『教育』2020.7を読む ナショナリズムと歴史と教育2

 前回は、津久井やまゆり園で殺傷事件を起こした植松聖に関する佐藤氏の分析に、多少の疑問を呈した。今回は、そこを引き継ぎつつ、次の部分に進みたい。
 植松は、「経済発展に寄与しない人間は存在理由がない」ということで、殺傷事件を起こしたとされるが、それに対して、佐藤氏は、それが本当なら21世紀は恐ろしい世紀であるとして、そうした観念を生みだした「能力主義とナショナリズム」の批判に進むのだが、私は、そこで一歩留まりたい。もちろん、「経済発展に寄与しない人間」も完全に存在理由があるし、生存権が保障されるべきである。しかし、そのような確認で済ますことができない問題であるとも感じるのである。それは、私がオランダにいたときの経験から考えることだ。
 私がオランダに滞在したのは1992年から93年にかけての一年間だった。比較的経済的に恵まれ、知的水準も高い人たちが住んでいる地域に住み、子どもたちを現地校に通わせた。地域の人たちとも親しく交わった。オランダは、まだまだ経済的にもうまくいっており、ユーゴ紛争によって発生した難民を多数受け入れていた。となりのドイツでは、トルコ系移民に対する暴力事件が相次ぎ、ネオナチなどが活発に活動していた。移民における問題児ドイツに対して、オランダは移民受け入れの優等生と、自他ともに許していた時期である。しかし、そのような時期であったにもかかわらず、近所に住むオランダ人から、「オランダ政府がやっていることは、間違っているとはいえないが、でも、私たちは、払った税金をもっと自分たちのために使ってほしいと思っている。なぜ、全然働いていない移民のために、私たちが払った税金を、あんなにたくさん使うのか。」と、ひそひそ声で語ってくれる人が何人かいた。彼らは、決して、ネオナチではないし、排外主義でもない。ただ、素朴にそう感じていたわけである。
 私は、その言葉がとても印象的だった。つまり、「正しい政策だ」と思っていても、どこかに割り切れない部分がある。そうした感情は、やがて増幅されて、ひとつの社会的勢力になっていく。私が10年後に、再び海外研修の権利をえて、オランダにいったとき、移民排斥を唱えるフォルタインという政治家が脚光をあび、総選挙にうって出た。投票一週間前に、彼は暗殺されてしまったのだが、逆にフォルタイン党は同情票があつまって、第二勢力になった。その後紆余曲折があるが、オランダ社会は、確実に移民排斥を唱える勢力が、強固な基盤を築いて、今に至っている。だから、このような排外主義的な感性が育つ、詳細な分析と、それに対する柔軟な対策が必要なのだと思うのである。
 佐藤氏は、能力主義とナショナリズムに、植松的な感覚が生まれる原因を見いだしている。佐藤氏の学校教育における認識は、「中等教育は学業成績で序列化することが至上命令になっている。学校教育はふたつの牢獄に振り分ける機関」という点にある。そして、それを補強する、来日したローマ教皇の発言を引用している。「日本は、・・家庭、学校、共同体は、一人一人が支え合い、他者を支える場であるべきなのに、利益と公立を追い求める過剰な競争によって、ますます損なわれています。」
 こうした側面があることは、否定できないが、日本の学校教育の現状を、このように規定して済ますことには、納得できないものを感じるのである。というのは、入学してくる大学生などをみても、中学、高校で競争主義に煽られて、身を削る思いをして勉学に励んだという学生は、あまりないのだ。むしろ、のんびりした中学、高校生活を送ってきたと語る学生のほうが多い。学力テスト以外で大学に入学する学生は、今や半数近くになる。大学全入が実現してから、既にかなりの年月が経過しているのである。全入が事実である以上、どうしても入りたい大学がある者以外は、それほど受験勉強に励むことはないのではないか。推薦入学も非常に普及しており、本当に大学が提供している指定校推薦に、みなが応募したら、学力試験の余地がないほどになるだろう。つまり、一方で能力主義的な学力競争が生徒たちを苦しめている場面と、能力主義競争は自分と関係ない、もっと違う道で大学に入ろうという生徒もたくさんいる。ゆとり教育から、学力中心主義に、文科省の政策は揺れたが、それは、こうした「競争主義」から、自ら敗北感もなく離れてしまう高校生を、どう扱ったらいいか、はかり兼ねていることの反映ではないか。
