いよいよ、ナショナリズムと能力主義を超える方法を探る部分になった。ナショナリズムは、国民に一定の居場所を提供するが、余裕がなくなると、容易に排外主義に転化してしまう。そうならないために、どのような原則が必要か。
佐藤氏は、まず、能力主義を乗り越える原理を探る。氏は次のように述べる。
「学校教育がその子ども一人ひとりの得意なことを見つけさせ、その能力を活かし発揮させるように導きその子たちに生きる自身をもたせることこそが、教育の原点ではないのか。そうした能力形成を軽視し、受験競争のための知識獲得だけに駆り立てることが、どれほど重要だというのであろう。」
そうした具体例として、電気製品の修理の技術をもっている、歌や踊りにみんなが驚嘆する、料理や大工がとてもてきぱきとできる、そういう生活能力が、学校教育をきっかけに発揮されるようになることを期待する。
哲学者の特質なのだろうか、原理は確かに納得できるが、具体的な話になると、途端にあまりに卑近な話題になってしまう。その前に、現場の教師は、一人一人の能力を見つけさせ、その能力を活かすような導きを、全く意識せず、ただただ受験に勝つための競争に駆り立てているというのは、本当だろうか。そのような高校かありうることは否定しない。おそらく、進学校としての名声を獲得するために、特進クラスを創設して、スパルタ教育をして、進学校としての地位を獲得するべくひた走っている学校はあるだろう。しかし、それは、必ずしも多数ではないと思うし、また、小学校や中学校では、どの程度効果的であるかは別として、個々人の能力を見つけ、活かそうとしているのではないだろうか。学習指導要領ですら、そうしたことを否定しているようには、思われない。
だから、究明すべきは、個性を発揮させ、各人の能力を発見させ、活かすことを目指しながらも、それが意図するように実行できないメカニズムである。前回書いたように、少子化で大学全入時代になっている現在、受験競争に血眼になっている層は、決して多数ではないのだ。
第二の原理として、佐藤氏は、アメリカ諸国で提唱されているウブントゥという原理を評価している。「一人の人間が人間たり得るのは、他の人がいるからだ」という原理で、他人がいるから生きていける。しかし、異なるものが対立ではなく、どのようにして共同できるのか。再びアーレントの概念を採用する。「古代ギリシア以来、人間は異なるものとの協同に生きる意味を探ってきた。・・・私たちがこれまでの互いの利害を超えて、何か新しいことをこの世界で始めるなら、私たちは誰もが自分なりの新しいアイデアややり方を提起するだろう。・・・互いの違いを活かして共同に活動すること、すなわち「複数性」を生きることは人間がこの地球に生まれたことの最も大きな喜びであり、人間性が、もっとも高い意味で発揮されるものである。」
このようにアーレントを参考にしながら、佐藤氏は主張する。
しかし、私は考えこんでしまう。たしかに主張されていることに異論はない。私も、自分と違う意見と突き合わせることか好きである。授業で討論するときに、私の見解に異論を唱えてくる学生のほうが、頷いてくる学生よりも、その議論を続けたいと思うし、また、学生としても高く評価したい。巻頭論文だから、抽象的な理念を書くだけでよいということにはならない。そうした理念が、何故現場では実現しないのか。実現していない現実が、無視できないほどに存在しているから、こうした特集が組まれるわけだろう。だから巻頭論文の役割は、理念が実現していないのは、どこに問題があるのか、それを課題論として提起する、提起しないまでも示唆しなければ、消化不良を感じざるをえない。
だいぶ前のことだが、私のゼミの卒業生が、学級通信を発行していたら、学年主任からストップされたというのだ。一人が学級通信をだすと、かならず、他のクラスの担任から不満がでる。だから、学年通信をだすので、止めなさいというわけだ。学年通信と学級通信は、やはり、機能が異なるだろうし、伝えたいことのきめ細かさも異なってくる。学年通信があっても、別途学級通信を出したいと思う教師はいるに違いない。しかし、何故、他のクラスの保護者がクレームをつける可能性があるので、明らかに学級運営に効果がある学級通信をだせないのか。実は、こうした体質は、コロナ禍で、学校現場でもっと鮮明に出た。
コロナによる全国の学校閉鎖が起きたとき、ただちに、インターネットを使った遠隔授業の話がでた。そして、意欲的な教師や校長、そして、教育委員会の委員のなかには、これを積極的に行うことを計画し、検討した人たちが少なくない。しかし、多くの場合、それに待ったがかかっているのである。そうした機器のない家庭があるし、また、技術に習熟していない教師も多い。だから、一部の教師や学校だけがやると、不平等になるので止めなさいというわけだ。確かに、現在のITの普及状況では、ほとんどの学校で遠隔授業をするのは難しいし、その環境が十分でないことは事実である。しかし、休校が長く続くなかで、通信機能を使った指導をしなければ、事実上指導放棄となる可能性が高い。実際に、学校が再開されて、再登校した子どもたちの、少なくない部分は、まったく家庭学習をしていなかったといわれている。少なくとも、熱心な家庭とそうでない家庭との間で、大きな格差が生まれたことは間違いない。
