教育学を考える12 授業 斉藤喜博の授業論2

 斉藤喜博とクライアント中心主義のロジャースとを比較する研究がある。非常に説得力がある議論なので、参考にしつつ、斉藤喜博の授業論を進めたい。(若原直樹「斎藤喜博『わたしの授業』の一つの読み方--斎藤喜博のカウンセリング・マインド」『北海道教育大学紀要(第一部C第46巻2号』)
 ロジャース理論の根幹は、クライアントとの信頼関係を作ることと、クライアント自身のなかにある回復力を信頼して、それを引き出すことによって、問題を解決することである。ロジャースは、そのプロセスを7段階にわけているが、それは省略し、ポイントだけ確認して、斉藤喜博の検討に行こう。まず信頼関係を築くために最も重要なのは、「一致」とされる。つまり、セラピストが、本当の「自分」をクライアントに対して示すということだ。私自身は、カウンセリングをしたことがないので、正確なところはわからないが、カウンセリングに訪れる人は、当然心に問題をもっている。セラピストはそれを解決してあげるという、一段高いところに自身をおきがちである。だから、信頼関係を築くために、「あなたを信頼している」という態度を示しても、どこかで、「この人は、こんな弱点があるから、今の問題が発生しているのだ」というような、ある意味探るような視線を投げつけかねない。そうすると、心で思っている本当の自分と、クライアントに示す姿にずれが生じる。つまり「一致」が崩れるわけである。こうならないように、「一致」させる必要がある。そうでないと、信頼関係は築けないというのが、ロジャースの考えである。
 教師と生徒の関係も、同様だろう。「間違ったっていいんだよ」といいつつ、生徒が間違えた回答をしたら、がっかりするような表情をすれば、生徒は敏感に、「やっぱり、間違っちゃいけないんだ」と思うだろう。教師は子どもたちよりもずっと年上だし、そもそもが教える立場だから、子どもに対して権威的になりがちであるし、成績の悪い子どもには、蔑むような気持ちをもってしまいがちである。
 斉藤喜博の授業で、そこはどう対応するのか。
 まずは観察である。これは斉藤喜博の授業が、初めて会う子どもたちを相手にしているものなので、まず初めに、子どもたちの状況を知る必要がある。国語でいえば、まずは本文を音読させる。いきなり音読させるので、新出漢字などのチェックはしない。(担任教師であれば、新出漢字の読みや意味の確認をしてから音読というもの、もちろんありだろう。)だから、当然読めない漢字がある。それは、最初に「自由に読みなさい、間違ってもいいんだよ」と断っておく。そして、間違った読みがでてきたときの対応は、やはり、教師の人間性と知識、対応力によって、処理される。ここは、マニュアルのようにはいかない。斉藤喜博の対応法は、基本的には、間違いが、その子ども固有の問題ではなく、誰でも間違えやすいことであることを、納得できるように説明することである。「雲雀」を「くもすずめ」と読んだ子どもに対して、逆に、なぜ「ひばり」を「雲雀」と書くのかを説明する。高いところ、雲のような高いところで鳴く、雀のような鳥だから、「ひばり」の字をわざわざ作るのではなく、「雲」と「雀」をくっつけて「雲雀」を「ひばり」と読ませるようにしたのだ。だから、「くもすずめ」と読んだのは、漢字が当てはめられる過程を示したもので、単純な間違いではないんだよ。むしろ、大事なことを確認できたね、と間違いの積極的な側面をきちんと示すことで、正しい知識を確認するだけではなく、間違ったことでみんなに貢献したということまで確認する。
 このように、何人かに朗読をさせることで、個々の子どもたちの反応まで含めて観察し、子どもの状況を知るわけである。
 次に、前回書いたように、質問は、正解のないことについて行うということだ。
