小沢征爾さんが亡くなった

.小沢征爾が亡くなった
 小沢征爾氏(以下むしろ敬意をこめて、敬称を略す)が亡くなったというニュースが流れた。大分前から癌を患い、演奏活動は激減していたから、いずれこういう日がくることは、大方予想されていたが、いざとなると、やはり、戦後日本の音楽の歴史が変わっていくだろうと思わせる。
 私自身は、指揮者としての小沢征爾のファンではなかったし、むしろ批判的な感情をもっていたが、ただ、実演に接したときには、いずれも非常に感心した。ただ、感動したというのではないのだ。そこが微妙なところだろう。

 小沢征爾の実演を聴いたのは、あまり多くない。
 最初は二期会の公演によるムソルグスキー「ボリスゴドノフ」だった。それから、近所の音楽ホールにきたときに、新日フィルでモーツァルトのディベルティメント、プロコフィエフのピアノ協奏曲3番、そして、ベートーヴェンの7番の交響曲というプロで聴いた。
 サイトウキネン音楽祭で、ベートーベンの運命ともう一曲(忘れてしまった)、バッハ「ロ短調組曲」、ベルリオーズ「ファウストの拷罰」をゲネプロと本番を聴く機会があった。本番はこれだけだ。CDもボックスを二組(フィリップスとEMI)をもっているだけで、個別には数枚もっているだけだ。

 さて、感心したが、感動はしなかったというのは、小沢を聴いたあと、ほとんどの場合感じる印象なのだ。
 始めて小沢を聴いた二期会のボリスゴドノフだが、当時はまだ原典版ではなく、リムスキー・コルサコフ版だったのだが、小沢は始めてこのオペラを振るということだった。しかし、すべて暗譜だった。指揮台にはまったくスコアが置いてなかった。この複雑なオペラを初めて振るのに、暗譜というのは、正直驚いた。だいたいオペラを暗譜で振る人は、ごくごく少ない。カラヤン、アバド、クライバーのような特別な人だけだろう。小沢は、オペラはあまり振ったことがないにもかかわらず、だ。
 指揮ぶりは非常にダイナミックでその指示ぶりは、見ていてもよくわかるものだった。いまでも国境の酒場の場面は、覚えている。
 モーツァルトのディベルティメントは、第一楽章の細かいニュアンスがついた演奏にびっくりした。ほとんどの演奏は、あのような繊細な表情がついていない。これが斎藤秀雄の教えなのだろう。この曲をこんな風に味付けできるのかと感心したものだ。上記のなかで、最も感動したというのに近いのは、ファウストの拷罰だろう。ただ、これも、オーケストラのうまさに感心した部分が強い。

 小沢の演奏を聴くと、どうしても指揮のうまさに感心してしまい、音楽そのものが迫ってくるものをあまり感じないのだ。小沢征爾の勉強家ぶりは有名だ。毎日朝早く起きて、数時間はかならずスコアの勉強をするという。
 小沢が始めてウィーン・フィルの定期演奏会に呼ばれたとき、メインの「春の祭典」のある部分を指定して「ここから始めましょう」といったのだそうだ。そして、あのウィーン・フィルの団員が苦笑いをして、小沢の下調べの完璧さに驚いたというのだ。というのは、その少し前に、マゼール指揮で録音したのだが、そこが一番うまくいかなかった箇所だったからだ。つまり、オーケストラの特性、力量をちゃんと調べてきたということを団員たちが、たちどころに理解したわけだ。そして、その後も小沢に対するウィーン・フィルの信頼は強いものがあったという。

 ただ、このように感心はするのだが、演奏そのものが、ぐっと胸に迫ってくる、という体験が、小沢に関してはほとんどないのだ。トスカニーニ、フルトヴェングラー、ワルターなどの巨匠はもちろん、カラヤン、アバド、バーンスタイン、ベームなどの名演奏は、単なる感心ではない、感動をもって迫ってくるものがある。もちろん、いつもではないのだが。
 だが、小沢の演奏は、もしかしたらうますぎるのかも知れない。日本人の演奏家としては、五嶋みどりのほうが、ずっと心に迫るものを感じる。
 もしかしたら、小沢の本当に感動的な演奏を聴かないでいるだけなのかも知れない。

 小沢のもっともすごいと感じるところは、高齢になっても、常に新しいものを開拓しようとしたことだ。ボストンを長くやったあと、ウィーンの国立歌劇場のポストを引き受けたことがその典型だ。もともと小沢はオペラが得意ではなかった。それは自身度々述べていたことだ。最大の原因は言葉の壁である。ヨーロッパで育った人なら、指揮者を目指す人は、日常生活のなかで、主要なオペラ言語は修得していく。しかし、ヨーロッパに渡るまでの小沢には、そういう機会はなかった。だから、理解はしていても、ヨーロッパの指揮者のように、言語文化をマスターすることは困難だった。それが最も弱点となるのがオペラの指揮だ。だからこそ、長年のボストンをきってまで、ウィーンのオファーを受けたのだろう。
 しかし、私の知る限りでは、ウィーンでの評価は高くなかった。モーツァルトのオペラで、レシタティーボの部分の伴奏はチェンバロ奏者にまかすのに、そこまで指揮をしたというので、顰蹙をかったようなことが書かれていたことがある。さすがに、大きな批判をうけて、その後はチェンバロにまかせるようになったというが。そうしたちぐはぐさは、ウィーンのニューイヤーコンサートでも表れた。あの演奏に感動したという人が多いが、私はずっと聴いているニューイヤーコンサート(私はボスコフスキー時代から聴いている)のなかで、最悪の部類だった。なにしろウィンナ・ワルツらしくないのだ。実際にオケのメンバーから相当苦情が出ていたらしい。ある演奏会は計4回あるのだが、元旦の前の演奏会では、休憩時間に団員からいろいろと忠告があったそうだ。元旦の本番では楽しそうにやっていたから、一応諒解がついたのか、外交儀礼なのかわからないが、その後オペラの音楽監督を実際にやっていたときには、ついにニューイヤーコンサートには呼ばれなかったのだから、やはり、拒否的だったのだろうと思う。

 ただ、これは、やはり小沢征爾という指揮者が、単純にヨーロッパの伝統をそのまま真似するのではなく、東洋人として、日本人として、その特質を失わないままに、ヨーロッパの音楽をも消化するにはどうしたらよいか、ということに、ずっと拘り続けたからなのだとも思うのである。日本人としてはじめて、ヨーロッパでもトップグループの指揮者として認められたからこその、開拓者的苦悩があったのだと思う。


.ボクシングはスポーツか?
 昨年の12月26日に行われた日本バンタム級王座に挑戦したプロボクサーの穴口選手が、試合後倒れ、病院で手術を受けたが、意識が戻らず2月2日に死亡したというニュースが、大きな話題を呼んでいる。死因は右硬膜下血腫ということだ。

 様々な論議を呼んでいるが、そのなかで、「だからボクシングはスポーツではない、という議論はおかしい」というような意見が多数あった。こういう事故がおきることとは関係なく、私は、ずっと以前から、ボクシングをスポーツとして扱うことに反対してきた。それは、ボクシングという競技がスポーツとしての基本的性格から逸脱していると考えるからである。もちろん、ボクシングという競技そのものを廃止すべきであると主張する気持ちはない。やること、みることが好きな人がたくさんいるのだから、危険な競技であることを承知でやることまで反対する理由はない。しかし、スポーツであると位置付けられ、オリンピックはもちろん、学校の部活になっている場合もあるのだから、本当にスポーツとしての意味があるのかどうかは、きちんと議論される必要がある。

 私がスポーツである条件と考えるのは以下のことである。
・詳細なルールが決まっている。そこには行うべき運動、型、そして、禁止される運動、型等が明確に決まっている。
・そのスポーツの結果が数量的に計測される場合には、その量によって勝敗が決められる。(陸上の投擲、跳躍競技、スキーのジャンプ、滑降、バレーボール、バスケットボール、サッカー、野球等々)
・順位を競う競技では、順位(競走、競泳等々)
・演技を競う場合には、演技の難易度、点数などが明確に決められていること。判定の透明性。
・直接対峙して力技を競う場合には、勝ちの型によって判定。
 問題になるのは4番目で、ボクシングもこの類型にはいる。しかし、ボクシングだけ、判定基準がまったく異なる要素がはいっているわけである。
 柔道、フェンシング、レスリング、空手、そしてオリンピック競技ではないが相撲、県道などすべて、勝ちとされる技の型が決まっていて、その型が実現されれば勝ちとなるのであって、たとえば柔道の投げ技が決まったときに、相手に怪我をさせてしまうことがあったり、あるいはたてなくなったりしても、そのことが勝敗に影響するわけではなく、あくまでも結果としての事故である。つまり、相手に身体的な打撃を与え、対戦困難な状況に追い込むことが、カウントされることはない。
 ところが、ボクシングだけは、そういう直接的、実質的な身体的打撃がカウントされる。ノックアウトというのは、一定時間立ち上がることができないほどの打撃を受けたということで、勝利になる。そして、その勝ち方が最強であるとされている。もちろん、重大な身体的ダメージを受ける前に、レフリーが試合をとめ、ダメージを与えた者を勝ちとするように配慮はされている。だが、今回の場合、接戦だったために、それが難しかったという。そのために、試合後その場で倒れることになったが、実は、他にも、試合から何カ月か経過してから、発症し、最悪死亡するという例は、報道されないが少なくないとされている。頭を強打することもあるわけだから、脳出血していることは当然ありうる。それが少量であれば、すぐには症状がでないが、少量の出血がつづいて、ある時点で発症するような場合である。

 ボクシングを愛する人にも、ボクシングが極めて危険なスポーツであることは十分に理解できるだろう。今回の事件で、安全策を講ずるべきだという意見はけっこうあるが、具体的な安全策を提示している書き込みには、これまで接していない。これまででも事故はあったのだから、これから考えようなどというのは、無責任だといわざるをえない。
 私は、まずスポーツという類型からはずすべきだと思うが、最低限、以下のことはすべきではないかと思う。
・アマチュアのように、頭をガードするものを身につけて試合をする。
・ダウンやノックダウンをカウント要素からはずし、あくまでもどこを打ったか、という型でカウントする。そして、危険な場所(頭等)への打撃を禁止し、行った場合には、減点する。

 そんなのはボクシングじゃない、迫力がなく、つまらないということであれば、スポーツとしてのボクシングではなく、「格闘技」として行えばよい。


.原作改変を考える オペラの場合
 「セクシー田中さん」の問題から、原作改変について、私のよく知る分野で考えてみたいと思った。というのは、私が最も好きな芸術であるオペラこそ、この改作が最も酷い状況にあると思われるからである。オペラになじみのない人がまだ多いと思うが、近年上演されるオペラのドラマの要素を、原作に忠実に演出されることのほうがめずらしいといえる。極端な例では、まったく時代も登場人物も粗筋も変わっている場合すらある。そして、どこまで許され、あるいは許されないのか、改作の結果どうなっているのか、といろいろと考えてみたい。

 まずオペラで改作が普通になっているのには、明確な理由があると思っている。それは、オペラの新作があまりなく、あったとしても人気を獲得するオペラは、皆無といっていい状況だからである。いわゆる人気オペラと一般に認められる作品の最後は、リヒャルト・シュトラウス作曲の「ばらの騎士」だといわれている。これは、1911年に初演されているので、100年以上前のことになる。つまり、100年にわたって、人気オペラは登場していないのである。新作オペラが上演されても、だいたい新演出に到るものは極めてかぎられている。アルバン・ベルク、バルトーク、ストラビンスキー、ショスタコーヴッチ、その他わずかな作曲家のオペラが、演じられているが、ポピュラーな人気オペラとはとうていいえない。
 オペラは「劇」だから、当然舞台で歌手が演技をしながら歌う。そして、ストーリーがあり、大道具・小道具がある。しかし、それをずっと同じ演出で上演していれば、やがて飽きられるから、違う演出家が違う演出を施して、新演出上演を出すわけだ。しかし、当然著作権の制約があるから、音楽や歌詞を変更することはできない。変更できるのは、演出面だけだ。とくに、戦後世界中にオペラ劇場ができるようになり、人気オペラは頻繁に、世界のどこかで上演されており、しかも、音楽ジャーナリズムによって、その批評などがでると、当然比較されることになり、新しい演出が話題の中心になってきた。話題となり、集客のために、目立つ演出が求められるようになり、2、30年前あたりから、オペラ上演の中心を演出家が担うようになった。そして、次第に原作とは似ても似つかぬような演出が横行するようになったのである。しかし、著作権の同一性保持権として、保護さる楽譜と台詞を変更することはできない。無視されるのはト書きである。ト書きが著作権の対象であるのかどうかは、著作権法の解説を読んでも、よくわからないのだが、実際上、ト書きが尊重されているとはとうてい思えない演出が多数あるわけである。

 原作を知らず、また歌詞を重視せずに鑑賞している分には、特に不自然ではないような改変もあるが、歌詞をよく知っている者にとっては、やはりがまんならない例は、たとえばモーツァルトの「フィガロの結婚」の第一幕で、こんな舞台があった。
 伯爵から睨まれている小姓のケルビーノが、スザンナに伯爵夫人への想いを訴えにくる。そこに伯爵がやってくるので、あわてて大きな椅子の後に隠れる。そして、伯爵が椅子の後にまわってくると、あわてて椅子のカバーに隠れる。しかし、見つかってしまうと、椅子やそのカバーに隠れていたと言い訳し、伯爵がスザンナに言い寄る場面を感知していたことが伯爵にばれてしまう。上演の際に必ず笑いが起きる場面だ。
 しかし、ある上演で、椅子ではなく、窓のカーテンに隠れるようにしていた。しかし、当然、歌うときには、「椅子の後に隠れていました・・・伯爵が椅子の後にきたときには、椅子のカバーに」と歌うわけである。つまり、実際の動作と台詞が完全に違っていることになる。
 更に、大改変では、時代背景、人物設定や、当然ストーリーも変わってしまうような演出も多々ある。
 ワーグナーの「タンホイザー」は、吟遊詩人の話だが、画家とか、詩人の話になっている演出がある。

.漫画のドラマ化で原作者が自死
 この問題を知ったのは、事件(原作者の自死)の前に、さっきー氏のyoutubeを見たからだった。テレビの裏側を解説するというyoutubeで、なるほどと思うことが多いのだが、このなかで、「セクシー田中さん」というドラマで、原作者と脚本家の争いになっているということから、珍しい揉め方として紹介していた。原作をかなり改変してドラマ化することはよくあることだが、通常は、表立ったトラブルにはならないというのだ。というのは、ふたつのパターンがあって、改変されることを嫌う原作者が、ドラマ化を断るか、改変されるのは、いっても無駄とあきらめて、任せてしまう場合のどちらかがほとんどだという。もちろん、当事者にとっては、どちらかが不満足な展開になるのだが、トラブルにはならないという。今回の場合には、原作者が、原作を改変しないことを条件にしたが、それにもかかわらず改変が行われ、原作者が自分で脚本を書くという事態になったことが、極めて例外的だという解説をしていた。そして、この問題が難しいのは、だれもがよかれと思っていることだ。改変する脚本家やプロデューサーにしても、面白くなくするために改変するのだ、などということは絶対になく、このほうが面白いと考えて、改変する。原作者は原作の形をベストと考えているのは当たり前だ。善意と善意がぶつかり合って、トラブルになると、解決が非常に難しいというのが、さっきー氏の結論だった。
 そして、その後あまり日時がたたない時点で、事件が報道された。その後のネットの情報等を見ると、原作者と脚本家の間で、SNS上でのやりとりがあり、脚本家への批判が強く、また、テレビ局(日テレ)や出版社への批判を強まっている。

 ただ、私は、この漫画もドラマもみていないので、この問題に関しては見解を述べられない。ただ、小説のドラマ化については、このブログでも、「鬼平犯科帳」と「シャーロック・ホームズ」で、原作とドラマの比較検討を大分行ってきた。当然、違うジャンルに移す場合、どうしても表現形式が異なるので、ある程度改変が必要であることは、誰でも認めることだろう。原作者でもそれは受け入れるに違いない。どうしても嫌であれば、ドラマ化等を拒否するに違いない。
 ただ、今回の漫画の実写化の場合には、他のジャンルの場合と異なる要素があるかも知れないと思うのである。
 小説をドラマにする場合、小説は必要なことを書くのに対して、それをドラマにすれば、小説には当然書かれていないことも、表現しなければならない。そういう要素は実にたくさんある。たとえば、食事の場面で、何を食べているかが書かれていても、食器や部屋の様子、服等々まで書かれていることは少ない。しかし、食事をしている以上食器が使われるのは当然だが、その食器のイメージが原作者と脚本家、監督などで異なる場合も出てくる。こうしたことが無数にある。
 更に、小説の展開では不要でも、ドラマではあったほうがよい場面などもたくさんあるだろう。小説の展開とドラマの展開の順番が異なる場合もよくあるし、ドラマでの変更が合理的と思われることも少なくない。
 それぞれのジャンルには、表現様式があるから、そのなかで表現したい内容をとりだすのであって、それ以外の部分は表現しないままだ。そして、ジャンルが違えば、表現方法が異なるから、当然強調点が異なってくる。一番わかりやすいのは、長編小説を映画にするような場合だ。長編小説は朗読すれば、何十時間もかかるだろうが、映画はせいぜい3時間程度におさめなければならない。だから、小説に書かれている場面でも、大部分はカットしてしまう。連続ドラマにしても、同様だろう。小説家が映画化を承諾したときには、そうしたカットを当然のこととして受け入れるだろう。

 ところが、漫画の実写化は、少々違う面があるように感じるのである。映画制作では、原作があり、脚本があるが、それだけでは具体的映像イメージが乏しいので、絵コンテを作成して、それをもとにして、書かれた大道具、小道具、そしてその配置や人物の動きなどを共通認識にして制作していくようだ。つまり、原作(小説)や脚本だけでは、できあがりのイメージがつきにくい、それを示すのが絵コンテだ。
 漫画家の場合、自分が描いている絵をそのまま絵コンテとして使用してもらえば、台詞ははいっているのだから、漫画に極めて忠実で、ほとんど変更のない実写化が可能なはずだ、と思うのではないだろうか。小説家や戯曲家と違って、漫画家は、自分の描きたいことを、最大限漏れなく描きたいという意思をもって人なのだろうと思う。だから、それを実写化する場合にも、それにしたがってほしいし、それが可能だと思っているのではないか。そして、そういう思いは決して不合理ではないし、なるほど可能だと思うのである。おそらく、さっきー氏のいうように、変更仕方なしとしてあきらめる漫画家もいるが、それを拒否して実写化を断る人も少なくないに違いない。それは、自分が創作した内容が、部分的表現ではなく、全体を描ききっているからだ、という思いからだ。

 だが、ドラマ制作者にとっては、だからそうできるとは思えない要素も確実にある。たとえば、漫画で描かれている人物を演じるのにふさわしい俳優がいるかということだ。というより、漫画にぴったりのイメージの俳優を配置することのほうが、稀であるかも知れない。漫画で描く以上、当然個性的なわけだから、似た個性の俳優をさがす難しさは容易に想定できる。また、いたとしても、まったく知名度がなく、主人公にあてるわけにはいかない。それなら、漫画のイメージとは違っても、人気俳優をつかったほうが、ドラマとしては成功する可能性が高い。そうすると、その俳優なら、原作と少々違うストーリーにしたほうがぴったりくる、というようなこともおきてくる。漫画のアニメ化なら、そうした問題はおきないだろうが、実写化とすると避けられない。脚本家は、当然採用されている俳優を考慮しつつ、ストーリーや台詞を書いていくわけだから、そこで、原作と乖離していくことは、十分にありうることだろう。
 その漫画家の想いと、実写化の制約の相剋はなくなることはないかも知れない。ただ、今回の事件では、脚本家が、原作者を非難するような書き込みを行ったことは、批判されてしかるべきだろう。

