集」からの引用となっていて、全集からではない。つまり、矢内原が書き直した部分なのかも知れない。私は、オリジナルな「経済学論集」掲載の文章を読むことができないので、確認しようがないのだが、役重氏の引用が正確なら、矢内原がカットした部分を引用したことになる。この文章も、カプランスキーという氏名も、全集所収の「シオン運動について」では見当たらないのである。(見落としが絶対にないとはいえないが)
 逆に、ユダヤ人が入植するにしても、パレスチナには到底ユダヤ人に行き渡るような土地がないことも指摘している。少なくとも、矢内原が論文を書いた時点では、ユダヤ人は土地を購入して取得していると、認識していた。
 「シオン運動について」という論文では、シオン運動についての賛否様々な見解が紹介されており、ユダヤ人団体でも、シオニズムについて反対意見があったことを踏まえている。一方的に、実際に入植していったユダヤ人たちを礼賛する論文とは、私は思わない。
 
 つまり、現在のあり方への批判(イスラエルの不当な拡張政策)を基準に、20世紀初頭の論文を断罪している。それは、フェアな評価とはいい難いと思う。過去の論を評価するには、当時の状況のなかで、何を問題にして、何を主張したのかを考察することがまずは必要である。もちろん、現在に近い時期であったり、あるいは現在にその問題が継続しているときに、問題状況そのものの変化を踏まえながら、そうした変化と、変化に対応する政策を提示していたかを論じることは、ありうることだろう。しかし、その場合でも、当時の状況と現在の状況の相違は、きちんと考慮すべきである。
 
 もうひとつ、役重氏の矢内原理解で疑問に思う点がある。それは、矢内原の植民政策が、彼のキリスト教信仰と内的に不可分の論理をとっていたという理解である。この著書は、ディペンセーショナリズム、ジェンタル・シオニズム、再臨説、千年王国論等のキリスト教用語がたくさんでてきて、それによって矢内原の論を分析していくのだが、私は、矢内原の植民政策論や社会科学的分析において、キリスト教の内容はほとんど関わっていないと考えている。確かに、彼の主著である『植民と植民政策』は、最後の結びが「私は信ずる、平和の保障は「強き神の子不朽の愛」に存することを。」となっているが、膨大な著作の他の部分では、聖書や信仰の文言で事実が分析されるなどということは、まったくない。完全に社会科学的な分析になっている。
 矢内原にとって、キリスト教の信仰は、自分自身の行動原理であり、学問的方法としては、極めてマルクス主義に近かったといえるのである。だから、矢内原は、絶えず、信仰と学問の方法が、「両立するのか」という問題を提起されたし、また、自身その回答を何度も試みている。
 植民政策が神の意思を反映したものになることを「期待した」などという評価は、とうてい適切な矢内原評価ではない。もしかしたら、矢内原考察の分量が、非常に少ないのは、矢内原のキリスト教に関する文章と、植民政策に関する論文が、峻別されていたから、キリスト教的論理が植民地主義を支えているということが、矢内原の文章のなかに見いだせなかったからかも知れない。
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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