もちろん、休校中に、遠隔授業等をしなければ、子どもの学力保障にならないことは、誰もが認めるだろう。そのことを認めても、実際に踏み出そうとする人が現れると、ストップがかかるのである。「新しいことをこの世界で始めるなら、私たちは誰もが自分なりの新しいアイデアや、やり方を提起するだろう。・・・互いの違いを活かして共同に活動すること、すなわち「複数性」を生きることは人間がこの地球に生まれたことの最も大きな喜びであり、人間性が、もっとも高い意味で発揮されるものである。」という佐藤氏の提起は、ほとんど活かされていないし、逆の現象が起きているのである。しかし、ほとんどの人は、佐藤氏の主張そのものは同意するに違いないのだ。
「新しいこと」ではあっても、「違い」とは無関係ではないかというかも知れない。しかし、この事態には、まさしく、「違い」を認めて対処することが必要だった。それは、インターネット環境がある家庭とない家庭。また、親が指導できる家庭と、難しい家庭。そういう様々な状況に応じた対応をとるという意味で、「相違」が共同を生み出す事例だったといえる。
私が校長だったら、教育委員会の了承をとって、次のように対応しただろう。このことは、別のところで、3月段階で書いている。(もちろん、そのように努力したろうということであって、実行できたかどうかは、わからないのだが)
休校措置が伝えられたときに、(私が校長なら、それ以前に通常の業務として)全家庭の通信環境を調査する。一定の準備期間はもちろん必要だが、通信環境が整っている(パソコン、タブレットが使え、常時接続の環境がある)、通信環境はあるが、子どもが専有して使える機器がない、機器はあるが、通信環境がない、両方ないというように分類し、完備している場合は、遠隔授業で対応できる。機器がない場合には、機器を貸し出す。(普段からそういうことに備える。)通信環境がない場合は、学校に登校してもらい、ソーシャルディスタンスを確保して、教室で授業を受けさせる。教師は、教室で通常よりも間引きした、特に必要な中心的教科にしぼって授業を行い、それをzoomなどのソフトを使って、家庭に送る。こうすれば、休校せずに授業を継続することができるのである。授業そのものを禁止されたら、復習をさせるかも知れない。
もちろん、このようにうまくいく保障はないが、そのように努力することはできるし、与えられた条件を最大限に活かせば、この状態に近づけることはできる。休校中も、家庭でみるひとがいない場合には、登校させ、学校で学習する場を与えることは、行政的に許容されていたのだから、できないことではなかったのである。問題は、こうした試みをやろうとすると、どこかでストップがかかるという点である。そして、これは、学校現場に広く見られる事実なのだ。「新しいことを」「協力して始めるのは」「人間の喜びだ」などと、彼らに言っても、態度を改めることはないだろう。
では、そうしたストップをかける管理職は、本当に、学級通信を出したり、あるいはオンラインでの教育をすることが、悪いことだと思っているのか。おそらくそうではないだろう。彼らも、ぜひやるべきだと考えているに違いない。しかし、そうすると、できる部分とできない部分がある。外的理由によって、できない者からの「不平等だ」というクレームにどうしたらいいだろうということだろう。あのクラスにはやってあげるのに、何故自分のところではやってくれないのか。もし、希望するところですべてが可能であれば、みんなやるように指導するかも知れない。しかし、オンライン教育は、明確に条件が欠けている家庭が多い。また、教師の技術・知識も覚束ない。それなら、みんなやらないようにすれば、不平はでるとしても、「不平等だ」というクレームは出ない。
ここには、いくつかの解決すべき課題がある。
ひとつは、教師の忙しさである。非常に意欲的な教師であれば、学級通信もつくるだろうし、また、個々の条件におうじて、家庭でオンラインを受けさせたり、また、登校させたりして、しっかりと必要な学習保障をするだろうか、その余裕や環境にない場合には、どうしても無理な家庭、教師もいる。教育の平等が、義務教育の原則である以上、明らかな不平等は避けなければならない。ならば、何もしない平等のほうがましだ。そういうことになるのだろう。つまり、教師の忙しさや教育条件の充実である。
そうした条件を充足した上で、教師の意欲を認めることである。教師は、だれでも教育的情熱をもってなったはずである。現場にでて、そうした情熱がしぼんでしまう。もし、情熱に水をさすようなことかなければ、多くの教師は、子どものために積極的にいろいろなことをすると考えてよい。そして、その試みが、教師によって異なっても、そして、異なることにクレームが保護者からきても、管理職は、教師を守る必要がある。
そうしてこそ、アーレントのいう、相互に異質なものか共同して新しいものを作っていく、人間的本質が充足していくのではないか。
それは、能力主義やナショナリズムとは、多少離れた問題であるような気がする。