.西武・ソフトバンクのFA騒動
 もうすっかり過去のできごとになってしまったが、プロ野球オフのひとつの騒動として、FAに関連する人的補償問題があった。経過は次のようだった。
・女性問題を起こした西武の山川が、FA宣言をした。
・GMの王は反対したとされているが、現場の強い要望で、ソフトバンクが西川をとった。
・FAで移動する選手がでると、人的補償というシステムで、だれかが代わりに西武にいかねばならないのだが、自由に指名できるのではなく、指名できない選手をソフトバンクはプロテクトすることができる。その名簿以外からほしい選手を指名するのだが、プロテクトされていないなかに和田がいたので、西武は和田を指名したらしい。
・ソフトバンクが和田にその旨伝えると、和田は、西武にいくなら引退するという意思を伝えたという。
・あわてたソフトバンクは、西武と交渉し、プロテクトされていた甲斐野を指名して、了承された。
 以上が経過である。これらの一連の途中経過は、秘密なので、漏れ伝わっているにすぎない。しかし、とんでもなく事実と違うことが報道されることは、この手のニュースではあまりないので、大方正しいのだろう。
 一応、こうした事実があったという前提で考えたい。

 まず、和田への批判がかなり強かったようだ。日本プロ野球におけるルールなのだから、和田には拒否することはできないのに、なんとか居残ろうという姑息な手段をとったということなのだろう。ただ、これに関しては、まったく的外れの批判だと思われる。というのは、人的補償の対象となった選手は、通常はそのまま移籍するが、どうしても受け入れられないときには、拒否することができるが、そのときには、プロ野球界から引退しなければならないというルールなのだそうだ。そういう意味では、移籍を拒否して引退する、という認められた道をとると宣言しただけなのだから、なんら非難される理由はない。実際に、あわてたソフトバンクが次善の策をとろうとしなければ、和田は引退したのだろう。その場合、つよい同情の念が起きただろう。
 選手個人からみれば、妙な制度だ。プロテクトされないということは、所属球団からいなくてもこまらないという烙印をおされたようなものだが、相手の球団からはぜひ来てほしいということだ。トレードもそうだが、トレードの場合には、球団にとっては、ほしい選手を双方がとれるし、選手にとっては、環境をかえることで、活躍の場を確保できることが多い。だが、人的補償の場合には、やはり、犠牲にされるという印象が強い。

 ソフトバンクは、まさか和田が指名されることはないと思っていたようなのだ。実際に、前年にもFA獲得選手がいて、その際にも和田をプロテクトしなかった。それは、和田は既にプロ野球選手としては高齢であり、かつ高額の年棒をとっている。そういう選手を指名するはずがないということで、あえて和田をプロテクトから外していたというのだ。ありうる話だが、姑息といわざるをえない。当然、何故和田をプロテクトしないのか、という批判も強くあるし、和田を出すつもりもなかった球団は、あわてて西武と交渉し、甲斐野を代わりに提供したというわけだ。しかし、甲斐野は、活躍が期待されていた選手で、プロテクトしていたのに、とられてしまったということで、ソフトバンクとしては、大きなマイナス面を生じさせてしまったことになる。指名されないはずだ、などという安易な考えで、プロテクトから外し、いざ指名され、当人から引退を申し出られると、あわてて、やってはいけない交渉をもちかけて、かえって不利な結果を招いてしまった。
 選手からフロントへの不信感も当然起こっただろう。

 ただ、一連の騒動をみて、一番感じたことは、人的補償なる制度の不合理性である。そもそも、FAというのは、ある年限出動し、一定の条件を満たした人物が、他の球団と入団交渉ができる制度である。世の中の職場は、入りたい職場を志望して、入社試験を受けるわけだが、プロ野球は周知のように、各球団が一方的に取りたい選手を順番に指名し、重なったときには抽選で入団するところをきめる。ドラフト制度だ。選手側の意思は無視されるシステムである。だから、その代わりに、FAという制度を導入しているわけだ。大リーグの制度を真似てつくったわけだが、大リーグよりは、ずっと選手に不利で球団に有利にできている。その最たるものが、この人的補償制度だ。大リーグには存在しない。
 誰が考えてもわかるように、自分がいきたい球団と交渉して、そこに移ることになると、その代わりに、その球団のだれかが、自分の意思とは無関係にやってくる選手がいた球団に移らねばならないという制度である。つまり、自分の犠牲者がでるというシステムなのだから、FAの権利を行使するのを躊躇う人がでることは予想できる。逆にいえば、選手に対して、FAを行使しにくくさせる方法なのである。
 人的補償などという制度がなければ、今回の問題はおきなかったし、選手がFAというごく当然の権利を行使しやすくなる。球団は、選手が働きやすい環境をととのえて、球団に継続して活躍できるようにすることで、流出をとめる努力をすべきであろう。人的補償などという姑息な制度は、当然やめるべきだと感じた。当然選手会は強くそれを要求している。

.前文「松本人志氏提訴」の訂正

 前回の文章で、松本氏が提訴したのが、「分限春秋社と他の一名」となっていた、その他の一名とはだれかについて、想像としてA子さんと考え、それに基づいて書いたが、その後、「週刊文春の編集長」であると判明した。だから、松本氏側が「悪手」を採用したのではないことがわかった。しかし、A子さんを証人にたたせないことが、松本氏側の有利であり、結局は、双方の証人による証言が判断材料になるのだから、A子さんが文春側の証人として登場して、反対尋問で崩れなければ、文春側の勝訴になることは、ほぼ確実であるということは、見解としては変らない。

 ついでに、これまでも書こうと思って書かなかったことを書いておきたい。
 松本氏に関する議論で、ほぼ共通して指摘されることに、性加害に対する社会の感覚が変ったことがあるが、それとは異なる側面をもうひとつ加えて考える必要があると思うのである。それは、インターネットが普及する以前は、ひろく映像をともなう発信は、ほとんどテレビであった。映画などがあったとしても、日々更新されるものではなく、日常的な手段としてはテレビであった。だから、視聴率という基準で、番組が作られ、テレビは公共性の観点から番組が作られねばならない、という放送法の規定などは、事実上無視されてきた。そして、いかに公共的な観点からはあるべきでない番組も、視聴率がよければ積極的に放映されてきたといえる。
 しかし、インターネットが発達・普及したことによって、テレビ局でなくても、小さな組織、そして個人であっても、映像をともなう表現を広く提示することが可能になってきた。しかも、代表的なそうした手段であるyoutubeは、アクセスすれば誰でも見ることができる形式や、メンバーだけに限定できる形式なども可能になっている。
 この変化は、テレビが公共的な観点から是認できるものに限定し、特別な観点から作られるものは、youtubeなどに移行させることが可能になったことを意味している。
 松本氏が関わった番組で、事件後に掘り起こされ、強い批判を受けているものがある。少なくとも、社会的意識がかわった現在では、とうてい放映できないものだろう。しかし、youtubeで見ることができる。そして、もっと特別な意味合いで作られるものは、メンバー制限型で作成すれば、テレビで放映された場合にうける批判を受けることはないはずである。

 法理論のひとつとして「部分社会の法理」というのがある。一般社会においてはとうてい認められない事柄であっても、部分社会の法理が適用される場合には許されるというものである。非常におかしな校則が違法であるという訴訟が起こされても、かつては部分社会の法理で違法ではないとされることが多かったのだが、それは部分社会の法理を間違って適用した結果であり、最近では、部分社会の法理で適法とされることが少なくなった。しかし、部分社会の法理自体が否定されたわけではない。
 私は校則問題を講義するときに、部分社会の法理のわかりやすい事例として、ボクンシングをあげていた。ボクシングでやっていることは、一般的には、なぐりあいだから、暴行罪にあたる。しかし、部分社会の法理が適用されることで、スポーツとして成り立っているわけである。しかし、そのために、厳格な条件が必要となる。
・あらかじめ行われることが十分に情報開示されていること。
・自分の自由意思で行うこと。
・嫌であれば、いつでもやめられること。
 学校の校則は、この条件を満たさないから、一般的に極めて不合理な校則を子どもに強制することは、少なくとも部分社会の法理で適法化することはできないわけである。

 先の問題にもどれば、テレビでは公共性を厳格に適用して、一般的な価値観にはあわないような番組は、テレビ放映では制限すること、しかし、インターネットで部分社会の法理が適用される形では、公共性を有するとはいえない内容も可能にする。そうした棲み分けをしていくように、情報発信のありかたを変えていくべきなのである。
 もちろん、テレビから排除された松本氏も、youtubeでは自由に発信できる。そのことを非難する人はいないだろう。そういう転換点として、今回の事件を考えることができると思う。
 

.松本人志氏の提訴
 もしかしたら、提訴しないかも知れないと思っていたが、やはり、提訴に踏み切った。メディアもネットでも、かなりの見解が表明されている。私は、問題になっているような行為があったのかどうかは、あまり興味がないが、裁判の先行きと、文春が狙っていることについては、強い関心をもっている。
 今回の提訴について、あまり触れられていないが、相手を文春だけではなく、他1名となっていることに驚いた。公式見解や大手メディアも報じていないので、誰なのかはわからないが、常識的に考えれば、A子さんだろう。まさか、わざわざ週刊文春の編集長とか、文藝春秋社の社長などをわけて提訴するはずもないから、消去法で考えれば、不同意だったことを訴えているA子さんということなのだろう。違ったら以下の話はまちがいになるが、これは、私には松本氏にとって、悪手であるように思われる。
 松本側からすれば、A子さんが、証人として登場しないほうがいいはずである。そうすれば、文春側としては、もっとも強力な証言者がいなくなってしまうことになる。この裁判では、物的証拠などはほとんどないのだから、証人の証言によって、裁判官が判断することになる。とすれば、文春側の証人を少なくし、自分に協力してくれる証人を多数だすことが、松本氏にとっては大切だ。しかし、A子さんを被告にしてしまえば、当然自身が証言にたつことになり、かつ敵対的な関係が固定するから、明確に不同意であったことを証言するはずである。そうしないと自分を守れないことになる。文春との面談も弁護士同席だったそうだし、裁判になれば証言にでると発言しているというので、あえて松本氏として、A子さんを被告にしたのかも知れないが、文春のもつ武器を強力にしてしまったと思うのである。A子さんが、自分の体験を明確に述べれば、松本氏が、いくら自分に有利な証言をしてくれる人をだしても、それは無意味である。文春報道でも、不同意の行為をされたといっているのはA子さんだけなのだから、その証言が明確であれば、松本氏の提訴内容は崩れてしまうのである。
 ということで、本件は、細部は別として、大筋において文春が勝訴することは、間違いないと思う。

 さて、前にも書いたが、文春は、特別に松本人志氏を追放することを狙って記事を書いているのではないと思われる。松本氏に圧倒的に不利な内容は第一弾のみで、それも松本氏が刑事責任を問われるような内容にはなっていない。文春としてはそういう材料をもっているのにだしていないという可能性もある。だから、初動のミスがなければ、もっと松本氏にとって不利でないような状況を作り出すことはできたかも知れないのである。
 第二弾、第三弾となるにしたがって、本当の相手は吉本であり、テレビ局であることが感じられる。そして、その意図は、ふたつのことを改めさせることにあるのではないか。
 第一は、吉本などの芸人が、テレビ番組の中枢のひとつになったことによって、テレビのレベルが落ちてきたことの批判である。松本ファンのひとたちは、ダウンタウンがでなくなったら、テレビが面白くなくなると、さかんに書いている。そういうひとたちがいることは、もちろん事実だろう。しかし、逆に、ダウンタウンに代表されるような芸人が、テレビで闊歩するようになって、テレビがつまらなくなった、みなくなったというひとたちも、たくさんいるのである。私もそうだ。
 現在のテレビ全体のなかでも、安定的に高い視聴率を維持している番組に、羽鳥のモーニングショーがある。朝の時間帯でトップであるだけではなく、全番組のなかでも、上位なのだそうだ。私も、食事中ということもあり、ほぼみているのだが、この番組が人気がある理由ははっきりしていると思う。それは、他のワイドショーなどが、極めて薄っぺらな掘りさげ、出演者の発言に終始しているからだ。とくに、高い知性をもっているとも思えないようなタレントがでて、当たり障りのない発言をしているのが、ほとんどのワイドショーだろう。しかし、モーニングショーは、とりあげる話題に関して、非常にしっかりした専門家が解説者としてでてきて、常連の出演者とかなり自由で活発なやりとりをする。常連のひとたちも、芸人などはおらず、しっかりした意見をもっているひとたちであり、さらに、違う見解をもっているので、議論になることも頻繁にある。つまり、放送法に規定されている、異なる意見のある話題に関しては、できるだけ多様な意見の持ち主を登場させる、ということに忠実なのである。中立なんてありえないではないか、などという人もいるが、大事なのは、こうした多様な見解を登場させて、自由に議論させることなのだ。私にとって、いつもではないが、なるほどと思うことがしばしばある。
 そういう番組が視聴率が高いということは、お笑いなどはみたくない、みたいのはこうしたためになる番組だと考えているひとたちが多数いるということだ。
 松本氏のような芸人に私物化されているような状況を打破することによって、よりまともなメディアとしてのテレビにしたいと、文春はひとつ提起しているのではないか。
 そして、それを強力に勧めるために、私物化=権力的となり、「権力は腐敗する」を象徴するような、「上納システム」などを例に出すことで、上記のような番組をつくっている中心のひとたちを崩すことが意図することなのではないかと思うのである。
 そういう意味において、文春の提起は大事だといえる。
 ホリエモンがさかんにyoutubeでこの問題をとりあげつつ、文春はただただ金儲けのために記事を書いているだけだ、と繰り返しているが、きちんと読んでいる人の多くは、反対の感想をもっているように感じる。そして、ホリエモンが現在のテレビの状況をよしとしているとも思えないのだが。

 youtubeでは、文春の意図は、吉本潰しだけではなく、吉本が大きく関与している万博を潰すことにあるのではないかと述べているひとたちがいるが、そこまでは、私は感じない。もっとも、万博は中止すべきだと思っているので、そういう意図があるとしても、違和感は感じないが。


.安倍派不起訴だとしたら、岸田の安倍派取り込み策ではないか
 パーティ券のキックバック問題で、当然何人かの派内の責任ある人物が基礎されると、国民の多くは思っていたところ、特捜部は起訴しない方針を固めたらしいという報道がまだ実際のところはわからないし、国会開催中、逮捕はできなくても、起訴はできるだろうから、今後起訴される可能性が否定はできないが、しかし、幹部起訴の可能性は低くなっているという雰囲気になっている。
 もしそうだとしたら、どうしてそうなるのか。少なくとも、一旦安倍会長の指示で、キックバックを止めることになったのに、安倍氏の死後にそれを復活させたのだから、その責任者は起訴されて当然なはずである。にもかかわらず、西村氏も含めて不起訴ということは、政治的圧力があったと考えられるだろう。それは、安倍幹部を逮捕させるという、安倍派からみれば、「クーデター」を放置している岸田首相に対して、怨念のようなものが当然あるのだが、それをうまく取り込んで、逮捕を止めさせれば、安倍派に意向に従わざるをえなかった岸田首相が、安倍派に対して有利な立場に逆転するわけである。そうすれば、まわりはほとんどなくなったと思っている岸田の再選が実現する可能性がずっと開けてくる。とにかく、首相にいることが目的の岸田氏としては、現在延命するためには、これは極めて有効な手段だ。
 もちろん、岸田首相が、そういう方向に特捜部を誘導することができるのか、という問題はあるが、しかし、とくに特捜部と対立関係にあるわけではない岸田氏としては、特捜部と取引することは、十分に可能だと思われる。特捜部にとっては、不倶戴天の敵だったような安倍派を、事実上岸田氏の配下におき、今後岸田氏と特捜部が密に連絡しあうような関係になるとすれば、双方にとって得策だと考えた可能性はある。
 しかし、それは歪んだ政治を更に歪めること以外の何ものでもなく、国民にとっては、不正を正す機会の喪失にほかならない。


.読書ノート『戦後民主主義 現代日本を創った思想と文化』山本昭宏(中公新書)
 戦後民主主義、あるいは戦後改革とその後を考える上で、たいへん参考になった。著者の山本氏は1984年生まれで、現在40歳前である。だから当然、戦後改革やその後の反動、安保などは経験していないし、むしろバブル崩壊の日本のイメージが強い世代である。そういう意味では、歴史を見る観点で、戦後民主主義を分析したということだろう。しかも、戦後民主主義の分析といっても、現在に到るまでの「戦後民主主義」の扱われ方についての通史でもある。そのために、非常に参考になる論点が提示されているように思われた。ここでは、いくつか考えさせられた点について述べたい。

 戦後民主主義の三原則が、平和主義、直接民主主義への志向、平等主義となっていること。私自身は、このように戦後民主主義の三原則を理解したことはなかった。通常は、憲法の三大原則(平和主義・国民主権・基本的人権の尊重)と意識されるのではないかと考えていた。しかし、これは憲法の三原則であって、戦後民主主義のものではないというのも確かだ。

.文春の意図は芸能界・メディアへの問題提起ではないか

 週刊文春による松本人志氏関連の記事とその反応をみてきたが、あまり触れられていないが、文春の意図は、松本氏の個人批判ではないと思うようになった。それは、第一弾と第二弾の記事の動きをみると感じられるのである。
 第一弾は、事実とすれば、松本氏にとっては犯罪と認定されるような行為が書かれていたが、しかし、それは時効になっていることだった。そして、第二弾は、むしろ吉本の複数の関係者が関わっていたことが記されていたが、しかし、そこでは女性とは合意があったかのように書かれ、違法性が問われるような事実は書かれていなかった。
 この流れをどう考えるかである。
 共通していることは、松本氏の刑事責任が問われるような内容は書かれていないが、社会的には極めて批判されるようなことである。そして、最初の記事のアピール度が高い。まず第一弾として、社会に対して強烈な問題提起をして、関心を高め、議論を巻き起こす。訴訟になったとしても、それは民事であって、文春としては十分に勝算がある。
 しかし、文春としては、松本、吉本側が反発をしてくることは予想していたろうから、第二弾を用意していた。第二弾では、特に第一弾の記事を全否定をした吉本に対して、吉本が企業としてやっているとはいえないが、松本氏の配下のようなひとたちが、やっていることとして、企業責任を問うような記事を載せたことで、文春の意図を示したといえる。
 松本氏の刑事責任を問うつもりはないが、松本氏がやっているようなことは、今後絶対に止めさせる、そして、吉本がそれを彼を庇い、企業としての改善意思を示さなければ、徹底的に「上納システム」を追求する、という姿勢である。