 佐藤氏は、能力主義と競争主義を全面的に否定しているのだろうか。そのように読めるのだが、能力主義や競争主義への批判が難しいのは、共に積極的な側面があるからである。たとえば、単位を認めるかどうか、ある人を採用するかどうか、それを能力の評価なしに行うことはかえっておかしなことだろう。やはり、能力の判定は、教育にとって不可欠の作業である。歴史的には、能力主義は、世襲主義、身分主義に対抗してでてきた進歩的な概念だった。日本の能力主義的競争主義は、偏差値とか、入学試験の在り方によって規定されている面が強く、能力主義の奇形ともいえるものだ。欧米でも能力主義だが、日本とは様相が異なる。だから、能力主義そのものではなく、その形態を考察し、違う形を模索することも必要だと思うのである。
  ローマ教皇の談話も、そういう意味では、多少割り引いて受け取る必要がある。(1970年にOECDの教育調査団が来日し、日本の教育の実情を調べて報告書を公刊した。非常に有名になった言葉として、「日本の青年は、18歳の1日で生涯の運命が決まる」という表現があった。象徴的な言葉としての意味はわかるが、1970年といえば、まだ大学進学率はそれほど高くはなかったから、18歳の1日という大学入試で人生が決まるところから外れている若者は多数いたし、また、浪人などやり直しの機会もあった。むしろ、当時のヨーロッパの中等教育制度では、大学に接続される高校以外からは、大学にいく機会すら与えられていなかったことと比較すれば、大学進学の機会は、高校生に対して広く開かれてもいた。教育の制度は、複合的に見なければ、真実を見失う危険が高いことを胆に銘じる必要がある。)
 さて、次に、佐藤氏は、そもそも自立的な人間の要件として、「自我は一人になることによって実現される。また仲間と相互に信頼し合う付き合いのなかで、確かめられる」というハンナ・アーレントの言葉を引用する。こうした「自我」を抑圧するのが全体主義であるが、佐藤氏は、日本の学校教育が、まさしく全体主義と同様に機能しており、子どもたちは「友達地獄」に置かれていると嘆息する。おそらく、日本の学校における「同調圧力」を批判しているのであろう。確かに、そういう側面はある。ただし、同調圧力と協力とを区別しつつ、完全に線引きできないことも忘れてはならない。同調圧力を否定するあまり、協力することの大切さを失うことは、頷けない。
 日本の学校教育で、どのような同調圧力があるのか。まずは服装や持ち物に対する「統一仕様」の強制がある。特に中学になると、制服、スポーツウェア、バッグなどは、指定のものを使わなければならないことが多い。小学校では、ノートなどの学用品が指定されていることが少なくない。そして、「行事」は、多くが同調圧力の場である。授業ではどうか。近年、教師の質問への対応が、形式的に決まっている場合がある。賛成意見はパー、反対はグーとか、回答したら「いいですか」とみんなに聞き、「いいです」と答える等々。持ち物、や行動を「同じ」ものにしていくという大きな力が、学校教育のなかで働いていることは、否定できないだろう。そして、そうすることが、学級のまとまりを作っていくことだと、多くの教師たちは考えているに違いない。しかし、それは佐藤氏のいうように、大いに再考しなければならないだろう。
 さて、能力主義と競争によって「居場所」を失った者に、国家が居場所を提供するのが、ナショナリズムであると、佐藤氏は指摘する。軍隊的な体育教育、オリンピック・パラリンピックなどに見られる国家意識の動員など、近年の学校に強力に押しつけられていることは間違いない。ただ、「身分差別を廃止したが・・・統合原理としての国民国家内の国民への人間像の押しつけ、強い画一性を遂行してきた」「富と教養、能力主義の基準によって国民を序列化し、富の格差をやむをえぬものとして、国民に認めさせ、・・選別を個人の宿命として引き受けるように強いてきたのである」と書いている。そして、ナショナリズムと能力主義の克服の道を探るのが次の課題となる。合わせて、次回に検討する。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です