「セクシー田中さん」の問題から、原作改変について、私のよく知る分野で考えてみたいと思った。というのは、私が最も好きな芸術であるオペラこそ、この改作が最も酷い状況にあると思われるからである。オペラになじみのない人がまだ多いと思うが、近年上演されるオペラのドラマの要素を、原作に忠実に演出されることのほうがめずらしいといえる。極端な例では、まったく時代も登場人物も粗筋も変わっている場合すらある。そして、どこまで許され、あるいは許されないのか、改作の結果どうなっているのか、といろいろと考えてみたい。
まずオペラで改作が普通になっているのには、明確な理由があると思う。それは、オペラの新作があまりなく、あったとしても人気を獲得するオペラは、皆無といっていい状況だからである。いわゆる人気オペラと一般に認められる作品の最後は、リヒャルト・シュトラウス作曲の「ばらの騎士」だといわれている。これは、1911年に初演されているので、100年以上前のことになる。つまり、100年にわたって、人気オペラは登場していないのである。新作オペラが上演されても、だいたい新演出に到るものは極めてかぎられている。つまり数年経過しても、なお上演されており、新しい演出で再登場するということは、近年の新作オペラではきいたことがない。アルバン・ベルク、バルトーク、ストラビンスキー、ショスタコーヴッチ、その他わずかな作曲家のオペラが、継続して演じられているが、ポピュラーな人気オペラとはとうていいえない。
オペラは「劇」だから、当然舞台で歌手が演技をしながら歌う。そして、ストーリーがあり、大道具・小道具がある。しかし、それをずっと同じ演出で上演していれば、やがて飽きられるから、違う演出家が違う演出を施して、新演出上演を出すわけだ。しかし、当然著作権の制約があるから、音楽や歌詞を変更することはできない。変更できるのは、演出面だけだ。とくに、戦後世界中にオペラ劇場ができるようになり、人気オペラは頻繁に、世界のどこかで上演されており、しかも、音楽ジャーナリズムによって、その批評などがでると、当然比較されることになり、新しい演出が話題の中心になってきた。話題となり、集客のために、目立つ演出が求められるようになり、2、30年前あたりから、オペラ上演の中心を演出家が担うようになった。そして、次第に原作とは似ても似つかぬような演出が横行するようになったのである。しかし、著作権の同一性保持権として、保護さる楽譜と台詞を変更することはできない。無視されるのはト書きである。ト書きが著作権の対象であるのかどうかは、著作権法の解説を読んでも、よくわからないのだが、実際上、ト書きが尊重されているとはとうてい思えない演出が多数あるわけである。
原作を知らず、また歌詞を重視せずに鑑賞している分には、特に不自然ではないような改変もあるが、歌詞をよく知っている者にとっては、やはりがまんならない例は、たとえばモーツァルトの「フィガロの結婚」の第一幕で、こんな舞台があった。
伯爵から睨まれている小姓のケルビーノが、スザンナに伯爵夫人への想いを訴えにくる。そこに伯爵がやってくるので、あわてて大きな椅子の後に隠れる。そして、伯爵が椅子の後にまわってくると、あわてて椅子のカバーに隠れる。しかし、見つかってしまうと、椅子やそのカバーに隠れていたと言い訳し、伯爵がスザンナに言い寄る場面を感知していたことが伯爵にばれてしまう。上演の際に必ず笑いが起きる場面だ。
しかし、ある上演で、椅子ではなく、窓のカーテンに隠れるようにしていた。しかし、当然、歌うときには、「椅子の後に隠れていました・・・伯爵が椅子の後にきたときには、椅子のカバーに」と歌うわけである。つまり、実際の動作と台詞が完全に違っていることになる。このオペラを詳細に知っている聴き手で、そういう演出を好ましいと受け取る人がいるのだろうか。
更に、大改変では、時代背景、人物設定や、当然ストーリーも変わってしまうような演出も多々ある。
ワーグナーの「タンホイザー」は、中世の吟遊詩人の話だが、現代の画家とか、詩人の話になっている演出がある。同じくワーグナーの「さまよえるオランダ人」は、死ぬことのできないオランダ人が、自分を救ってくれる女性をもとめて放浪し、ゼンタによって救済されそうになるがだめになる話だが、近代的な工場の話になっている演出がある。また、モーツァルトの「ドン・ジュバンニ」は、騎士が女性遍歴をする筋だが、売春宿でのできごとに変わっているのが話題になった。
それでも、ザルツブルグ音楽祭でのヨハン・シュトラウス「こうもり」ほど、酷い改変はまだみたことがない。シュトラウスの作品であることでもわかるように、陽気なドタバタ喜劇だが、恐ろしく暗い廃墟で、よく理解できない復讐劇のようなものが進行する。正直、舞台上で行われていることが、ほとんど理解できなかった。
こうなると、「原作」とは何か、と深刻に考えなければならなくなる。(つづく)