 さすがに、吉本やテレビは、そういう組織的な問題改善が迫られているのだ、とある程度察知して、対応を始めた。テレビ局としては、スポンサーの動向に促されたのだろうが、吉本としても、明らかに松本氏を切り捨てる方向になっている。通常、予想されるような訴訟は、芸能プロダクションと当人が共同しておこすものだと思われるが、吉本としては関わらず、松本氏が個人として訴訟を起こすことになるとされている。上納システムなどといういい方をさている以上、吉本が原告になれば、松本氏が関わっていない部分についても、事実を提示されてしまう危険があるだろうし、共同原告になれば、吉本として松本氏の行動を是認しているととらえられる可能性が高い。したがって、吉本は原告になることを避けることにしたのだろう。そして、ジャニーズ問題の顕在化以降、松本氏がやっていたようなことは、たとえ違法性がなくても、つまり女性たちが全員合意であったとしても、テレビ業界で活動する人物としては、ふさわしくないという、社会的雰囲気が形成されており、それに従わざるをえないという方向に、活動のありかたを改善せざるをえないと判断していると考えられる。そして、文春が求めているのは、その改善の方向なのではないかと思うのである。

 では、個人として松本氏が名誉毀損で提訴した場合、どうなるのだろう。多くの弁護士が語っているように、また以前に私が書いたように、松本氏が大筋で勝訴する可能性はほとんどないといえる。文春の記事の細目にかかわることで勝訴することがあっても、全体としては、記事の真実相当性が認められるだろう。
 そして、松本氏自身が証言にたたざるをえないことになる。これまでの松本氏の文春記事発行後の対応をみていると、いかにもまずい行動の連鎖になっている。文春は、完全否定しているのに、小沢氏のラインを引用して、飲み会自体はあったことを自分で認めてしまったり、勝手に、ワイドナショーに出演することを公表したり、挨拶程度だと弁明したり、そして、その後出演拒否されたりと、まさに醜態をさらけ出してしまっている。これは、冷静に、まわりの忠告をうけて、傷口を広げないような、冷静かつ的確な対応ができない個人的性格であることを示している。
 そういう人が、裁判の証言にたったとき、反対尋問を適切にかわせるとは思えないのである。被告側の弁護士は、当然十分な準備のもとに、松本氏の説明が崩壊するように、厳しく、かつ狡猾に質問をするはずである。そして、それに答えていくうちに、矛盾がでてくれば、徹底的に追求されるだろうし、また、思わず松本氏が興奮して、自分に不利なことをしゃべりだす可能性もある。この間の松本氏の対応をみていると、意外に小心者だという感じなのだ。そういう人は、「敵」の攻撃に弱いのが普通だ。
 ジャニーズ裁判でも、最終的にジャニーの回答が決め手となって、文春が勝訴したのである。
 もし、本当に訴訟を起こせば、松本氏にとってより傷口が深くなることが十分に予想される。

 もうひとつ蛇足になるかも知れないが、記しておきたいことがある。私は、芸人たちがでるテレビなどはまったくみないので、最近は、松本氏の出ている番組をみたことがない。ただ、大分前には、ダウンタウンとして出ているのを、たまたまみたことが何度かある。非常に嫌な気分になったことを覚えている。笑いに楽しさがないのだ。人を幸福にするような笑いではなく、人を馬鹿にするようなことで笑いをとる。よくいわれる「いじり」のようなもの、あるいは「嘲笑」としての笑いだ。今回の問題が起きたとき、思い出したのが、「葬式ごっこ」いじめ事件である。ドリフターズがやっていた夜の番組で、よく行われていた「葬式」を、いじめにとりいれて、その被害者が自殺した事件である。しかも、不本意ながらだが、担任を含めた4人の教師が、事実上そのいじめに加担していたことも、被害者にとって大きな痛手となったとされている。ドリフターズの責任が問われるわけではないが、全国で「いじめごっこ」がまねされていたとされ、自殺には至らなかったとしても、いじめとしてまねされていたことは十分に想像される。
 テレビのお笑い番組が、子どもたちに悪影響を与えた典型だと思われるが、グウンタウンの笑いも、そうした危惧をいだかせるものだったという印象を拭えないのである。ダウンタウンがデビュー直前に、横山やすしが、ダウンタウンの笑いは悪い笑いだ、と本人に言ったということが、話題になっているが、私も、ダウンタウンの笑いはそういうものだと感じる。いじめが暴力的なものから、いじり的なものに変化してきたが、暴力よりは頻度が多くなり、精神的ダメージを与えるようになっている。そうした土台形成に、ダウンタウンの芸が、まったく無関係とはいえないのではないかとも思うのである。
 松本氏の芸が、温和なものになって、尖った要素が薄くなり、つまらなくなった、そして、テレビ全体が面白くなくなったというような意見が散見されるが、人を嘲笑して笑いをとるような面白さは、公共放送としてのテレビでやるべきではない。そういう芸があってもいいとは思うが、それを好む者限定の場でやるべきであろう。
 文春の提起は、そうしたことなのではないかと思う。2024.1.15


.ティーレマンのニューイヤー・コンサート
 今年は、1月1日の実況ではなく、6日に放送された録画で視聴した。実は1日に録画予約しておいたのが、録画されていなかった。おかしいと思っていたが、実際に地震のために放送が中止されていたことがわかった。
 一応二度聴いたが、やはり、5年前の印象は変らなかった。ティーレマンはウィンナ・ワルツには向かない指揮者だということだ。ティーレマンは、若いころに、カラヤンの勧めもあったようだが、オペレッタをさかんに指揮したようだ。そして、ドレスデンのジルベスターコンサートでレハール特集をやっていた。だから、こうした音楽が好きなはずだ。そして、特に速いポルカはとてもいいのだ。今回では、エドゥアルト・シュトラウスの「ブレーキをかけずに」などは、実にいい感じだった。しかし、最初のワルツ、これは比較的知られた曲だが「ウィーンのボンボン」からして、こうやるだろうというティーレマン節全開だった。これは純粋に好みの問題かも知れないが、私には気に入らなかった。
 ウィンナ・ワルツというのは、他のワルツと異なる演奏上の特徴が二つある。
 ひとつは、三拍子のリズムの2拍目をほんのわずか前にずらして演奏することだ。これは、ウィンナ・ワルツは実際に踊られることを前提にして作曲され、実際にウィーンの舞踏会などで毎年たくさん踊られるのである。そうした踊り(円舞曲だから女性がまわることが多い)を踊りやすくするために、リズムのずれをつくりだすのである。そして、これを本当に自然にこなすのはウィーンの団体、とくにウィーン・フィルである。ただ、これはウィーン・フィルにまかせておけばいいので、ティーレマンの演奏で不自然になることはない。
 もうひとつは、ウィンナ・ワルツは、ABという形のワルツをひとつのまとまりとして、そうしたワルツが3つ4つ接続されて一曲になっている。そして、Aが始まるときには、テンポを少し落として、少しずつあげていくという演奏スタイルをとる。こちらが、たとえウィンナ・ワルツのプロであるウィーン・フィルを相手にしても、指揮者によって、かなりやり方が異なってくるのである。
 よくお国ものの音楽を演奏するときに、その国の人がやると、あっさりとした表現になることがおおいのに、他国の人がやると、そのお国的要素がかなり強く押し出されることがあるといわれる。ウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートでも、その傾向がみられる。ティーレマンの演奏は、前回もそうだったが、Aが始まるときのテンポを非常に遅く取り、少しずつ少しずつあげていくことが多い。ここで、私はどうしても誇張を感じてしまうのである。生粋のウィーン・フィル奏者で、長くニューイヤー・コンサートを指揮したボスコフスキーの、ウィーン・フィルによる6枚組のウィンナワルツ集のCDがあるが、どの場合でも、このテンポの落とし方やあげかたは、極端になることはなく、比較的あっさりとしているのである。もうひとりのオーストリア人の指揮者であるウェルザー・メストは、大指揮者であるからか、ボスコフスキーよりはめだつが、それでも非常にあっさりとしている。しかし、ゆっくり始めて少しずつあげる、という雰囲気が十分にでているのである。
 ティーレマンは、同じドイツ系とはいえ、ベルリン生れのベルリン育ちで、しかも、最大の得意演目はワーグナーだから、やはり、スケールの大きな音楽づくりを特徴がある。テンポも概してゆったりとる傾向がある。クナッパーツ・ブッシュを思わせるところがある。しかし、ウィンナ・ワルツというのは、やはり、粋で軽快な音楽なのである。だから、
どちらかというと、テンポを速くとることが多い指揮者のほうが、ウィンナ・ワルツには向いている。カラヤンやカルロス・クライバーなどが、その代表だろう。ウェルザー・メストもそうだ。
 ということで、今回もやはり、予想通りテレーレマンのワルツの演奏には共感できなかった。ただし、ひとつだけ例外がある。カール・ツィーラー作曲の「ウィーン市民」の演奏で、これにはバレエが入った。このバレエの映像は、いつ撮影して、演奏との関係はどうなっているのかは、毎年疑問に感じるのだが、いまだにわからない。演奏もバレエも別撮りで、実際に会場で演奏されているのではない音楽が流れていると思うのだが、どうなのだろうか。それはいいとして、さすがに踊ることが前提になっているので、Aのはじまりのテンポの落としかたが、実に小さいのだ。そして、それが非常に自然に響いていたのだ。このワルツの演奏はとてもよかったし、生き生きとしていた。やはり、ウィンナ・ワルツは踊る音楽なのだ。

 それから、毎年あるゲストとの対談で、楽壇長に、演奏曲目はどうやってきめるのか、との質問があり、それに、まず楽壇側が案をつくって、それを予定指揮者にもっていき(夏)指揮者が自分の希望をいって調整するということだった。最近のニューイヤー・コンサートは、これまでやらなかった曲が非常に多数含まれるようになっているが、それは指揮者の好みではなく、楽壇の方針なのだということがわかった。
 最後に、プログラムの最後はヨーゼフ・シュトラウスの「うわごと」だったが、これはカラヤンお気に入りの曲で、カラヤンのウィンナ・ワルツのCDや演奏会にはかならずはいっているのだが、久しぶりにカラヤンのも聴いてみた。やはり、年季のいれかたもあるだろうが、カラヤンの演奏は流れがよく、魅力的な音楽と聞こえてくるが、ティーレマンのは、あまりに作為的な部分が目立つと感じた。

.松本人志問題を考えるーー訴訟を軸に

 松本人志問題は、訴訟に力を注ぐために、芸能活動を一時中止するという事態になった。この点を報道する文章やそれに対するコメントなどを読んでいると、勘違いしていると思われるものが散見される。そうした勘違いを訂正することが必要かと思うことと、自分なりの考えを整理してみたいと思った。

 まず、当人が訴訟に注力するために活動を中止するというのは、いかにも苦しいいいわけである。そもそも訴訟といっても民事訴訟だろうから、実際の作業はほとんど弁護士に任せ、当人は、必要なときに情報提供する程度である。口頭弁論も多くても月1であり、2月に1度ということもある。実際の裁判は、ほとんどが書面の交換であり、裁判らしいことがおこなわれるのは、証人尋問のときだけで、原告側、被告側の証人が証言するときだけである。だから、訴訟に時間とエネルギーを必要として、芸能活動ができないなどということはないのだ。逆にいえば、芸能活動中止は、スポンサーなどの対応のために、追い込まれたと理解されるだろう。

 訴訟に関して、橋下、東国原両氏その他から、無責任な言論を制限するために、損害賠償の額を飛躍的に高めるべきである、という意見が出されている。そのこと自体には、賛成であり、特に大手メディアがこのように大々的に報じたものが、事実無根であり、多大の損害を書かれた側に生じさせたりする場合には、現在の名誉毀損が認められたときの賠償額は低すぎると思う。個人のSNS等での書き込みによる賠償の場合は、実際に多額の賠償金を命じても、支払うことが不可能になってしまうから、より現実的な額を命じるほうが合理性があるようには思われるが。

 ただ、両氏とも、松本氏の主張が認められる可能性が高いような雰囲気での文章だが、私は、松本氏が勝訴する可能性は極めて低いと思う。
 まず、これまでいろいろな場で松本氏が発言したきた内容が、明らかにされているが、そうしたことから考えると、文春が報じたことは、いかにもありそうなことだと感じられる。そして、松本、小沢両当事者の対応が、まったく事実無根であるとは感じられないことである。小沢氏は、まったくのノーコメントを貫いている。否定をしていないのである。また、松本氏は、件のパーティのあとに、女性が小沢氏に送ったとされるラインについて、それを提示しつつ、「とうとうでたね」と書き込んだ。つまり、その日おこなわれたことが記事とは違ったとしても、パーティがあったことは、事実上認めてしまったわけである。つまり、吉本側の全否定とあきらかに矛盾する対応をとっている。
 こうした書かれた側の対応から考えても、記事の詳細はどうあれ、大筋は間違いないと考えるのが自然だろう。
 第二に、文春についてである。文春は、間違った記事を掲載したことがあることは知られているが、一般のメディアが報じない、社会的問題を勇敢に報道して、問題提起をしたことが度々あることはよく知られており、また、取材を尽くすことも一般的に認められている。実際に、私自身、文春の取材を受けたことがあるのだ。私の同僚のおこした事件に関して、事件がおきてすぐに、私の自宅まで取材記者がやってきた。正直驚いたが、そのときの取材は、礼儀正しいものだったし、こちらの意に反するようなことはまったくなかった。しかし、徹底取材をしていることは感じられた。ジャニーズ問題をとりあげたときにも、訴訟対策は十分していたのだろうから、もっとも重要な部分では勝訴したわけである。
 そして、名誉毀損裁判とはどのようなものなのかということだ。
 名誉毀損とは、いわれた者の社会的評価を低下させるような文章、放送等々の表現行為をさすが、これだけであれば、文春の記事は、明確に名誉毀損的内容である。しかし、名誉毀損の認定には、ふたつの違法性阻却事由というのがある。つまり、このふたつを同時に満たしていれば、実質的に名誉毀損的内容であっても、違法ではないと認定されるのである。
 ひとつは、「公益性」である。つまり、公人とされる人が、社会的に問題ある行為をしているときに、それを暴露して、その行為を止めさせるように表現している場合である。公人とは、政治家や影響力のつよい公務員などが中心だが、公共放送のなかで大きな役割を果たしている芸能人たちも、通常公人扱いをされるだろう。もちろん、公人にもプライバシーはあるから、その線引きも重要になる。
 この公益性について、今回の事例は、間違いなく当てはまる。松本氏は、テレビ界の大物であり、それだけではなく、各種公的な役割も果たしている。そして、報じられた行為は、あきらかに反社会的なものであり、それを止めさせることは公益といえる。
 次は、「事実」あるいは「事実相当性」であること。公益性があって、事実であれば、その表示は名誉毀損と認定されることはないが、事実ではなかったとしても、それが事実であると信じるにたるような十分な理由があるときには、事実相当性として、やはり、違法性が阻却されるのである。
 メディアでの書き込みで、「証拠」があるのか、などという人が多数いるが、民事だから、証拠は必須ではない。被害者とされるひとが証人として登場し、その証言が事実だと思われれば、事実相当性の認定となるのである。ジャニーズ裁判でも、少年たちの証言にたいして、ジャニー氏が「うそとはいえない」と証言したことが決め手だったとされる。本当なのに嘘だ、と証言すれば、偽証罪になるから、裁判の場で嘘の証言をすることはそのこと自体が刑事罰の対象になるので、きわめて危険なのである。だから、松本氏が、被害者の証言が、事実であるのに、そんなことはなかった、ということは難しい。相手の名誉毀損(不法行為)を認めさせることと、自分が偽証罪という刑事罰をうける危険を考えれば、正直に答えざるをえないわけである。(もちろん、女性たちが証言にたつことが前提で、証言を拒否して、報道をひっくりかえしたら、文春の敗訴になる。しかし、弁護士立ち会いの取材だったのだから、証言が必要であればするのではないだろうか。)
 このように考えると、やはり、裁判をしても、松本氏に勝ち目はほとんどないと考えざるをえないのである。

 橋下透氏は、松本氏が勝訴するには、プライバシー侵害だろうといっているが、これは同意できない。今回の記事が名誉毀損にならないとすれば、真実、真実相当性があるということだから、複数名による性加害行為がおこなわれたということであり、時効が成立しているから、刑事罰を課すことはできないが、少なくともそうした事実があったという報道は認められるはずであり、それはプライバシー侵害とはいえない。これがプライバシー侵害であれば、犯罪報道はほとんどできなくなる。完全に合意であったのであれば、プライバシー侵害でもあるだろうし、また、名誉毀損が成立するのである。


 最後に、被害者はなぜこれまで黙っていたのか、警察に行かなかったのか、と非難している人がたくさんいることに驚いた。彼等はジャニーズ事件をどのように受とめたのだろうか。最高裁が性加害を認定したあとも、そして、国会で自民党議員が警察に操作をうながしたあとも、警察は一切動かなかったのである。何千人も被害者がいるといわれているから、当然警察に訴えた人もいただろう。
 警察にいって、根掘り葉掘り聴かれて、それでもとりあげてもらえなければ、二重三重の苦しみだろう。
 警察に駆け込まなかったからといって、被害者を非難するのは、まったく筋違いであろう。そして、当人は、なぜ今になって、ということを説明している。ジャニーズ事件で被害者が名乗りをあげたことにはげまされたと語っているのである。納得のいく話だ。
 文春の記事の細目まで正しいかどうかはわからないが、松本氏が名誉を回復できるほどに勝訴するとは思えない。

.読書ノート『教育の戦争責任増補』長浜功2

 長浜の戦争責任のあるべき姿について、整理してみる。

 1945.12.9(朝日)の報道によると、8日に、共産党が戦争犯罪人追求人民大会を開催し、1000名以上の名前を読み上げた。戦後共産党のみが、戦争責任を追求すべき人物の一覧を作成し、政府と占領軍に提出した。このことを長浜は、民主主義的なありかたとして否定する。民主主義は自治意識によって形成されるので、占領軍に提出して、その結果戦争責任を負うべき人物が廃除されたとしても、それは解決ではない。そして、結論としてこう書く。「日本で唯一、具体的に展開されるかに見えた運動レベルでの戦争責任の追求は、かくして自治意識の欠落によって雲散霧消してしまった。」(p30-319) 
 たしかに、民主主義は自治の精神と行動によって実現することは、長浜のいう通りだろう。他方で、長浜は、日本政府が繰り返し、戦争責任の追求はやらないと言明したことを紹介している。ならば、政府に提出しても、結局無視されただけだろう。鶴見俊輔の「戦争責任追及から、共産主義反対者の追求に拡散して魅力をうしなって解消した」との見解を紹介しつつ、そのとおりだが、根本的には、占領軍にだしたことだと述べる。結局、では共産党はどうすればよかったというのだろうか。効果がないにせよ、何度もそれを社会にむかって公表するということなのか。長浜の主張は判然としない。

