昨日の文章に、なんとなく不十分な感じが残ったので、続けて考えていた。そして、「自然災害」に関する感じ方の相違があるのではないかと思い至った。日本人の一般的な感性のなかに、日常生活のなかではあまり争わない傾向があるとか、諦めの感情が強いなどという性質があるように思うのだが、それは、自然災害の多さに由来していると思う。日本ほど、多数の種類の自然災害に見舞われる国はあまりないといえるだろう。台風、地震、津波、大雨、大雪、冷害、火山爆発、干ばつ等々。これらのいくつかをもつ国はいくらでもあるが、全部に見舞われる国は、あまりないだろう。日本人の歴史は、自然災害との闘いの歴史でもある。中国や朝鮮半島のような「戦闘」の時代が少ないのは、主な闘いの対象が人ではなく、自然だったからといえる。
自然災害に対しては、人はどうすることもできない。台風をこさせないとか、地震がおきないようにすることは、現在の科学技術でもできない。だから、自然災害の被害にあうのは、被害者の責任ではないという感覚になる。しかし、長く、同じ自然災害に対処してくると、当然対処によって被害を防いだり、災害があっても、被害を受けないように、あるいは小さくすることは、ある程度可能になる。日本の技術は、そういうものが多い。大きな地震でも倒れない建築。洪水を防ぐダムや堤防、あるいは水田の利用。天候に影響を受けにくくする農業関連技術等々。現在の技術では、被害をほとんどおさえることができないのは、大規模火山爆発くらいではないだろうか。
新型コロナウィルスはどうか。もちろん、ウィルスは自然のものだから、自然災害だろう。ほとんどの人が、感染を「自業自得」と考えない国の人たちは、この自然災害は人為的には避けられないという部分を重視しているのだろう。しかし、感染経路がある程度わかっている以上、感染しにくい手だてを講ずることはできる分、人災的要素もある。
つまり、日本人は、自然災害は、原因が自然であって、その原因そのものは防ぐことはできないが、被害は人の技術と努力によって小さくすることができるという感覚を、ほとんどの自然災害に対してもっており、新型コロナウィルスにしても同様なのだろう。すると、やはり、部分的には「自業自得」的な受け取りも、合理的な判断として成立しうるのである。クラスターが発生していると、これだけニュースで流され、あるいは3密が感染を起こす危険性を高める、と言われているのに、夜の街、接待を伴う店に出かけて感染したとなれば、自らの行動で感染したと考えるは、不合理ではない。それに対して、自然災害が日本ほど多くない国に住む人にとっては、自然災害は人の努力で防ぐことはできないという側面が強く感じられるのではないだろうか。それも合理的な発想かも知れない。
いずれにせよ、「自業自得」と考える人が多い日本人は、差別的になりやすいというような評価には、違和感を感じる。