 日本では、小学校のころには、積極的に発言するが、中学、高校、そして大学になるにつれて、教師が発言を求めてもいわない傾向が強まってくる。それは何故なのか。いろいろなことがいわれている。多い意見は、間違ったらいけないというプレッシャー、意見をいうと、特別視されるというようなことだろう。そのほかに、「質問」するからには、先生も知らないのかも知れない、それで積極的に自分で教えてあげようという気持ちが、子どものなかで働く。しかし、その内、先生は知っていることを聞くのであって、自分たちを試しているのだ、と感づく。そして、裏切られたような気持ちになり、試されるのは嫌だと発言しなくなるという解釈もある。どれも正しいだろう。ただ最後の理由は、教師の「一致」に関わっている。質問が正解のないことであれば、教師にも実はよくわからないし、判断に迷っていることが多い。あるいは一緒に考えたいことだ。それは偽りではない。したがって、知っていることについて、子どもを試すために質問するということではなく、子どもと一緒に考えるための質問になる。
 このように、斉藤喜博の授業には、教師の「一致」が基本になっている。それを斉藤喜博が意識したかどうかはわからないが、子どもから信頼されなければ、いい授業ができないことは自明のことだから、信頼にかかわる「一致」をまず確認しておく。
 次にロジャースの重要な原則である「無条件の共感」について考えてみよう。信頼の上に、「無条件の共感」を実現することによって、クライアントは、自らの回復力を信頼することができるようになる。同様に、自分がどのように答えても、共感してもらえるという信頼が、自由な発言を促し、思考力や表現力を育てていく。
 前回の「春」の授業で、「なぜおかんはちいちゃいのか」という問いには、たくさんの答えがありうる。それは子どもにもわかるはずである。もちろん、そこで、教師が自分の考えに執着して、「作者は、実際には東京にいて、故郷にいるおかんを思っている、だから、遠くから見ている感じなので、ちいちゃく見えるんだよ」とひとつを正答とするような対応をしたら、子どもたちは「共感」してもらえないこともあるという姿勢に変化してしまうだろう。問いそのものが、多様な答えを想定しているだけではなく、それぞれを実際に共感しながら認めていくような授業。それが斉藤喜博の基本にある。だから、何の不安もなく、発言できるのである。
 ただ、こうしたことを実践するのは、言うほど易しくはない。私は、大学で教えるようになってから、ずっと発言を求める講義をしてきた。多いときには、400名近く履修のある授業もあったから、かなり学生たちには特殊な授業だったと思う。そういうなかで発言を引き出すことは、本当に難しかった。(これは、「最終講義」のなかで触れているが、とにかく試行錯誤の連続だった。)ただ、その際に心がけたのは、この斉藤喜博の原則であって、かならず、正解答のない問いかけをした。それでも大学生ともなると、正誤に関係なくても、「あいつの考えは変だ」などと思われはしないかというような不安があるという。また目立つことへの躊躇もある。だから、教師の生徒・学生に対する共感だけではなく、生徒同士、学生同士が「無条件に共感」するような集団に育てていくことも、完全には無理だとしても、方向性として必要である。
 授業論ではないが、教師がよい授業をする背景的条件として、教師集団の信頼、共感を斉藤は重視している。島小時代に行っていた教育研究集会で、島小のある女性教師に、元軍人という人が「こんなに素晴らしい実践ができるのは、何故か」と質問し、それに対して教師は、「平気で教師が遅刻できるような雰囲気があることです」と回答したところ、「教師が遅刻するとは何事か、それにそれを教師たちが問題にしないというのはおかしいではないか」というような突っ込みをいれたという。教師は、「自分の子どもが、朝ぐずって、泣いてしまう。遅刻してはいけないと、泣いたままにして家を出れば、どうしても気になって、授業に身が入らない。子どもをあやして、元気になるのを待って出かければ遅刻してしまうが、その代わり、安心して授業に打ち込める。もし、教師同士、また子どもが教師を本当に信頼していれば、何か理由があって遅刻しているに違いないと理解してくれる。そういう雰囲気があることが、私たちが、いい教育ができる条件なんです」と説明したという。この話を学生たちにしても、なかなか共感する人はいない。やはり、無遅刻無欠席がベストであるという刷り込みがあるのだろうか。(次は安井俊夫論)

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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