 さて、国民も、また専門家も、そして政府も、戦争責任を問う姿勢を見せず(文壇と論壇の一部にはあったとしているが)、では、どういう責任のとらせ方があったのかと長浜は以下のように整理している。
 戦争責任問題の解決はふたつある。
1公的責任をとらせる。→実際には占領軍に委ねたので、実効性がなかった。
2道義的責任をとらせる。→実際には逆になり、追求しない方向にいった。当人もほおかむりした。
 だが、問われるべきひとたちの間に、実際におきたことは次のようなことだった。(p32)
・自分への批判を素通りさせて、他人様のことをとやかくいう。
・他人様の名前をあげず、論述が抽象的かつ陰湿
・言及の姿勢は及び腰で、自分に災が及ばない範囲でしか論じない。
 そして、実際に名前をあげて追求した高崎・山中などは暴露趣味として片づけられる傾向にあり、そうした吉本隆明などは例外は稀であった。つまり、責任を問うこと自体が、社会のなかで否定的に迎えられたというのである。
 ほとんどの人は、バスに乗り遅れるなということで、戦争に協力し、同じように民主主義になったというわけだ。。
 いくつかの分野での扱われ方をとりあげたあと、本格的に教育の分野にいく。
 教育の分野では、教育学者・理論家と教師が
 教育が戦争協力者をつくりだした。これが長浜の基本認識である。そして、もっとも重い責任は、そうした教育を教師がするようにしむけた教育学者たちの「迎合」にあるという。しかし、青木壮一郎の「教師にも戦争責任がある」という見解を紹介しつつ、では、責任をとるとはどういうことなのか。
・旧思想のままのひとは教壇を去らせる
・悔い改めたものは衷心から自分の責任を追求する 過去の誤謬は徹底的に自分が良心にかけて追求する。
 実際に、公職追放で、教壇を去った教師もいるわけだが、その審査などは、長浜によれば、当事者による審査だから、いかにも欺瞞的だったという。そして、追放されたひとたちも、ほとんどが間もなく復帰したという。政治家でも、A級戦犯容疑者だった岸が総理大臣になったことでわかるように、たしかに、戦争責任の追求は甘いものだったことは事実だ。
 そこで、長浜は、戦争中に軍国主義を煽る論文を書いていたのに、戦後は民主主義的教育理論家・指導者として活躍した人物をとりあげて(何人かは、民主主義的活動家ともいえないが)戦前に書いた文章を、集め、ここで紹介しているのである。詳細は、実際に長浜の著書を読んでほしい。

 ただ、長浜が出版したのは、1079年であり、ここで批判されているひとたちが、批判されている論文を書いたり、活動した時点から、40年も経過している。存命だった人もいるが、多くの批判された教育学者は既に物故していた。つまり、過去の人の過去の思想、生き方、論文を批判しているわけである。過去の人物の批判をすることは、どういう意味があるのかも確認しておく必要がある。公的責任をとらせるとか、道義的責任をとらせるなどといっても、生存していなければ意味がないし、また、40年も経ってから、教壇を去らせるというのも、あまり現実味がない。
 もちろん、過去の人物を批判的に論及することが、まったく無意味とはいえない。では、どういう点で意味があるのか。
 思想史の専門家である丸山真男の主張が納得がいく。

 丸山は佐久間象山に関する論文のなかで、歴史上の思想家のあつかいかたのふたつのパターンを示している。(以下『忠誠と反逆』ちくま学芸文庫1998.2.10)
 第一は、時代の状況をまったく捨象し、その思想家が人生不変な課題に対して、日常どこでも当面する問題に対して、どう退所し、答えているか、という観点から扱う。これは、現代人の意識を投影してしまいがちである。
 第二は、一回限りの歴史的な状況において、その思想がその歴史条件のなかでの位置付け、役割、制約を明らかにする。これは、歴史的条件はくりかえされないので、現代のわれわれが学ぶことがでてこない。(139-140)
 いずれも欠陥があるというわけである。とくに注意すべきは、過去の思想をみるときに、安全地帯から、気安く判断したり、裁いたりすることができることである。(141)
 ではどういう学び方があるのか。ふれをふたつあげる。
(1)現代の知識、価値基準をいったんかっこにいれて、できるだけ、その当時の状況に、つまりその当時のことばの使い方に、その当時の価値基準に、われわれ自身を置いてみる、という想像上の操作が必要。(過去の追体験)
(2)当時の状況を特殊な一回的ものと考えないで、「典型的な状況」にまで抽象化していく操作が必要。
 典型的な状況の例として、丸山は「小国が大国にかこまれて、自国の安全と独立をはからねばならない状況」「重心が伝統的な権威をさかに着て、相互に暗闘をつづけている状況」「知識人が時代に愛想をつかして社会的政治的関心を失い隠遁している状況」などをあげている。(143)
 ここで、重要なことは、過去の思想を扱うときには、現在という「安全圏」から見てしまうということ、過去の状況に自分自身を置いてみて考えるという点である。
 あえていえば、長浜は、明らかに「安全圏」から批判しているわけであり、彼が批判している教育学者たちが、当時どういう状況におかれていたかを、自分自身がそこにいたらどう感じ、考えるか、ということを抜きに論じている。しかも、当時の状況を「典型化」して考察することもしていない。
 治安維持法が実際に学問の世界を支配していたときに、当時の政策を批判することは、文字通り生命の危険があったことは、事実であり、また、自分は勇気を奮って、信念に準じても、家族の存在を意識せざるをえないのが、多くの人にとっての切実な問題だった。
 そういう状況のなかで、強く「迎合ぶり」を批判するのであれば、私は、自分がその場にいて、勇気ある態度を貫くことができるとは、残念ながら自信をもっていうことはできないし、したがって、長浜と一緒に批判する気にはなれないのである。
 軍部を批判したもの、天皇制を批判したものの多くは、逮捕されて拷問をうけ、命を奪われたものも少なくない。そして、多くの者は、不本意に転向した。
 
 そういうなかで、わずかに、批判を維持し得た人たちがいたことは事実であり、なぜ彼等がそうした軍部への批判的姿勢を維持できたのかを考察することは、重要である。しかし、長浜は、そうした考察はしていない。
 


 次に五十嵐の戦争責任論と対比したいと思うが、その前に、率直な疑問を書いておきたい。
 私自身は、倫理的な問題として、個人の戦争責任を、後代の人が個別に問うことにたいしては、あまり共感できないのである。
 話はそれるが、ドイツの音楽家、特に指揮者が、戦争中亡命しないで、ドイツ国内で活動していた場合、ほぼ例外なく、戦犯容疑で審査されたのである。ほとんど全員がその後指揮活動を認められたが、カラヤンとフルトヴェングラーは、長くこの問題を蒸し返された。フルトヴェングラーは早く死んでしまったが、カラヤンは戦後長く活躍し、アメリカや日本に演奏旅行にくると、記者会見でナチとの関係を問いただす質問がよく出された。しかし、この点については、ベルリンフィルの音楽監督に就任したサイモン・ラトルが、インタビューでこの問題を質問され、それに対して、そのような場にいなかった者、とくに後代に生れ育った人間が、あまりとやかくいうようなことではない、と回答していたのだが、この観点はやはり正しいのではないかと思うのである。
 私もそうだが、長浜氏も戦争中に活動した世代ではない。さらに、私は戦後生れであり、長浜氏は戦争中に生れているが、学校にいくようになったのは戦後である。つまり、自身は戦争責任という立場から完全に自由な立場にある。いわば安全圏から批判することになるわけである。安全圏にいる者が、危険な状況のなかで、現実と妥協したひとたちを、暴露的に非難するのは、フェアではない。
 しかし、だからといって、戦前のことをまったく批判することが許されないということはない。逆に、客観的に見ることができる立場でこそ、必要な批判はある。それは、その時代がなぜ、人びとを苦しめるような状況を生んでしまったのか、別の道はありえたのか、もし、ありえるならば、どの時点でどのような対応がとられればよかったのか、そして、現在、再びそのような状況、あるいはまた別の酷い状況の出現を防ぐために、何が必要なのか、というようなことを分析することだろうと思う。もちろん、そうしたなかで、時代を動かしていたひとたちの行動を批判的に分析することは必要かも知れない。しかし、その場合でも、その人物に即して、なぜ彼がそうしたのかを冷静な目で分析する必要があるだろう。
 長浜氏の具体的な人物の過去の文章を明らかにするやり方は、資料的提示として意味はあると思うが、そういう本当に必要な手続にまで進んでいないように思われるのである。

 もうひとつの論点がある。
 それは、クーデター等によって、支配者の性質が変るような場合が、世界史的にも何度かある。戦後の日本もそうだったが、近い時機では、フセイン体制が倒れたイラク戦争のあとなどがそうである。両者はアメリカが占領を主導したという共通点があるが、前体制の支配層たちの扱いは、かなり違った。日本では、一時戦前の指導者が追放されたが、やがてほとんどが復帰している。そして、戦後の復興に、携わったわけである。
 それに対して、イラクでは、フセインが処刑され、フセイン政府で働いていたひとたちの多くが解雇されたとされる。そして、その後の復帰がなかったので、そのとき排除されたひとたちから、イスラム国のメンバーになった者が少なくなかったという。
 前政権をになったことが、責任を問われることであったとしても、排除されなかった日本では、国が混乱することはなかったといえるが、イラクでは、国が大混乱してしまい、その混乱は、いまでも影響している。
 長浜氏の主張では、やはり、追放を徹底すべきであったというように思われるのであるが、それは正しいのだろうか、ということだ。
 


人材、追放

 次に、ここでは長浜の姿勢とは大局にあるといえる五十嵐の戦争責任の取り上げ方を考えてみよう。

ただこの際、われわれの注意しなくてはならぬことは、そういう戦争責任者はすべて軍人であったと考えてはならないということである。なぜならば、たとえ軍閥がそういう戦争をはじめようとし、またその実行にとりかかったとしても、もし日本の財政をあずかっている人々が断然その費用を出すことを拒んだならば、(中略)そういう軍人も、いつかはこの無謀な計画を中止したに相違ないからである。そういう意味では、この十幾年間、日本の財政をあずかっていた歴代の大蔵大臣をはじめ財政に関する要路の人々の責任は、決して軍人に劣らないのである。そういう人々のうちに、ほんとうの財政家をもっていなかったために、今日、そうして今後幾十年、われわれの生活がひどい目に逢うことになったのである。そしてそういう人々に財政を託したことが失敗であったという意味において、われわれ自身も大きい間違を犯したのである。今日の国民生活の苦しさが財政に原因するところは随分大きいが、さらにさかのぼって考えれば、この原因はわれわれ国民の自覚が足らなかったというところに逹するのである。」(2)
(2)大内兵衛「国民生活と財政」(新しき歩みのために、一九四七年、岩波書店)
『岩波講座教育』4教師のための教育財政学
1952.4

敗戦直後の反省の意味
 敗戦直後、日本の学校教師は自分たちのやってきたことについて深い反省をした。それは日本の教育史にみられない教師の異常な経験であったといっても間違いではないと思う。教師のやってきた仕事はまぎれもなく教育の仕事であった。しかし教師たちは自分たちのやってきたことが、教育や教師の名に値するものではなかったという痛切さで反省したのであった。「あれこれのやり方がうまくなかった」とかいう、部分的なことについての反省ではなかった。それは、大なり小なり自己が気力を注いでやってきた事柄全体にたいする批判であり、否定であった。反省の強い心情は時として茫然自失の形をとった。しかし当時どれだけの人がこれを非難できたことであろう。学校教師たちは学校教師が正当に引き受ける責任以上に戦争責任における教師の責任を感じとったのである。冷静な戦争責任の法的解釈からみれば、これは過ぎたる心情であったろう。科学的な判断でなかったろう。しかしここには冷静さをもちえた時に実る力の根源のようなものが感得される。
 ところでこうした反省は少数例外者の事柄であったろうか。現在の日本の教師はこの問題にこたえるべきであろう。

 敗戦後の反省は、「教え子を死にいたらしめた」という形でおこなわれた。ある人は感傷的だというかもしれない。しかしこの心情に偽りはなかったであろう。これを疑う人は、日本の国家権力が再軍備に乗り出し、昨日の日本の侵略の対象に今日むけられている軍事基地をいっそう強化しようとする帝国主義に従属し協力するにつれて、この反省の堅持や強化がどのような闘争として具体化されたかを考えてみただけでよいであろう。もちろんその闘争は教師だけの行動ではなかった。しかし教師もまたこれに参加したのであり賛同したのである。ここに感傷がありうるであろうか。国家権力が感傷でないように、国家権力の方針にたいする不同意の表明や行動もまた感傷であるはずがない。
 だが教え子の致死についての反省は、その教え子の致死による他民族の「教え子」の致死にたいする反省にまではいたっていない。教師の反省は、その意味では「日本的」であって、「国民的」ではない。すくなくとも、第二次世界大戦の後に、国民的な独立をかちとったアジアやアフリカの人民と連帯しうる国民的反省ではなかった。国民教育の立場は、日本的というのとはちがう。もちろん日本の国民の立場であることは間違いないが、その国民は他民族に加えた苦痛の土に立脚する国民ではありえないであろう。国民教育の立場は、一面、日本の国民同士のあいだの教育の理想についての確認であるが、同時にそれは
『岩波講座現代教育学』18国民教育と教師
1961.12.22

 さて、一九一八年の第一次世界大戦直後、主要な国ぐにの教育ではなにがおきたか。こまかいことは省略せざるをえないが、イギリスにおいても、アメリカにおいても、そしてわが日本においても、戦争責任の反省はなかった。死と負傷をうけるために教育された無量の青年にたいする反省はなかった。共通にみられるのは軍国主義にたいする教育の貢献の確認であり、この観点にたっての教育の反省であった。
『生活指導』平和の教育学と死の教育学
1971.8


「戦争体験をきょうの日に」
 「私のひとり合点ですが、学生たちが兵士になって当面している状況に自分だったらいったい何をなしえただろうかと、とまどうことが多いのであります。現実の状況でなくて、いまこうして本を前にして考えれば、こうすべきであった、ああすべきであったのにといえるのですが、同時に私も同じ状況のなかにいては通路をきりひらいていくことはやはりできなかったろうなとおもいかえすのです。」

「侵略反対あるいは戦争反対が侵略がはじめられ戦争がおこなわれた段階では、反対は現実には成立しないというのが戦前の体制でありました。侵略・戦争へみちびかれる軍国主義的状況をつくらせないことが大切なのです。」

 事前の運動こそが大事。

 それにもかかわらず非人道的行為をなおも強制し命令しつづける立場にたいしてどういう態度をとるべきなのでしょうか。私はこの立場を打撃し滅ぼすほかはないと考えます。富永氏はこうかいていられるのです。「命令実行者としての自分の責任を回避する者に、命令者を批判する資格はないのである。みずからの責任をとることがたとえ死につながることがあっても、みずから責任をとった、という基盤の上に、命令者を告発する権利が、いや道徳的責任、道徳的義務が生ずるはずである」としていられるのです。富永氏がご自分の体験をくぐりぬけて達せられた固有の立言がなんという多くの、戦争体験した国民にとって普遍的であるのかという感想を私は禁ずることができないのです。


埼玉県高等学校教職員組合『きょうという日を生きて』
1983.8.6

長浜 木村久夫について記述 p324


.読書ノート『教育の戦争責任増補』長浜功1
 現在、故五十嵐顕先生(以下敬称略)の著作集の編集作業をしているが、五十嵐の研究テーマの重要なものとして、戦争責任論がある。五十嵐の戦争責任の問い方は、時代によって大きく変化した。戦争認識も含めて、推移をみると
1 学生時代 五十嵐は一貫して、自分は学生時代に最高の教育を受けたが、それでも日本の侵略戦争の性質を見ぬくことができなかったと反省をしていた。しかし、実際にはある程度、五十嵐は戦争の否定的側面を感じていたと思う。その根拠として、高校時代(金沢の四髙)に、矢内原忠雄の東大辞職のニュースをみて、嫌な感じをもったと書いていること、そして、東大に入学後、矢内原をはじめとする無教会派の講演に何度か通ったとしていることである。矢内原は、進行しつつある戦争に明確な反対を表明したために、東大教授を追われたのであり、そのことは十分知っていたのだから、五十嵐自身は宗教的な理由だったと説明しているが、矢内原の講演にでかけることは、戦争への疑問を感じていたと解釈する他ない。矢内原の講演会には、当然特高などが見張っていたのだから、決して気楽な気持ちではいけなかったはずである。
2 1950年代前半まで。五十嵐は1946年に捕虜生活から解放されて帰国したが、秋になって、教育研修所の所員として働きはじめる。宗像誠也の下で、アメリカの教育委員会制度を調べるという任務を与えられていた。ほとんどアメリカの教育委員会、財政を二次資料を使って調査をしていた。その生産物は大量になったが、日本の戦後改革への論述はほとんどない。しかし、1952年に東大の助教授になると(前年に講師となっていたが、おそらく非常勤であると考えられる)教育運動とかかわるようになり、しかも、すでに、戦後改革に対する修正が始まっており、反改革状況のなかで、戦後改革をみることになる。つまり、五十嵐は、戦後改革が進行している時機には、そこに積極的にかかわることはなかった。(教育長にたいする講習を担当したが、おそらく、アメリカの教育委員会の説明だったと思われる。)
 すこしずつ戦後改革にふれることになるが、南原や矢内原など、戦後改革の精神的基盤となったひとを重視するとともに、戦前は時局に迎合したとはいいがたい安部能成などが、戦後改革を担うなかで、その後戦後改革の精神を裏切っていくと五十嵐が解釈したひとたちを批判的に扱う時機である。
3 1950年代後半。この時期には、五十嵐はマルクスやレーニンの文献を集中的に読むようになり、アメリカ主導による再軍備などをふまえて、戦前の軍国主義の教育・教育財政を研究し、日本の反動化の批判をおこなうようになる。しかし、次第に、戦前の軍国主義と戦後の「反動化」を短絡的に結びつける、多少紋切り型の批判を強めていく。
4 1960年代。ソビエト教育学研究会(ソ教研)が結成され、レーニン、クルプスカヤの研究にエネルギーを注ぐようになり、日本の植民地教育批判と、北朝鮮、中国の民族独立と社会主義教育が並立して語られるようになり、日本の戦前の教育は、教育の破壊をもたらしたことが、常に強調される。そのことは、その後もずっと継続される。
5 1970年代後半以降。定年退職(77年)前後から、シンガポールのBC級裁判で捕虜虐待の罪に問われ、処刑された学徒兵木村久夫に注目するようになり、特に、中京大学の教授となって、平和学の講義を分担するようになると、それから逝去までは、木村久夫を中心とするわだつみの学徒兵の研究に没頭する。学徒兵の悲劇に、戦前教育の批判を込めたといえるだろう。
 
 最後の時機には、軍国主義が教育を破壊したことを非難しつつ、それでも、そうした中でも戦争について明確に批判したひとがいたことを強く対比させて述べるようになった。矢内原忠雄、宮本百合子を中心として、石橋湛山、柳宗悦がふれられる。80年代になると、その傾向は強くなる。それは何故なのか、私には、当初わからなかったのだが、長浜氏の本書を読んで、この主張を意識しての論述だったのかという可能性を考えるようになった。この増補版は1984年だが、最初の刊行は1979年である。
 長浜は、戦前の教育学者を中心として、徹底的な批判を行い、教育学者のほぼ全員が時局に迎合し、積極的に軍国主義教育を推し進める立場に身をおき、そうした論を学んだ教師たちが、子どもたちをよき兵士になるための教育を施して、戦場に送り込んだという大きな罪があった。しかし、それにもかかわらず、戦後はまったく立場を変えて、民主主義者として振舞い、戦前への自己批判などはまったくないまま、平然と過ごしていたものがほとんどであるという批判だった。そうした姿勢からは、本当に民主的な教育学などは生れるはずがない、真摯な反省が不可欠であるという趣旨である。
 五十嵐にとって見逃せないのは、長浜が取り上げて徹底的に批判したなかに、宮原誠一と矢川徳光がはいっていたことである。宗像誠也や海後宗臣も含まれていたが、宗像は唯一、不充分ながら自己批判をしたと評価され、海後は、熱狂的な軍国主義的煽りをしたわけではないとしている。しかし、宮原と矢川には、極めて厳しい評価をしているわけである。そして、宮原と矢川は、勝田とともに、もっとも尊敬する教育学者としての先輩であり、とくに矢川はソ教研で常に協力しあう同志であった。長浜は、この二人も容赦なく、戦前の時局迎合的な文章を紹介しつつ、こういう人物は信用できないと断罪している。

 五十嵐は、長浜の著作については、まったく触れることがなかった。しかし、戦争責任問題を重視している五十嵐が、長浜の著作を読まなかったはずはない。だが、逆に、五十嵐は、上述以外にも批判されている、海後勝雄、梅根悟なども含めて、戦前のことに触れたこともない。日常会話ではどうだったかはわからないが、少なくとも戦争責任について論じた文章で、長浜がとりあげた人物を対象にしたことはないのである。つまり、五十嵐が個人として対象にしたのは、敗戦時の文相だった太田耕三(まだ国体護持を主張していた)や、前田多聞・安部能成・田中耕太郎らであり、この三人は文相として教育勅語を高く評価する発言をしたという理由で批判をしている。
 五十嵐の戦前批判は、具体的な財政のあり方などが中心であって、政策を担った個人を対象とすることはほとんどなかったのである。(教科としての国史は、歴史的事実と違ってもかまわないという前提で、官吏試験に国史を必修としていれることを主張した三上参次はたびたび個人として批判されているが、戦後との関わりは触れられていない。)
 徹底的に戦前の仕事を明らかにしつつ、反省をせまる長浜と、戦後の民主主義教育を担うことになった教育学者と共同した五十嵐とは、戦争責任について、どのような認識の違いがあったのか、それを考える必要がある。(つづく)2024.1.7


.万博は世界のお荷物に
 大阪万博は、昨年進捗状況が芳しくなく、とうてい間にないそうにないと多くの人に知られるようになった。なにしろ、万博の華ともいうべき、主要国のパビリオンの実際の建築計画の提出がほとんどなく、実際に現在着工しているAタイプのものは皆無である。そして、もし工事計画が出揃い、工事が始まることになっても、島である開場にアクセスできる道路が1つしかないということで、多数の工事車両が出入りすることなどできないと考えられている。電気・水道等のインフラも不充分にしか設置されないだろうし、肝心のトイレなども、主催者が来場すると考えられる人数が実際にやってきたら、圧倒的に不足してしまうほどしか設置されないのだといわれている。
 要するに、すべてが後れているのだが、そもそも、今回の万博は、開催主旨から極めていかがわしいものであるというのが、識者たちの見方といえる。
 命を大切にするとか、持続可能性などが謳われているようだが、そもそも通常の万博は、持続可能性とまったく反したものである。万博開催の絶対条件なのかどうかはわからないが、これまで日本で開催された万博では、終了後すべて建設物は撤去されてきた。(もっとも、ドバイでの万博では設置物が遺され、有効活用されているという話もきいているので、万博の規則になっているものではないのかも知れないが、とにかく、今回の大阪万博では、すべて撤去されることになっているようだ。)
 森をつくるそうだが、その森も撤去されるという。高額な費用で木を移植して、また撤去する。どこが、持続可能性、SDGsなのか。完全に反対物としての構想である。

 こうしたことは、すでにとくにyoutubeを中心に、さんざん批判されている。だから、これ以上のべない。むしろ、私が考えていることは、なぜ、これほどまでに、参加国からの具体的な実施計画がでてこず、工事が始まらないのかということだ。主催者たちは、あわてて申し込み国を説得するべく活動をしているようたが、それでも、満足にでてこない。
 結論的にいえば、大阪万博が承認された時機とは、国際情勢がまったく変わってしまったので、各国が万博どころではない、だから、やりたくないのが本音だろうということだ。それにもかからず、催促してくる日本にたいして、迷惑な国だと思っているのではないだろうか。
 現在、世界ではウクライナ戦争が続いており、そこに、イスラエルとハマスの戦闘、そして、紅海をめぐる米英とイエメンの衝突、そして最悪の場合イランとの衝突が危惧されている。さらに、南米では、ベネズエラが領土拡張の軍事行動を起こしており、イギリスが艦船を派遣して、これも戦争になる危険性がある。
 われわれ日本では、中国と台湾の衝突、朝鮮半島の衝突など、身近に危険がある。
 つまり、現在は、有機的に結びついた状況ではないが、世界中で戦争、それに準ずる武力衝突、そしてその恐れが覆っているのであって、正直万博どころではないというのが、本当のところだ。日本はまだ直接、そうした武力衝突にかかわっていないから、のんきに構えているが、万博に大きな展示会場を設営するような国は、軒並み、間接的に戦争、戦闘にかかわっており、そちらが深刻な政治課題になっているわけである。
 したがって、できることなら、万博など中止してほしいと思っているに違いないのである。

 大阪万博を推進しようとしているひとたち、そして政府は、そういうことをまったく考えないのだろうか。一旦決めたことを中止するのは、国家としての信頼感をそこなう、などといっているようだが、この国際情勢のなかで、とくに、カジノ設営のために利用しようなどという魂胆である万博を、無理に開催して、それにつき合わされるほうが、ずっと国家に対する悪感情を醸成するのではないだろうか。
 ここまで主要国が計画をださないというのは、日本が辞退してくれるのを待っているのだと、私は強く思っている。万博開催を今回は中止する、それは世界から感謝されることになるはずだ。2024.1.3

. 自民党パーティー券問題から考える国民の体質

 新年おめでとうございます。昨年、こちらのブログを復活させ、(それまでのブログがPHPのバージョン問題で、機能停止してしまったので)新たにこちらで、いろいろな見解を表明していきたいと思っています。

 昨年の暮れは、自民党パーティー券問題で揺れた。昨年は、大きなできごとが、世界的にも、また国内的にも頻発したが、おそらく今年は、昨年以上の激動の年になるような気がする。もしかしたら、大地震がくるかも知れない。(これは朝書いたが、夕方早速きた。)
 そういうなかで、非常に危ういと思っているのは、政治家を中心として、国民の間にモラル・ハザード現象が拡大しているように見えることである。自民党パーティー券問題は、その象徴的な事例といえる。安倍内閣は、権力維持のためには、国内組織を徹底的に、自分たちに都合のよいように改竄しようとしたが、それに伴って、政治家のモラルが著しく低下していったことは、否定のしようがない。自民党パーティー券問題で、とくに注意すべきは、キックバックの扱い方が違法であることを、十分に認識していたにもかかわらず、それを20年もの間継続してやっていたことである。違法性の認識がないなら、政治家としていかにもお粗末であるが、さすがにそれはない。悪いことをやっているという自覚があったことが、いろいろな点から示されている。
 
 この問題で、私が考えたいと思うことは2点ある。
 第一は、政治には金がかかるというが、それはそういう政治団体だからではないかということだ。キックバックでえた収入を何につかったかは、いろいろな発言があるようだが、だいたいは、自分の選挙区のひとたちに対するさまざまな対応の費用というのが、中心のようだ。ただ、現在は、正規のポスターとか、テレビでの政見放送等々、選挙に必要な必須のアイテムに関しては、公費で賄われることになっているから、選挙区対応といっても、そういう必須のもの以外の部分にあてているということになる。
 一月万冊に出演している今井一氏が、自民党の知り合いに質問したときの回答では、だいたいは飲み食いだということだったそうだ。といっても、自分のための飲み食いではなく、選挙区から人が陳情や挨拶にやってくると、多くの場合、食事でもてなすのだそうだ。陳情なのだから、そんな必要はないと思うが、そういう習慣になっていると、食事がでないと、そのことが不満の種となってしまうのだろう。しかし、私には、そんな行為は、不当な接待のように思われる。
 また、政治に金がかかるという説明に、秘書の問題があげられる。現在では、国会議員1人につき、3人までの公設秘書が保証されている。だが、とても3人では足りないから、私設の秘書を雇うことになる。その分は私費だから、なんとか、自分でその費用を捻出しなければならない、というわけである。
 これは一見もっともそうにみえる。しかし、問題は、そういう行為は「政治」だろうかということだ。政治とは、ある意味、社会的、公的な富の分配だから、政治ではないとはいえない。しかし、単純に、「近い」者に利益を配分し、本当に必要なひとたちには配分しないのであれば、それは、民主主義社会におけるあるべき政治とはいえないだろう。私設秘書が必要といっても、やっていることは、要するに選挙区の住民との接触を保つようなことがほとんどなのではないだろうか。冠婚葬祭などにでかけて挨拶するようなことだ。あるべき配分のありかたを研究・調査するためには、もっと違う活動が必要なはずだ。そして、それは個々人の政治家ではなく、政党としてのスタッフや支持者が知恵をだし、協力していくことで可能になるし、また、それが必要ではないだろうか。実際に、すべての政党が、自民党のように、選挙区の住民にたいして利益をばらまいて、集票しているわけではない。政策がきちんと政党のスタッフや支持者の協力によって作成され、また政党組織を通じて住民に知らされていくようにすれば、「政治で金がかかる」という部分は、ほとんど不要になるはずである。
 そして、実際にそのように活動している政党もある。

 第二は、しかし、もう少し深刻なことである。つまり、自民党の政治家たちが、選挙区にひとたちに、そうした利益分配や饗応めいたことをするのは、かならずしも当の政治家が望んでいることではないだろう。むしろ、選挙民の積極的な支持者たちが、そういうことを要求するのではないかと考えられる。つまり、饗応をうける側が、たかり体質をもっているということだ。
 考えてみると、なにか世話をしてもらっても、正当な対価を支払わない、つまり、たかりの姿勢は、日本の教育システムのなかで、醸成されているのではないかとも思うのである。その典型が、部活指導に対する生徒や親の気持ちである。ある有力な部活指導者が転勤して、学校をかえると、その部活の親たちが、大きな不満を表明することがめずらしくない。そして、指導を受ける権利が侵害されたかのような受け取りをすることがある。
 それは、部活の指導が当然あるべきもので、それは、教師の無償労働(いまはごくわずかな手当がでるようだが)であっても、そのことも当然視しているのである。しかし、私は、本来の学校教育の活動ではない部活指導は、教師にとっての義務的な仕事ではないし、また、「義務教育は無償である」という憲法の規定の範囲のことでもない。しかし、これまでずっと教師の無償労働によって成立してきた部活だから、それが当たり前のことだと感じてしまうのだろう。だが、私からみれば、それはやはりたかり体質といわざるをえない。学校教育の場面で、そうした一種のたかり体質が醸成されるのだから、社会にでて、そうした体質が他の場面ででてくることは、ある意味自然なことである。

 自民党パーティー券問題の解決には、こうした国民のなかの政治に対するたかりの構造もかえていく必要があると感じている。2024.1.1


. アシュケナージのこと2
 アシュケナージのソロ集が届いて、けっこうな枚数聴いてみたが、あらためて、この曲はこう弾かれるべきものだ、という確固たる安定感があることに気がつく。それは、ベートーヴェンでも、シューベルトでも、シューマンでもそうなのだ。特別に個性的な演奏ではない、というより、そういうことをまったく志向しない、ごく標準的な解釈で、充分に音楽として感動できるのだ、という姿勢だろうか。
 しかし、実は、これは、かなり努力して獲得したことであることは、あまり知られていないかも知れない。アシュケナージは、子どものころにピアノを習い始めて、教師にいわれたことで、できないことというのが、なかったのだそうだ。それは自分で語っている。ポリーニも、自分には技巧的に難しくて弾くことが困難だ、だから技術的な克服のために練習する、というようなことは一切ないと断言していた。だから練習とは、テクニックのことではなく、あくまでも作曲家と向き合い、ただしい解釈を獲得するためのものだといっていた。アシュケナージにとっても、似たような状況だったのだろう。しかし、ソ連の音楽というのは、やはり、西欧の音楽とはかなり違う。だから、ソ連やロシア人の演奏家で、ベートーヴェンもモーツァルト、ブラームスを得意とする、あるいは、誰をも納得させるような演奏をする人は、実に少ない。ソ連、ロシアのピアニストで、ベートーヴェンのソナタ全曲録音をした人は、いないのではないだろうか。キレリスは、めざしていたようだが、完成していないし、リヒテルやホロビッツは、ベートーヴェンを幅広く演奏するという姿勢ですらなかった。ホロビッツのベートーヴェンは、私には、かなり違和感がある。
 そういう雰囲気のなかで育ち、教育をうけたアシュケナージが、亡命して、西欧に帰化して、西欧の演奏家として出発したとき、自分の音楽感覚では、ベートーヴェンやバッハ、モーツァルトを演奏できない、あるいは正しいとはいえない解釈になってしまうということに気づき、基礎から勉強しなおしたという。これは、このソロ録音集の解説のなかの文章で紹介されているが、前にも雑誌のインタビューで読んだことがある。既に世界的な大家ともいえる存在になっていたにもかかわらず、基礎から勉強しなおした、というところに、アシュケナージの芸術家としての姿勢、良心がはっきりと現われている。

 学ぶことが好きなのだ、ということもあるにちがいない。まだバリバリのピアニストだったときに、地元のアマチュアオーケストラの指揮をしていたのだそうだ。それで次第にオーケストラの指揮に興味をもち、これもそうした時期から本格的に勉強をして、ピアノ協奏曲を自分で指揮するなどからはじめて、指揮活動を広げていく。これもかなりの勉強が必要だったろう。
 こういう姿勢は、やはり、極めて希有のことなのではないだろうか。
 世界のトップクラスの演奏家として認められていながら、かなり基礎に立ち返って勉強しなおした人というのは、ルービンシュタインを思い出す。まだ戦前のことだが、ホロビッツが西欧に進出し、当時、実力と人気で他を圧倒していたと思い込んでいたルービンシュタインが、ホロビッツの演奏を聴いて、打ちのめされてしまったのだという。もちろん、それでルービンシュタインの人気が奪われるものではなかったろうが、ルージンシュタインは、自分の奢りに気づき、テクニックの勉強をやりなおしたのだという。そして、戦後のショパンの第一人者としての地位を確立していったわけである。ルージンシュタインは、自分も、また他のピアニストも、冷静かつ客観的にみることができ、自分に足りないものがあれば、率直にやりなおすことができた人なのだろう。
 アシュケナージも、そういう最良の素質を同じようにもっているように思われた。それが、当初はぎこちないと思われていた指揮活動でも、すでにトップクラスの指揮者となっている。しかし、当初はオーケストラのひとたちからも、半信半疑のような扱われ方をしていたらしい。たしかボストン交響楽団に客演したとき、リハーサルの最初が、弾き振りのモーツァルトの協奏曲だったのだが、あるオーボエの演奏に注文をつけたのだが、奏者があまり納得していない風だったので、アシュケナージが、「いまあなたはこのように演奏したのだけど、こういう風にやってほしいのです」といいながら、ピアノで、オーボエ奏者の演奏を模倣し、それからやってほしい表情をピアノで弾いてみせたというのである。それが、実にリアルにオーボエ奏者の演奏にそっくりにピアノで表現してみせたので、オーケストラのメンバーがびっくりして、それ以来、指揮者としてのアシュケナージを信頼するようになったというのだ。もちろん、まだそのときには、指揮ぶりや言葉で、やってほしい音楽を表現して伝えることは十分でなかったのだが、音楽そのもののイメージは明確にもっていることがわかったということだろう。そして、もちまえの熱心な勉強姿勢で、指揮者としてのテクニックを身につけていったのだろうと思う。私は、まだアシュケナージ指揮のCDはもっていないのだが、youtubeやテレビでは何度もみている。おそらく、デッカとして室内楽篇の次に、指揮者篇をだすのだろう。そのときには、やはり購入してしまいそうだ。

 最後に、具体的にはかかないが、アシュケナージの若いころまでのことを書いた著作を読んだことがある。借りた本なので、手もとにないから詳細は忘れてしまったのだが、そこに、亡命の経過があった。外国の演奏旅行にでるときには、かならずKGBの担当者が二人ついて監視するのだそうだ。そういう体制に嫌気がさしたのだろう、亡命をするわけだが、常に監視されているなかでの亡命だから、かなりの準備が必要であり、また危険な行為だ。それを読んで、ソ連で芸術家がおかれた環境(すべてが悪いわけではない。才能があれば、最高の教育をうけられる)を理解する上でも有益な情報だった。(2023.9.6)

 


.アシュケナージのこと
 今年はこれまでまったくCDを購入しなかったのだが、アシュケナージの室内楽総集編がでることを知って、今年最初のCDの買い物として、アシュケナージのボックスを注文した。ソロと室内楽だ。以前協奏曲がでていて、これは購入していて、けっこう聴いていたのだが、まだ注文の品がこないので、いくつか協奏曲を聴いてみた。ラフマニノフの4曲とパガニーニ狂詩曲がはいっている2枚を聴いた。バックはハイティンクとコンセルト・ヘボーだが、これまで聴いていた他の演奏とはちょっと違う感じがした。ゆったりと穏やかで、余裕がある感じというところか。
 アシュケナージとハイティンクは、他にも共演していて、ベートーヴェンの協奏曲の全曲映像版もはいっている。アシュケナージがかなり若いころのものだが、すでに大家の風格がある。
 アシュケナージとハイティンクは相性がいいのかは別として、ふたりの演奏家としての姿勢には、共通点がある。それは、「全集魔」ということだ。とにかく、ふたりは「全集」をたくさんつくっている。ハイティンクは、すべてはわからないが、ベートーヴェン・ブラームスなどは当たり前のこととして、ショスタコーヴィッチの全集をつくっている西欧の指揮者としてはめずらしい。ブルックナーとマーラーの両方の全集を録音しているのは、ほかにインバルとマゼールくらいではないだろうか。指揮者は、ブルックナー派とマーラー派に別れるところがあって、だいたいどちらかに偏っているものなのだが。作品を神に捧げたブルックナーと、死を描き続けたマーラーとでは、指揮者にとって水と油なのかも知れない。
 アシュケナージも、とにかく、全集が多い。著名作曲家のピアノ協奏曲は、モーツァルトも含めて録音しているうえに、ショパンの個人全集やシューマンもほとんど録音している。さらに、パールマンやシフと組んで、バイオリンソナタ、チェロソナタ(ベートーヴェン・ブラームス)そして、ベートーヴェンやシューベルト他のピアノトリオまで全集やそれに近く録音している。これほど多彩なジャンルで、全集を録音しているピアニストは、他にまずいないと思われる。以前は、ベートーヴェン弾きとショパン弾きはかなりはっきりわかれていたが、アシュケナージは、その双方の全集をつくっていることが驚きだ。そしていずれもが、トップレベルの出来ばえだ。
 
 これだけたくさんの録音をしていると、いかにも粗製乱造という危惧があるが、アシュケナージに関しては、がっかりするようなできの録音は、少なくとも私が聴いたなかでは皆無である。他方、ポリーニのように衝撃をあたえる演奏はない。ポリーニが長い沈黙のあと、演奏活動に復帰して、ストラビンスキーの「ペトルーシュカ」、ショパンの「演習曲集」、そして、ベートーヴェンのハンマークラビアをだしたときに、音楽界に与えた衝撃は、いまだに覚えている。吉田秀和が、ショパン練習曲集レコードの帯びにつけたコピー「これ以上何をお望みですか」というのは、聴いた人みなが、ほんとうにそうだと思ったものだ。
 だが、ポリーニは、そういう衝撃をあたえ続けたために、衝撃を期待する雰囲気が強くなり、次々に録音をだすことはなかった。そういう意味でアシュケナージとは対照的な、しかし、20世紀後半を代表する二人だったことは間違いない。(ふたりともまだ現役だが、全盛期はやはり20世紀だった)

 ハイティンクと似ているのは、全集魔ということだけではない。音楽の解釈に奇をてらったところがなく、非常に素直な音楽つくりをすることも似ている。そして、最高度のテクニックをもっているために、作曲家が求める音楽を、アシュケナージは、まったく無理なく表現できる。だから、かなり多様な作曲家の曲を、全集として録音していても、みな同じようなアシュケナージになるのではなく、それぞれの作曲家によりそう演奏になっている。

 私が協奏曲ボックスを購入したのは、実はある一枚が聴きたかったからだった。その一枚は単体では当時入手できなかった。それはアシュケナージがショパンコンクールで2位になった記念で録音された2番の協奏曲だった。周知のように、このときの2位は実際には一位で、当時のショパンコンクールの審査を支配していた政治的思惑で、2位になっただけで、だれもが1位だと思っていたらしいし、そして実際その後の活躍からしても、それははっきりしていた。大分前にFMでこの演奏を聴いて、そのあまりのすばらしさにいつか購入したいと思っていたのだが、どういうわけか、ショパンコンクールの優勝者は、その後ショパンの協奏曲を録音しないような傾向があって、実際にアシュケナージもポリーニも、ライブで演奏はしても、録音はしていない。
 2番はその後、ポリーニのすばらしいライブに接して、どうしてもいい演奏がほしくなり、アシュケナージのボックスにはいっていることを確認して、購入したのだった。(ポリーニは2番をまったく録音していない。その後何度もきいたが、やはり、すばらしい。2番の2楽章は、ピアニストの音楽性が、はっきりとでる曲だ。50年代の録音だから、古いのだが、音はすばらしい輝きでとらえられている。コンクールの優勝者が、大家になって録音しないのは、あのような曲は青春時代だからこそ、味がだせるという感じがあるのだろうか。 (2023.8.28)

.道徳教材分析 手品師1

有名な道徳教材であり、私が学生の教育実習の研究授業で何度かみたものでもある。子どもたちも活発に意見をいえる一方、教師がどのようにまとめるのか、子どもたちの発達段階との兼ね合いで、けっこう難しい教材でもある。
小学校で行われた研究授業で出た意見と、実際に大学生に概要を話してだしてもらった意見とは、かなりの隔たりがあった。コールバーグ理論のある意味、よい検証の材料にもなる教材である。

 まずテキストを確認しておこう。(次の文章は、大阪府のホームページで公表されている資料から転記した。http://www.pref.osaka.lg.jp/attach/9723/00000000/syougattkou2.pdf )

            手品師

 あるところに、うではいいのですが、あまり売れない手品師がいました。もちろん、くらしむきは楽ではなく、その日のパンを買うのも、やっとというありさまでした。
「大きな劇場で、はなやかに手品をやりたいなあ。」
 いつもそう思うのですが、今のかれにとっては、それは、ゆめでしかありません。それでも手品師は、いつかは大劇場のステージに立てる日の来るのを願って、うでをみがいていました。
 ある日のこと、手品師が町を歩いていますと、小さな男の子が、しょんぼりと道にしゃがみこんでいるのに出会いました。
「どうしたんだい。」
 手品師は、思わず声をかけました。男の子は、さびしそうな顔で、おとうさんが死んだあと、おかあさんが、働きに出て、ずっと帰ってこないのだと答えました。
「そうかい。それはかわいそうに。それじゃおじさんが、おもしろいものを見せてあげよう。だから、元気を出すんだよ。」
と言って、手品師は、ぼうしの中から色とりどりの美しい花を取り出したり、さらに、ハンカチの中から白いハトを飛び立たせたりしました。男の子の顔は、明るさを取りもどし、すっかり元気になりました。
「おじさん、あしたも来てくれる?」
 男の子は、大きな目を輝かせて言いました。
「ああ、来るともさ。」
 手品師が答えました。
「きっとだね。きっと、来てくれるね。」
「きっとさ。きっと来るよ。」
 どうせ、ひまなのからだ、あしたも来てやろう。手品師は、そんな気持ちでした。
 その日の夜、少しはなれた町に住む仲のよい友人から、手品師に電話がかかってきました。
「おい、いい話があるんだ。今夜すぐ、そっちをたって、僕の家に来い。」
「いったい、急に、どうしたと言うんだ。」
「どうしたもこうしたもない。大劇場に出られるチャンスだぞ。」
「えっ、大劇場に?」
「そうとも、二度とないチャンスだ。これをのがしたら、もうチャンスは来ないかもしれないぞ。」
「もうすこし、くわしく話してくれないか。」
 友人の話によると、今、ひょうばんのマジック・ショウに出演している手品師が急病でたおれ、手術をしなければならなくなったため、その人のかわりをさがしているのだというのです。
「そこで、ぼくは、きみをすいせんしたというわけさ。」
「あのう、一日のばすわけにはいかないのかい。」
「それはだめだ。手術は今夜なんだ。明日のステージにあなをあけるわけにはいかない。」
「そうか・・・・・・。」
 手品師の頭の中では、大劇場のはなやかなステージに、スポットライトを浴びて立つ自分のすがたと、さっき遭った男の子の顔が、かわるがわる、浮かんでは消え、消えてはうかんでいました。
(このチャンスをのがしたら、もう二度と大劇場のステージに立てないかもしれない。しかし、あしたは、あの男の子が、ぼくを待っている。)
 手品師はまよいに、まよっていました。
「いいね。そっちを今夜たてば、明日の朝には、こっちに着く。待ってくるよ。」
 友人は、もうすっかり決めこんでいるようです。手品師は、受話器を持ちかえると、きっぱりと言いました。
「せっかくだけど、あしたは行けない。」
「えっ、どうしてだ。きみがずっと待ち望んでいた大劇場に出られるというのだ。これをきっかけに、君の力が認められれば、手品師として、売れっ子になれるんだぞ。」
「ぼくには、あした約束したことがあるんだ。」
「そんなに、たいせつな約束なのか?」
「そうだ。ぼくにとっては、たいせつな約束なんだ。せっかくの、きみの友情に対して、すまないと思うが・・・・」
「きみがそんなに言うなら、きっとたいせつな約束なんだろう。じゃ、残念だが・・・また、会おう。」
 よく日、小さな町のかたすみで、たったひとりのお客さまを前にして、あまり売れない手品師が、つぎつぎとすばらしい手品を演じていました。
    出典 小学校 道徳の指導資料とその利用1

 私が教育実習の研究授業でみた授業は、大阪府が掲載している授業の流れの案に非常に近いものだった。だいたい「公認授業モデル」なのであろう。ポイントとして、4点が書かれている。
1 男の子に明日も来ることを約束する→きっと来るよと約束したのは、どんな気持ちからでしょう。
2 仲のよい友人から電話がかかる→友人から誘いをうけたとき、手品師はどんなことを考えたでしょう。
3 受話器をもちかえて、きっぱりと断る→なぜ友人からの誘いを断ったのでしょう。
4 たった一人の客の前ですばらしい手品を演じる→どんな気持ちで手品をしているのでしょう。
 そして、手品師の迷いに関して、
・先にした約束は断れない
・自分の夢よりも子どもを元気づけることを優先したい
・人を喜ばせる仕事をしたい
という気持ちを確認する。(以上大阪府資料より)

 おそらく、ここで、約束の大事さを確認するということだろうし、また、実習生もそういうまとめをしていた。そのときに、子どもたちに、手品師の行為を肯定するかどうかを確認したら、ほとんどの小学生たちは、肯定するだろうと思う。
 しかし、大学に戻って、このことを話して、学生たちに、この手品師の行為を肯定するかどうかを聞いたところ、半数以上は、肯定しないほうに手をあげたのである。私の授業は、「教育学概論」であるが、教職をめざしている学生はほぼ全員が履修しているので、将来先生になろうと思っている学生たちの見解といってよい。しかし、彼らもまた、実習生としてこの教材をとりあげたら、おそらく、この資料集のような授業をするのかもしれない。
 この教材については、かなりたくさんの授業研究がインターネット上に掲載されているし、雑誌の特集もあるが、その検討はあとにして、実習生の研究授業と、その後の大学生たちの反応とを踏まえた考察をここで行い、現場の授業研究の検討は、次の機会にしたい。

<ジレンマ教材としての「手品師」>
 「手品師」という教材は、「徳目主義」的教材としては、「約束を大切に」という価値を教えるもので、かなりストレートに結論に至るように、「公認手引き書」では構成されている。しかし、大学生だけではなく、実は、私がみた研究授業でも、そうした結論のもっていきかたに異論を唱えた子どもがいた。「友人との約束もあったんじゃない?」という趣旨の発言だったが、残念ながら、実習生は、「そうだね」といいつつ、その意見をその後はまったく無視してしまい、予定通りの進行をさせていた。この教材を「約束の大事さ」を教えるのが眼目だとしても、「約束はふたつあり、それが相いれない形で現れている」内容になっている。まだ、学年が下だったり、あるいは、表面的に読んでいたり、教師のいうことをそのまま受け取る子どもたちであれば、「公認指導」のままに受け入れていくだろうが、実際に私がみた授業でも、そうではない指摘をする子どもがいたのである。
 つまり、この教材は、ふたつの両立しがたい「約束」をどう考えるのかという点でこそ、扱う価値のあるものなのだといえる。
 更に大学生になると、プロとしての手品師の「生き方」を考えざるをえなくなる。
Q1 電話がきたとき、何故迷ったのか。
 この回答は簡単である。男の子と約束をしていたから。
Q2 この相いれない「約束」を「回避する」方法はあったのか。
Q3 友人の申し入れを受け入れて、なおかつ、子どもとの約束を尊重する方法はあるか。
 少なくとも大学生からは、Q2とQ3の回答は、いくつか出てくる。
A2
「おじさんはね、手品師の仕事がいつ舞い込むかわからないので、万が一今日の夜にでも話があったら、明日来られないかもしれないけど、でも、1週間後なら、大丈夫だから。」
「(同)、もし来られなかったら、別の日に**に電話をくれないか。」
「(同)、君に連絡する方法はあるかい?」
 この点については、時代も関係するだろう。今の子どもたちは、多くがスマホをもっているから、スマホをもっている前提で、「こっちから電話するよ、(メールするよ)」相手がもっていなければ、公衆電話で、電話してくれれば、事情を話して、別の日の約束をすることが可能だと確認をする。
 このようなことをすれば、Q3の回答にもなっているわけである。
 学生のなかには、仕事と子どもとの約束を比較して、大事なのは仕事だと割り切る者も少なくない。とりあえず、仕事をとって、後日男の子をさがして、事情を話せば分かってもらえるのではないかと考えるわけである。小学生では、「仕事」についての感覚はあまりないが、大学生は間もなく就職する身だから、当然仕事重視になる。近年、キャリア教育をさかんにしている以上、こういうテーマで「仕事」を無視することは、道徳教育としても、不十分といわざるをえない。
 したがって、この教材をもっと読み込むと、手品師の「プロ意識」を考えざるをえなくなる。
 出だしの文章が、「うではいいが、売れない手品師」となっている。どうやら、何かの団体に所属しているわけではなさそうだから、フリーランサーとしての手品師なのだろう。ということは、常に仕事依頼に対してアンテナを貼っていなければならない。しかし、この手品師は、そこに甘さがある。この甘さが、男の子に「明日の来て」とせがまれたとき、すぐに承知をしてしまい、「どうせ、ひまなのだから」と、自分を納得させている。皮肉なことに、その後すぐに友人からの依頼があるわけだが、もし、仕事依頼があることに、アンテナ意識があれば、子どもとの約束の際にも、「もしも」のことに備えるはずである。そういう意識が欠けているがために、「売れない」手品師になっている。
 
 次は「約束」の二重性である。実習授業での子どもの発言でわかるように、約束は、男の子とだけではなく、友人ともしていたわけであり、「約束を守る」ことの大切さであれば、友人との約束を軽視していいのかと当然疑問をもつはずである。友人に、「何かいい仕事があったら紹介してよ」「うん、いいよ、そのときには、真っ先に君を推薦しておくから」というようなやり取りを、この手品師と友人はしていたはずであり、だからこそ、それを友人は実行したのだろう。急だったから、手品師の都合を聞かずに推薦していたわけだが、それは急の話だから仕方ないといえよう。「約束の大事さ」を強調しながら、こちらの約束を無視してもいいはずはない。

 以上まとめれば、この教材には、3つの対立要素が存在していることがわかる。
 「男の子との約束」「友人との約束」「仕事をする者としての姿勢」
 子どもは多様だとしても、5年生6年生であれば、しかも、キャリア教育を受けている学年であれば、この3つの要素すべての大切さを認識すること、この物語では、両立できない形で処理されているが、別の可能性として、つまり、手品師の姿勢として、両立可能な方法があることを理解できるはずである。
 手品師が「売れない」状態から、「売れる」ようになるためには、何が必要なのか。
 それを普段から実行していれば、男の子との約束が、どのような形になったか。
 約束をより柔軟な形にしておけば、友人からの依頼を受けることができたが、その際、次に何が必要であったか。
 こうしたことを考えさせたとき、この教材はもっと興味深い教材になっていくと思う。(2019.2.17)


.道徳教育教材の分析を始めるにあたって

 私自身は、道徳教育を「教科」として、あるいは毎週特定の時間を使った「特設道徳」は必要だと思っていない。1958年に、道徳が時間設定されたときに起きた論争でいえば、道徳は教育全体のなかで行われるもので、教科としては、国語や社会のなかで、そして広く学校行事などで行われるものだと考えている。さあこれから道徳を勉強しましょう、などといって、道徳が身につくとは思えないのである。その証拠として、文部科学省や教育委員会が推進している「道徳教育研究推進校」の取り組みは、それが終わると学校が荒れるというのは、かなり頻繁に見られる現象なのである。研究推進校は、教師の内部的要請で決まるのではなく、だいたいは行政あるいは管理職の意向で決まっていく。外から持ち込まれた研究課題だから、教師たちは本心から行えないし、また、どうしても形式的になる。特に道徳教育の場合はその程度が強い。「形が揃っていること」などを強調したりしがちである。だから、決められて期間を終わると、解放感から緩んでしまうわけである。「いじめのない学校づくり」をずっとめざして、道徳教育研究推進校として活動したあと、次の年にいじめによる自殺が起きた大津の中学の事例が、その典型例であるといえる。自殺者がでないまでも、学校が荒れた事例は少なくないといわれている。
 近年、日本の企業や官庁をはじめとする大きな組織で、不祥事が続発している。官庁における統計のごまかし、国会における嘘の答弁、工事の手抜き、検査のごまかし等々。組織を動かしている人々の道徳心の欠如を感じさせることだらけである。こうした不正の中核にいる人たちは、決して学校教育で道徳教育を受けてこなかった人たちではなく、むしろ、道徳教育が強化された以降に学校教育を受けた人たちである。だから、道徳教育の無意味さを感じさせる、と私は最近まで思っていた。しかし、どうやら、そうではないような気もして、もう少し道徳教育について、教材レベルも踏まえて考察してみたいと考えるようになった。むしろ道徳教育を重視して実行させようとしている人たちのほうにこそ、問題が生じているのではないかと思うようになったのである。一番典型的なのは、現在の政府は、国民の多くが感じているように、嘘で固められている。厚生労働省の連続的な統計操作は、経済政策の真実を隠し、実態とは異なる現象を浮きだすために、政権の指示によって行われていると考えられる。ふたつの学校設立の過程をみても、同様のことがいえる。そして、この政権は、道徳教育にもっとも熱心な姿勢をずっととってきた。教育基本法の改定と、道徳教育の教科化は、この政権によってなされている。政権がこうであれば、政権の直接的影響とはいえないまでも、そうした政権を支配的に生み出している層、経営層の道徳観と連鎖していると見るのが自然であろう。
 さて、こうしたことは、研究者として考えていても、実際の学校現場では、道徳の教科書が与えられ、毎週道徳教育の時間で教え、そして成績をつけなければならない。その現実にどう対応するのか、自分たちで自由に選ぶことができるわけではない道徳教科書の内容を、どのように教えていくのか。そうした問題に取り組むことを避けることはできない。ここの試みは、そうした必要性への私なりの努力である。
 
 道徳教育は、いくつかの立場がある。
 もっとも歴史的に主流なのは、「徳目主義」である。宗教的な背景をもった道徳教育は、ほとんどが徳目主義である。道徳的な徳目を、その教材の到達目標として掲げ、その徳目を典型的な表す物語を教材として提示する。その教材を読むことによって、「ああ、嘘をついてはいけないのだ」という徳目を、心に定着させようとするものである。
 いかなる道徳教育も、徳目主義から完全に逃れることはできないといわざるをえない。社会には、守るべき規範があり、その規範は、徳目の要素となるからである。しかし、現代社会においては、いかなる徳目も、単純な形で受け入れれば、いざというときに適切に、その徳目にそって行動できるわけではない。もっとも否定しがたい徳目である「人を殺してはならない」という道徳の徳目でも、そうはいえない場面がたくさんある。
・自分が殺されそうになったときに、反撃したら相手を死に至らしめた。(正当防衛)
・耐えがたい苦痛に苛まれている人が、明確に、事前に文書をもって、安楽死を望んでいるとき、安楽死させた。
・逃亡者を殺害するように命令され、実行しなかったらお前を殺すといわれて、銃を突きつけられた状態で、殺害を強制された。
 殺人ですら、ある場合には、無罪になる事例は少なくない。まして、窃盗、嘘などは、より多様な場合があるだろう。もちろん、「結んではいけない」「うそはいけない」ということを教えるべきではないとはいえない。きちんと教えるべきである。しかし、それを教えて済ませることで、現在の道徳的な対応が可能になるわけではない。「嘘も方便」ということわざすらあるから、昔からそうだったともいえる。
 このようななかで、道徳教育の方法として、もっとも優れているのは、私はコールバーグ理論であると考えている。そして、ジレンマ教材を使った道徳教育が、現代社会において、難しい判断を可能にする能力を育てる上で、有効だろうと思う。ところが、これまでの道徳副教材や、検定道徳教科書は、単純な徳目主義に陥っている事例も多く、ジレンマ教材とはいえないものが多数である。しかし、実は、いかなる単純徳目主義の教材であっても、ジレンマ教材化して、考えさせることはできる、と私は考えている。それは、教師が、現代社会における問題を深く考察しているかにかかっているのであるが、やはり、教材解釈として、考えるポイントを研究者が示しておくことは、大切であると考える。この場は、そうした試みである。(2019.1.22)

.中学生にも麻薬汚染が

 9月に大麻所持で中学生が逮捕されて話題になったが、大麻に汚染されている中学生が多数いると、テレビに対して証言した中学生が現われて、更に問題になっている。
「大麻に手を染める生徒は「沢山いる」隣の子に「見て見て」 中学生が激白、薬物がまん延する沖縄の現状」
https://news.yahoo.co.jp/articles/e17fe066f14515515152079ca764db8fea2c6d14
 逮捕された生徒と同じ学校の生徒が証言したものだが、だいたいは先輩から入手し、入手すると、まわりにみ見せびらかすことが多いと語られている。つまり、違法薬物で、逮捕される可能性のある「物」だという認識が、極めて薄いようだ。
 日大のアメフト部での大麻汚染問題は、まだ泥沼状態が続いているが、社会に拡大していることが事実であるとすれば、本当に由々しき状況である。

 気になることのひとつに、大麻はたいした害がなく、煙草より安全だから、煙草が合法なら、大麻も合法にしてもいいのではないか、という見解や、大麻は医療的な効果があるので、合法にすべきという、ふたつの合法論があることだ。もちろん、意見は自由だが、合法化論には、まったく賛成できない。

 まず医療的な効果があるというのは、麻薬というものは、多くの種類のものが、治療用に、厳密に管理された中で使用されているのだから、医療的な効果があるということは事実だろう。しかし、だから、一般的な使用を合法化することとは、まったく別の問題であって、専門医によって厳格に管理された上で使うのと、一般人が、「注意書き」があったとしても、自由意志によって使用することとは、まったく意味が異なる。麻薬は麻薬であって、基本的には身体的には害があるものである。
 煙草より害が少ないという点についても、煙草自体の害が認識され、事実上多くの場で喫煙が禁止されていることを見れば、煙草もやがて、より厳しく禁止されるようになるべきであるとも考えられ、煙草より害が少ないことは、合法化の理由にはならない。
 大分前のことだが、ある心理学者が、政府の煙草審議会に参加して、そこで議論されていたことを紹介している本があった。それは、煙草を容認しておけば、政治に対する不満が弱まる、しかし、禁止すると政府に対する不満が、煙草禁止と合わせて強化されるので、合法にしておくことがよい、という理由で、煙草の禁止措置をとらないことが確認されたという。
 煙草の合法措置は、こうした市民の不満解消のためであるとすれば、大麻の合法化が行われたとしても、実はそうした意味合いかも知れないのである。

 ここでもう少し考えたいのは、世界で大麻などソフトドラッグが合法化されている国があることだ。いわゆる先進国でソフトドラッグ合法化したのは、オランダが最初だった。オランダは、バードドラッグは現在でも厳格に禁止して取り締まっており、ソフトドラッグは使用場所や量を制限して、その限りで合法化している。そして、現在でも実施されているかは、確認していないが、かつて麻薬バスを走らせていた。大麻などを希望する者が、所定の場所、所定の時間にいくと、医師が麻薬を射ってくれるのである。
 問題は、何故そうした措置をとったかである。決して、大麻が煙草より安全だから、合法化してもいいだろう、などということではないのである。当時、麻薬に関連して、深刻に恐れられていたことはエイズだった。アメリカではエイズが同性愛の行為から伝染していたといわれたが、ヨーロッパでは、主にドラッグの注射針から伝染したと考えられていた。注射器をまわしながら、ドラッグを注射していたから、そこにひとりエイズ感染者がいれば、多くの人に伝染してしまうわけである。だから、なんとか、そうした行為を止めさせるために、医師が安全に注射してあげるかわりに、それに違犯した者には、厳罰を課すという方法をとったのである。大麻は吸引する方法をとることが多いので、場所を指定して(コーヒーショップといわれる場)合法にしたのである。もちろん、麻薬バスでは、投与の量を少しずつ減らすことによって、中毒状態を治療する効果も狙っていた。
 つまり、エイズが蔓延することを防ぐために、より害の小さい方法をとったのが、オランダのドラッグ合法の目的だったのである。

 現在日本では、大麻などの合法化によって、より大きな害を効果的に減らすことができる、などという対象が存在するわけではない。かつては、犯罪組織がドラッグを扱っているのが普通だったから、合法化することによって犯罪組織の資金源を絶つという目的もありえたが、今は暴力団への取り締まりが徹底していて、暴力団が主体となって、ドラッグが拡散しているわけではなく、むしろ、「普通」のひとたちのビジネスと興味によって拡散していることがめだつ。したがって、身体的害の小さなドラッグを合法化することの社会的メリットは存在しないのである。害は小さいといっても、害であることに間違いはない。むしろ、若者がドラッグに近づかないように、可能な限りの方法を実行すべきである。

.オペラの魅力は重唱と場面
 オペラといえば、まずは有名なアリアが思い浮かぶ。そして、アリアから全曲に入っていく人が多いに違いない。私の場合、オペラに接した最初は、NHKが招いたイタリアオペラのテレビ放映だったので、最初から全曲を見て聴いた。もちろん、最初に注目するのは、有名なアリアだったが、それでも、魅力的な場面には惹かれた。そして、オペラは、「歌劇」なのだということを実感させてくれるのが、やはりドラマが展開していく場面であり、そうしたところは、複数の歌手が絡み合いながら歌とドラマが展開していく。そして、オペラの魅力的な音楽が、そうした重唱にこそある。そこで、私がもっとも魅力的に感じるオペラの「場面」を紹介してみたい。

 カルメン
 まずはオペラの王ともいうべき「カルメン」(ビゼー作曲)だが、「カルメン」は、そうした場面、複数の歌い手が歌う部分が非常に多く、むしろ、単独のアリアはほとんどない。ハバネラや闘牛士の歌は合唱が入るし、セギディリギアや花の歌はカルメンとホセの二重唱のなかにある。完全に単独で歌われるのは、ミカエラの3幕のアリアくらいだ。
 カルメンは、伍長だったホセが、密輸団のカルメンに恋をして、最終的にカルメンを殺害してしまうという話だ。喧嘩の首謀として罰せられることになるカルメンを護送中に、カルメンに説得されてカルメンを逃がしてしまい、営倉に容れられていたホセが、釈放されてカルメンのところにやってくる。(その前に闘牛士エスカミリオの歌や、密輸団の五重唱があり、ホセを誘い込めという提案がカルメンになされている。)カルメンはご機嫌でホセのために踊るのだが、帰宅のラッパがなるので、帰ろうとするホセをカルメンが激しく非難する。そこで、歌われるのが、オペラ上最も情熱的な愛の歌である「花の歌」だ。しかし、カルメンが納得しないまま、ホセが帰ろうとすると、そこにホセの上官がやってきて、ホセを叱責して、早く帰れというが、ホセが拒否して、結局密輸団に入ることになる。当初はホセとカルメンの二重唱だが、やがて上官や密輸団、そして合唱が入ってくる、「カルメン」のなかでも、最も盛り上がる場面である。
 私は、「カルメン」に関しては、カルロス・クライバーが断然すばらしいと思う。全曲がyoutubeにあるので、ぜひ視聴してほしい。
https://www.youtube.com/watch?v=j6rpw8uRGOc
 上記の場面は、1時間8分あたりからになる。

 椿姫
 ベルディの「椿姫」は、彼のオペラの題材としてはめずらしく、古い時代ではなく、当時の現代の、しかも実話の小説を扱っている。オペラとしては、それは珍しいことだった。高級娼婦であるヴィオレッタと田舎紳士であるアルフレードが、パリ校外で生活を始める。そこにアルフレードの父ジェルモンが、ヴィオレッタに、アルフレードの妹が結婚するのだが、兄が娼婦と生活していると、結婚が壊れてしまうので、別れてくれと迫る場面である。生活費を出しているのはヴィオレッタだったのだが、ジェルモンはアルフレードが出していると誤解しており、そうした誤解を解く場面もあるが、とにかく、抵抗するヴィオレッタも、結局折れて、別れることを約束する場面である。
 このヴィオレッタとジェルモンの二重唱は、傑作オペラの「椿姫」のなかでも、とりわけ音楽的に優れた部分と、多くの人に認められている。
 多数の映像がyoutubeにもあるが、私が最もすばらしいと思うのは、ショルティ指揮、ゲオルギューが歌うイギリス・ロイヤルオペラのライブ映像だ。これには、少々思い出があり、脱線するが、私が大学につとめていたとき、学生のヨーロッパ福祉研修につきそったことがある。イギリス訪問時に、夕方自由時間があったので、ロイヤルオペラにいったのだが、当日雨にもかかわらず、切符売り場から外にかけて、長い行列ができているのだ。ほとんどないらしい当日券と、キャンセル待ちをしているらしい。行列の長さから、とうていはいれないと諦めて帰ったのだが、そのときの公演が、このショルティ指揮の椿姫だったことが、あとでわかった。幸いにもDVDがでたので、購入し、何度も視聴した。指揮、歌手すべてがすばらしい。アルフレードが弱いというのが、ほぼ定説になっているが、私はそうは思わない。弱い歌手をショルティが使うはずがないのだ。新しいプロダクションのプレミエ公演だったのだから。まだ30前だったゲオルギューは、歌だけではなく、視覚的にも満足させてくれる。
https://www.youtube.com/watch?v=u3pP-BwxMsI
 40分あたりから、この二重唱が始まる。
 日本語字幕がほしい人は、佐藤しのぶが歌う映像がある。このアルフレードは、アラーニャである。
https://www.youtube.com/watch?v=HmuLir2N-gE

 コジ・ファン・トゥッテ
 モーツァルトは、どのような場面でも、それにふさわしい音楽をつけることができた人だから、オペラのドラマが進行する、印象的な場面が多数があるが、私がとりわけ魅力を感じるのは、「コジ・ファン・トゥッテ」のほぼ最終場面で、フィオルディリージが落ちるところだ。
 「コジ・ファン・トゥッテ」というオペラは、初演時政治的事情で、わずかな上演で打ち切られ、その後、ほとんど上演されないまま戦後に到ったようだ。そして、傑作と広範に認められるようになったのは、1970年くらいからではないだろうか。それまでは、ベームの孤軍奮闘だったような気もする。認められなかった理由は、女性蔑視だからということだ。フェランドとグリエルモが自分たちの恋人を礼賛しているのを、哲学者のアルフォンソが女の恋心などあてにならないと揶揄し、怒った二人と賭をする。2人が違う恋人に迫って、24時間以内に愛を勝ち取れるかというのだ。それで、最初はふざけていた二人だが、だんだん真剣になって、最終的に、フィオルディリージとドラベラが違う人の愛を受け入れてしまうという話だ。最終的には、これはアルフォンソの仕組んだ芝居であることがわかり、大団円になるのだが、男性も女性も、少しずつ微妙に感情の変化がおこり、それをモーツァルトは非常に巧みに音楽で表現している。女性蔑視というよりは、女性が自立する姿が描かれているとも解釈されるようになり、現在では、あらゆるオペラのなかの最高傑作と評価する人も少なくない。
 本来はフィオリディリージとグリエルモ、ドラベラとフェランドのペアだったのだが、まずグリエルモがドラベラを落とし、フェランドはがっくり来てしまう。フィオリディリージはあくまで、グリエルモへの貞節をまもろうとするが、揺れている。それを払拭するために、グリエルモの軍服をきて、戦場にいくことを決意するのだが、そこにフェランドがやってきて、フィオリディリージのもっている刀を自分につきつけて、最後の説得を試み、結局、彼女も受け入れる。それを外でみていたグリエルモが失意のどん底に落とされるというわけだ。そして、アルフォンソが「コジ・ファン・トゥッテ(女はみんなこうしたもの)」というモチーフを歌う。
 このオペラの演出はさまざまな変更があり、一番極端なのは、女性二人が、相手がとりかえて自分たちを口説いていることを知っていて、それを受け入れるというものだろう。ポネルの映画版が最初のようだ。
 また、オペラとして、めずらしいと思うが、主役6人が、ほぼ同等の重みをもっており、そのため、多くの音楽が重唱になっていることだ。アンランブル・オペラといわれることが多い。
 人気のない時代にも積極的にとりあげていたベームには、多数の録音があり、映像もあるが、私は、ムーティの演奏が好きだ。ムーティには3つの映像があり、最初のザルツブルグ音楽祭と、最後のウィーン国立歌劇場(実際の上演は違う劇場のようだ)がよい。いずれもウィーンフィルの演奏だ。youtubeには、後者があるので、そちらを紹介しておく。

 映像は、ムーティのウィーン版だ。
https://www.youtube.com/watch?v=Egi7fxTEUCQ&t=9640s
 2時間半くらいから二重唱になるが、その前からみたほうがわかりやすい。

 ボリス・ゴドゥノフ
 「ボリス・ゴドゥノフ」は、ロシアオペラの最高傑作といわれてり、ムソルグスキーが作曲し、完成させた唯一のオペラである。そして、他のムソルグスキーの曲と同様、他人が手をいれたバージョンで広まった。「ボリス・ゴドゥノフ」は、リムスキー・コルサコフ版、そして、ショスタコービッチ版で演奏されていたが、最近ではオリジナル版で演奏されることがほとんどになっている。オリジナル版を広めたアバドの功績といえるだろう。
 皇帝となったボリスは、先帝の息子を殺害したという疑いをもたれて苦悩している。僧侶のグリゴーリーが、自分はその王子だったと名乗り、追われるが、ポーランドに逃れ、そこで、貴族の娘マリーナの援助を受けることになり、モスクワに進軍するが敗れてしまう。ボリスも死ぬ。
 私が紹介したい場面は、グリゴーリーが、王子ディミトリーだと名乗って、当初冷たかったマリーナを説得する場面である。
 オリジナル版の復興者であったアバドの映像がないのは残念だが、ゲルギエフが指揮した優れた映像があり、youtubeでみることができる。
https://www.youtube.com/watch?v=CwBKZkPflKY
 この映像は後半部分のみなので、最初からみてもよいが、30分くらいから、この場面のマリーナが登場する。
 
 フィデリオ
 5つ目に何を選ぶか大分迷ったのだが、劇的なという意味では、やはり、「フィデリオ」かと思って選んだ。「フィデリオ」は、モーツァルトの「ドン・ジョバンニ」や「コジ・ファン・トゥッテ」は、あまりに不道徳だ、本当の夫婦愛を描きたいというので選んだ題材だと言われている。ピッツァロに政敵として逮捕され、地下牢にいれられて、殺されることになっている夫を救うために、男性に変装してフィデリオと名乗っている妻レオノーラが、この牢番に雇われており、死骸を埋める穴掘りを手伝わされている。そして、そこにピッツァロが現われ、いよいよ殺されかかるときに、レオノーラが妻であることを明かしつつ、ピストルをピッツァロにつきつける。そのとき、トランペットが鳴り響き、大臣フェナンドが到着し、夫フロレスタンとレオノーラは救われ、ピッツァロは逮捕される。
 ベートーヴェンは、本質的にオペラ向きの作曲家ではなかったが、なんとかオペラで成功したいと、非常な努力を重ね、フィデリオを何度も改定している。そのために、序曲が4曲も遺されていることは、よく知られている。
 この場面は、さすがに劇的表現に優れていたベートーヴェンらしく、緊迫した状況がよく表現されており、ピストルをつきつけて、トランペットがなる場面の雰囲気の展開は見事だ。
 映像は、ギネス・ジョーンズ、ジェイムズ・キング、ナイトリンガーがでている、全曲の映画バージョンだ。1時間20分くらいから、この場面が始まる。
https://www.youtube.com/watch?v=94knIqxxn4o

 5つのオペラの劇的場面を紹介したが、まだ他にたくさんあると思われる。こうしたドラマティックな場面の音楽を味わうことで、オペラの深い魅力を理解するようになると、楽しみ方もちがってくるのではないだろうか。asablo 2023.12.16


. 日大アメフト部廃部問題について

 日大のアメフト部が再び大きな問題を起こしたのは、二度目だから、さすがに世間の見方は厳しい。廃部が競技スポーツ運営委員会で決定したとき、ヤフコメでは当然だろうという意見が多数だったという印象だった。日大アメフト部は、日大のなかでも、また全国のアメフト部のなかでも、際立って強い部だったそうだから、おそらく大学内での扱いもかなり特別なものがあったのだろう。
 私は既に定年退職しているが、元大学教師として、こういう問題については、常に考えさせられたものだ。もっとも、私が勤務していた大学は、いっさいスポーツ推薦がなく、したがって、大学のスポーツ部でめだった活躍をする部は、ほとんどなかった。比較的強かったのがトランポリン部だったことでわかるように、メジャーなスポーツは、ほとんどが一部、二部などにもはいっていなかったはずである。そして、少数はあったかも知れないが、スポーツ推薦をとりいれて、スポーツで名をあげ、学生募集を有利にしよう、というような意見をもっているひとたちも、ほとんどいなかった。スポーツ推薦制度を実施して、有名高校生を勧誘し、部を強くして、名をあげるというのは、まともな大学人の感覚からすれば、大学の本当の役割を逸脱しているわけであるし、なによりも、有名高校生を勧誘するためには、裏金が必要となるのが普通で、そこに不明朗な会計が生じることになり、それはほぼ確実に、不明朗な金を扱う人が、不明朗な権力を振るうようになるのである。もちろん、会計も明朗ではないから、つつかれれば、やっかいなことになる。逆に、スポーツ推薦がまったくなかった私の勤務大学の会計は、極めて明朗で、完全に公表されていた。これは大学に限らず、組織にとって非常に大切なことである。
 逆にいえば、日大のようなスポーツ推薦がかなりの分野で行われている大学の会計は、いたるところに不明朗な部分があるに違いないと推察できる。タックル問題のときの監督やコーチの動きなどは、いかにもおかしなものだったし、今回の理事会の動きも、不思議なものだ。競技スポーツ運営委員会が廃部を決定し、部の監督が部員の学生立ちに通知しているにもかかわらず、しかも、その方針が文部科学省に報告されていたにもかかわらず、理事会で何人かの反対意見がでて、決定できなかったということは、理事のなかに、スポーツ利権にかかわる人物がいたのであろう。大学という教育機関がこうした闇の部分をもつことは、いいはずがない。教育機関として腐敗していくことは、避けられないと思われる。


..一般部員に責任はないといえるか
 廃部については、必ず一般部員に責任はないではないか、連帯責任という古い感覚を適用するのは間違っているという意見がでてくる。たしかに、連帯責任という考え自体は、現在では適切なやり方ではないが、一般部員に責任がないかどうかは、また別の問題である。ジャニーズ事件でも、ジャニーズタレントに罪はないという議論があるが、私は、やはり、タレントにも、見て見ぬふりをしたという道義的適任があるし、また、我慢しろと後輩たちに言っていたり、あるいは、加害行為に協力したりした場合には、単なる道義的責任では済まない部分があると考えられる。日大アメフト部の部員についても、基本的に部員は寮生活をしているのだから、大麻を扱っている部員のことは、かなり噂になって知っていたはずであり、そうだとすれば、しかるべき責任者に報告したり、やめさせるようななんらかの対応をとる必要がある。そういうことをせずに、傍観していた部員が多いすれば、やはり、最低限道義的責任はあるといわざるをえない。
 したがって、一般部員には責任がないのだから、廃部はおかしい、不当な連帯責任の適応だ、というわけにはいかないだろう。
 不正が行われていることを知っていたら、見て見ぬふりをすることは許されないのだ、ということを教えるという意味でも、廃部は「教育的な意味」をもつといえる。逆に、廃部を決めて、それを撤回したら、みていてもみぬ振りをしていれば、事態の悪化の責任は問われないし、不利益に扱われることもないのだ、ということを教えるという意味で、反教育的といわざるをえない。
 したがって、一般部員には責任はないという論理は成立せず、このような事態をひき起こした以上、廃部は適切な措置であるように思われる。

..部による対抗試合そのものが考えなおされる必要がある。
 日大アメフト部では、不祥事という形で問題になったが、もともとスポーツ推薦で入学した学生たちが行っているスポーツは、大学教育のなかで行われるのに相応しいようには思えないのである。私は、ごく普通の教師だったので、あまりに部活に肩入れする学生には、あまり共感をもてなかった。もっとも、私の大学にはスポーツ推薦がないし、また、別の文系の推薦なども当然ないから、授業を無視して部活に入れ込む学生は、極めて稀にしかいなかったのではあるが。
 私は、中学・高校の部活そのものを、社会体育に移管すべきであり、学校教育のなかで行うには、学校の教育活動だけではなく、そのスポーツをやっているひとたちのスポーツ能力の向上にとっても望ましくないという考えである。それは、大学においても、同様だろう。大学の場合には、中学や高校での部活の弊害は、比較的少ない。そうした弊害のひとつは、ひとつの学校には、特定のスポーツの部はひとつしかなく、そのスポーツをやりたければ、全員がそこにはいらざるをえない。経験豊富で高い技術・能力をもっている生徒も、初心者も同一の場で練習をせざるをえないのである。それは教育的にも、また人間関係的にも好ましいとはいえない。だから、さまざまなレベルや目的をもった社会体育のクラブとして存在したほうが、現在は有効なのである。
 大学には、ひとつのスポーツに、多数のサークルがあるのが普通であり、熱心にやりたい学生は体育会系の部に、楽しくやりたい人はサークルにという棲み分けが可能になっているから、中学・高校のそうした弊害はないのだが、逆に、大学でまるでプロ予備軍のような部活をしている選手たちは、多くが勉学をおろそかにしていることが多いだろう。やはり、大学は、大学教育をしっかり行い、プロ選手をめざすようなひとたちは、社会のクラブに所属するような、分業が必要になっているように思うのである。

 ただ、最後に、大学が初めて箱根駅伝に出場が決まると、それだけでかなり受験の応募者が増えるという話がある。おそらく事実なのだろう。そういう社会的雰囲気ができているというのも、大学教育の向上にとっては、パラスではない。おそらくメディアもそうした雰囲気を煽っている面がある。大学はやはり勉学をするところなのだという点から、考えていきたい。
.自伝
 これから、自分のこれまでの生涯を振り返っておこうと思うが、平凡極まりない人生であるのに、振り返る価値などあるのだろうかという点を、まず確認しておきたい。さだまさしの人気曲「主人公」のなかに、「どんな人生でも自分が主人公」という言葉があるが、私の人生の主人公は私であるから、私を主人公とする人生を描くことは、自分にとっては、意味のあることだろう。ただ、それが他の人にとって、意味をもつためには、何か人生のなかで、振り返ってみる価値がある事柄が必要なのかも知れない。もちろん、多くの人にとって意味があるかどうかは自信があるわけではないが、いくつかの点で、考察に値することがあるような気がする。それを初めに整理しておくのがいいかも知れないが、まずは事実を積み重ねて、それを読んでから考察に値することを見いだしていくことにする。

1 父のこと

1-1 父の子ども時代
 父は、たぶん大正12年生まれで、今93歳である。「たぶん」というのは、実は本人も、誰にもわかっていない。誕生日は1月3日となっているが、その日に生まれたものとして、出生届けを出したということであり、実際に生まれたのは、もっとずいぶん前だった。当時、特に貧しい家では、無事育つかどうかわからなかったので、育つ確信ができてから、出生届けを出すことが稀ではなかったらしい。そのために、本当の誕生日がわからない。 ただ、「稀ではなかった」といっても、いくら、大正年間であっても、普通の家なら、生まれて数日後には、出生届けを出したのではないのだろうか。子どもに対する、親の態度が現れているのかも知れない。
 父の名前は、閏俉という。多くの人は見たこともない字ではないだろうか。これをパソコンで出すのに相当苦労する。「じゅんご」と読むが、その読み方もかわっているし、字もかわっている。閏は、「うるう」という読み方をして、「閏年(うるうどし)」として使う。「ご」の方は、通常の変換ではでないので、手書き入力をして、字を探してから、コピーする以外の方法はなかったほどだ。生まれたのが、閏年だったので、そのようにつけたそうだが、1924年が閏年なので、年齢とあわない。「俉」は何故用いた字か、よく分からないそうで、「悟」とか「吾」にするつもりだったのが、役所で書き間違えたのではないかとも考えられているそうだ。
 生まれたのは、福島県のいわき市の湯本で、そこで義務教育終了まで育った。現在はハワイーンセンターなどを中心とする温泉街として有名であるが、父が生まれた時期は、温泉が出なかった時期にあたる。ウィキペディアによると、江戸時代までは有名な湯治場であったが、明治になって炭鉱ができると、地表に出てくる温泉が枯渇し、1919年から1942年までは、まったく温泉としての機能がなくなっていたそうだ。父の湯本時代はその時代に完全に包摂されている。湯本が温泉を基礎とする町として再生したのは、常磐炭鉱が閉鎖され、炭鉱会社が生き残りのためにハワイアンセンターの設立運営に成功したことによる。その転換の経緯は、映画「フラガール」に描かれている。ハワイアンセンターは1966年の設立であり、完全に石炭業から撤退したのは、1985年である。
 父が生まれ育った時期は、湯本は完全に炭鉱の町であった。祖父母も炭鉱労働者であり、父祖の記憶は私にはないが、祖母が炭鉱から真っ黒な姿で帰宅した様子は、今でも朧げながら記憶にある。小学校前に母の実家に預けられていたとき、ときどき父方の実家にいったときの記憶である。ちなみに母方の祖父も炭鉱労働をしていたようだ。農家だったが、山林農家だったので、それだけでは食べられなかったのだろう。
 父の家は豆腐屋でもあった。豆腐屋は朝が早い。3時くらいには仕事を始め、朝御飯の準備する時間帯に、家を回って売り歩くのである。父はそうした仕事を兄弟の中で、最も頻繁に手伝わされたそうだ。手際がよかったという理由らしい。朝早く起きて豆腐屋家業の手伝いをして、学校にいき、学校から帰ると、更に家の手伝いがあったそうだ。おそらく翌日の豆腐作りの準備だろう。
 家で勉強するなどということは、まったく不可能だったようだが、成績はとてもよく、6年生の担任が、わざわざ家まできて、ぜひ中学にやってほしいと、親を説得してくれたのだそうだが、親は頑として首を縦には振らず、結局、父は義務教育修了とともに、家を出て働くことになった。家にいたくなかったということもあるだろうし、また、世話してくれる人がいて、会津に住み込みで働くようになった。どのような仕事をしていたのかは、実は聞いたことがないのだが、17歳のときに、逓信官吏練習所という逓信省の学校に入学することになった。現在でも官庁の設立運営する学校があるが(防衛大学校や気象大学校など)戦前は現在よりもたくさんの官庁立学校があり、中間管理職養成を目的として、学費がかからなかったので、比較的優秀な人たちが集まった。逓信官吏練習所は、中学卒業を基礎資格としていたが、試験に合格すれば入学できたようで、まったく中学にはいっていなかった父が合格したということは、かなり勉強したのだろうか。しかし、やはり、中学を卒業した生徒たちには、とても適わないと感じさせる者もいたようで、「世の中には頭のいいやつがいるからな」と、私や兄が高校に入学したときに、忠告めいた言い方をしたものだ。

(注 妻の祖父も、小学校時代同じように、成績がよかったのに、貧しかったので、進学は困難な状況だったそうだ。しかし、町の有力者が、金銭的な援助をしてくれたおかげで、中学から大学まで、進学することができた。そして、東大工学部を首席で卒業し、今話題の理化学研究所を経て、名古屋大学工学部の創設に関わった。父ほどの極貧ではなかったようだが、最高のレベルの教育を受けることができたのは、地域が豊かであったことと、資産家の篤志家がいたからだ。実はそうした篤志家の援助で才能を開花させた人は、少なくないのだが、当時の東北地方は、そうした優秀な子どもを援助して資金を出すような家が皆無であったかどうかは、もちろん分からないが、父がそうした幸運に恵まれることはなかった。しかし、日本の教育体制の中で、無償で生活費も保障された学校が、かなりあったことは、人材育成上決して無駄ではなかった。師範学校はそうした学校の最も代表的なものであるが、そのために師範学校には貧しいが優秀な生徒が集まり、日本の教育を支えたことは銘記されるべきである。)

1-2 父の青年時代
 父から青年時代のことはほとんど聞いたことがない。義務教育修了後、単身で会津にいき、そこで、おそらく逓信省関係の仕事をしつつ、17歳で逓信官吏練習所に合格、そこで勉強をしているうちに、徴兵検査になったようだ。
 父から直接聞いたことがないが、父は何故かクラシック音楽が好きで、私が物心ついたときに、家には古い手動のゼンマイ式の蓄音機があり、かなりの量のSPレコードがあった。後に述べるように、父は私が3歳ころに結核に罹り、小学校にあがるころに退院したが、そのころは既にLPレコードの時代になっていたから、SPレコードは、病気になる前に購入したものだろう。ということは、既に戦前にクラシック音楽が好きになっていたのだろう。もちろん、父が育った家庭は、音楽などはまったく関係のない環境であり、おそらく、逓信官吏練習所の学生の中に、クラシック音楽が好きな者がいて、その感化を受けたに違いない。
 その後の父の人生を決定的に左右した大きな出来事が起きた。おそらく逓信官吏練習所が修了したころだと思うが、徴兵検査を受けた。当時既に日米開戦後で、日本は日中戦争から続く泥沼の状況になっていた。そして、徴兵検査で、父は不合格になったのである。その理由は詳しく聞いたことはないが、結核の徴候があったのだと思われる。結核は、戦前の貧困病の典型であり、かつ死病だった。まだ発病はしていなけれども、胸の検査がひっかかったのだろう。小さいころからの非常に悪い生活環境と、早くから独立して、不摂生な生活をしていたことが原因に違いない。
 しかし、結果的にその不合格は、父を救うことになった。同時に検査を受けて合格した人は、ほとんど全員戦死したと、話していた。不合格になると、兵役にはつかないが、工場労働に駆り出された。父は千葉県の工場で働いていたそうで、東京大空襲で、東京が真っ赤に燃えている光景を、よく覚えている言っていた。工場労働者といっても、軍事訓練は頻繁にあり、かなり酷い扱いを受けていたようで、そのときの思い出を語るときには、今の父には考えられないほどの、「反天皇」的だった。「お前らは、天皇陛下からいただいた**を、なんで粗末にするか」といって、散々殴られたそうだ。天皇は大嫌いだ、が口癖だったのですが、今はすっかり保守的な日本人の典型である。
 戦争中のことに関連して、ここで、母方の親類の一人について書いておきたい。それは、藤野という人で、その子ども(叔父ではないが、私たちは叔父と呼んでいる。)には、父と私が家を建てるときに、とても世話になった。(これは大分後で後述することになる。)
 その叔父さんの父である藤野氏は、徴兵されたときに逃亡したのである。つまり、徴兵忌避だ。見つかれば厳罰に処せられる。しかし、見つかることなく、終戦を迎えたのである。母方の実家は、当時湯本よりも北の内郷というところに住んでおり、山に入ったところなので、まわりにはあまり家がなかった。そういうところだから、密かに逃げても、気づかれなかったのかも知れない。とにかく、家族も、また親類一同、誰も行き先を知らず、いくら尋問されても、本当にわからなかったようだ。もちろん、そんな人物はたくさんいたわけではないが、兵役拒否した者がいたのだ。決して「死ぬのが嫌」というのではなく、国がやっている戦争が間違っている、そんなことに加担したくないという気持ちが強かったと推測される。子どもである叔父も、非常にそうした意識の強い人で、労働者のために活動する人物であったことから、それは父の影響だったのではないかと思うのである。
 私が非常に気になって叔父に聞いたことは、そういう「非国民」扱いされるなかで、村の人たちから冷たく扱われることはなかったのか、ということだが、そうしたことはまったくなかったそうだ。叔父はまだ子どもだったので、知らなかっただけという可能性もあるが、家族ぐるみで迫害めいたことをされれば、さすがに覚えているだろう。やはり、戦争に対する疑問は、少なからず国民は感じていたということではないだろうか。だから、「逃亡」はむしろ勇気ある行為と内心思われていたのではないか。
 さて、戦争が終わり、日本は占領軍により大きな改革を次々と要求され、官庁も大きく再編された。逓信省は、郵政省(郵便・金融・保険を扱う。)、日本電信電話公社(国内の電話と電報を扱う。現在のNTT)と、国際電信電話株式会社(国際電報と電話を扱う。当時はKDDと呼ばれていたが、今はKDDIとなった。)に分割されることになり、それぞれの職員は、異なる道を歩むことになった。父はKDDに入ることになった。

1-3 父の結婚と家の新築
 終戦を迎えて、おそらく父は、故郷の福島湯本にとりあえず帰ったようだ。そこで、満州から引き上げてきた母と結婚し、再び上京することになった。母の満州のことは、また別途書くことにしたい。結婚記念日などを聞いたことがないので、実は正確にはわからないのだが、兄が生まれたのが、終戦の翌年の11月なので、遅くとも1946年の1月くらいまでに結婚していたはずでである。戦後の混乱期に、そんなに早く出会って結婚に至るものだろうかという疑問が湧くかも知れないが、父と母は遠い親戚で、小さいころからの知り合いだったので、以前から結婚の約束があったのかも知れない。母からみれば、働き者で、秀才ということで、比較的早い時期から、結婚を意識していたのではないだろうか。東京の親類の家にしばらく居候することになり、世田谷区の三軒茶屋に3年くらい生活をしたという。
 しかし、私には、その家のことは全く記憶にない。
 結婚前後の状況については、ほとんど聞いたことがないが、ひとつだけ、繰り返し聞かされたことは、父が結婚後、最初にもってきた給与の件である。父が前からほしかった岩波の「哲学辞典」を買ってきたというのだ。その辞典は、今、私の研究室にあるが、当時は本はとても高価なもので、しかも、岩波の辞典は、そう簡単に手に入るものではなかった。おそらく、独身時代の気ままな感覚で買ったのだろうが、給料のかなりの部分は費やされ、母は呆然としたそうだ。
 三軒茶屋では、三畳一間を借りて一家が住んでいた。三軒茶屋は、最近は比較的有名な地区になっているが、当時は、全くの地方都市という感じだった。戦前東京オリンピックが開かれることになって、たくさんの工事が行なわれたのだが、渋谷から世田谷の馬事公苑に至る道の拡張工事もその一環だった。今も馬事公苑は、東京の名所のひとつで、馬がたくさんおり、馬が駆ける道や、障害物競技場などがある。東京農業大学の反対側にあり、現在でも競技が行なわれている。その戦前の工事が、渋谷から三軒茶屋まで来たときに、戦争が激しくなって、東京オリンピックが中止となった。工事もストップしてしまい、今でも、渋谷から三軒茶屋までの道路は広いのだが、三軒茶屋で二子玉川にいく道路と、馬事公苑への道路が分かれる。そこではっきりと馬事公苑への道は狭くなる。
 さて、父と母が三畳一間に住んでいる間に、兄と私が生まれたわけで、一時期、その狭い部屋に4人が生活していたことになる。もっと大きな家の一部屋だから、別の共同部屋のようなところを利用することは可能だったろうが、とにかく、大変だったと思われる。そこで、一念発起、弦巻に家を建てた。まだ若い26、7歳で、もちろん、誰の援助もなく、家を建てるというのは、時代状況が異なるとはいえ、相当な決意と勇気があったといえる。しかし、もちろん、土地を買ってというわけにはいかず、借地をして、他の家で使われていた破棄材などを使って、安く建てたそうだ。土地も、道路からかなり引っ込んだところで、けっこう不便な位置にあったので、賃料も安かったのだと思われる。あと少し無理をすれば、土地を購入することもできたのだそうだが、後年、借地権を売って、八王子に越すときに、盛んに、借地にしてしまったことを、父は後悔していた。
 とにかく、三畳一間から、4部屋くらいある一軒家に移ったときの解放感と喜びは、相当なものだったようで、その話は何度も母から聞かされた。その移転当時のことも、全く覚えていない。私が3歳くらいのことだった。
 さて、引っ越した弦巻という土地は、今ではすっかり中産階級の町になっており、それなりの有名人も住んでいるし、知っている人にとっては、とてもうらやましいような地域だが、当時はまだ畑や空き地がたくさんある、いかにも郊外の発展途上の雰囲気だった。

1.4 結核に
 しかし、間もなく、父は病気になった。徴兵検査で不合格になったことは、そのときは命を助けることになったが、その原因となった結核が、戦後ついに発病してしまったのである。
 結核がどんな病気であったか、現在では、あまりよく知らない者が増えたが、結核は、現在の癌以上に、当時までは「死病」だった。ほぼ確実に死ぬ病気だった。武田信玄が結核におかされて、比較的若く死んだことは有名だが、あれだけの地位にいて、可能な治療が施された人でも、治ることはなかった。結核の治療法が確立したのは、大戦間の時期であり、その治療によって助かることも可能になりました。しかし、国民皆保険が成立し、誰でも治療を受けられるようになる前は、極めて高額な治療費を出せるお金持ちしか助かることはなかった。日本の戦前の文学は、主人公が結核になる話が非常に多いのは、いかに結核が広範な病気で、かつ恐れられていたかがわかる。多くの人が結核を恐れることがなくなったのは、1960年代くらいからである。レントゲン検査などの検診が発達し、早期に治療が開始されるようになって、結核が恐ろしい病気ではなくなった感があるが、それでも、結核にかかると、長期の療養生活を余儀なくされる。
 結核は、組織が腐ってどろどろになっていく病気だそうで、ある結核患者の療養生活を記した本を読んだとき、(その著者は比較的軽かったので治って、社会復帰したが)重い患者たちは、肺がどろどろになっているために、少しでも動くと肺が崩れてしまい、そのまま死んでしまう。そこで、もっとも崩れにくい姿勢をとり、決して動いてはいけない、そのままずっと寝ている、というようなことが書かれており、すごく驚いたことがある。
 そうした結核という絶望的な病気になったのが、私が3歳のころ、父が30歳ちょっとだった。そのときの気持ちは、当人でないと分からないだろう。療養中に、なんども「死にたい」と母にいったそうだ。母も相当覚悟はしていたようだ。しかし、このときにも、非常に幸運な状況が、父の命を救うことになった。
 第一に、父が勤務していたKDDが、日本で最も早く医療システムを従業員に導入した民間企業であったこと。戦前は逓信省の一部だったわけだが、戦後独立し、その流れで、逓信省の病院を従業員だけではなく、家族も無料で利用することができた。逓信病院は、東京でも非常に優れた病院のひとつであることは、今でも変わりないが、当時は大きな官庁が設置した病院であるために、抜群に優れた医療環境を提供していただけではなく、それを無料で治るまで利用できたこと、そして、休職中もずっと供与が支払われていた。結核は、高額な治療費を負担できれば、治る病気になっていた。だから、2度の大きな手術を受けながら、父は頑張ることができたのだと思う。
 第二に、母が看護婦であったことだ。しかも、母は戦争中、満州に従軍看護婦として勤務して、戦場にいたわけですから、少々のことではへこたれない強い精神をもっていた。ひとつには、弱気になった父を、治るという確信をもって激励できたこと、そして、いざ父が死んでも、看護婦として生きていけるという条件があった。
 そして、第三に、母の実家の協力で、二人の子どものめんどうを、なんとかみることができる体制をつくることができたことだろう。


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投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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