向かうところ敵なし状態だったポリーニに、重大な問題が発生する。手の故障である。事情をよく知る人の話では、腱鞘炎になったということだ。そして、実際の症状よりも、精神的な焦りのようなことのほうが、大きな問題だったようだ。不運だったことは、誰にも訪れる高齢化による技巧的な衰えが始まる時期と重なったことだろう。40代後半に腱鞘炎になったとすると、それ以後、腱鞘炎を克服したとしても、やはり、再発の恐れなどに囚われるはずである。
そうした影響が出始めたころ、ネットでは、ポリーニは練習不足だとか、怠けているなどという書き込みがけっこうあった。しかし、私からみると、練習不足などではなく、練習のやりすぎで腱鞘炎になってしまったわけだ。
カルロス・クライバーの伝記に、次のような内容が書かれていた。原本を今所有していないので、正確ではないが、ポリーニは、熱心にクライバーに対して共演しようと提案していたのだそうだ。クライバーは乗り気ではなかったのだが、ポリーニの熱心さにまけたのか、承諾して、予定もたてられた。しかし、実現する少し前に、ポリーニから断りがあり、それは病気のせいだと説明があったというのである。そして、その後、共演の話はまったくでなくなった。ポリーニは、他にも、共演を断った事例がある。私の記憶では、シェーンベルクの協奏曲をブーレーズと演奏し、録音計画があったが、その計画はキャンセルされ、その後アバドとの共演で録音が実現している。クライバーとの共演が実現しなかったのは、私は、ポリーニの腕の故障が原因であると思っている。病気が単なる風邪とか、医療で治るものであれば、治った段階で、共演が実現してもおかしくない。しかし、まったく話がでなくなったのは、ポリーニが故障によって、少なくともクライバーのような完璧主義者との共演を躊躇するようになったのではないかと思われる。
ポリーニの録音時期からすると、私が感じ取った限りでは、ショパンのスケルツォ集のときには、影響が出始めており、パラード集では、技巧的にも、解釈的にもはっきりとマイナスの影響が現われている。私が実演を聴いて圧倒されたバラード1番は、これがポリーニかと思われるほど、前のめりの落ち着かない演奏になっていて、若いころのEMI録音と比較すると、その違いがよくわかる。もうあの完璧なポリーニを聴くことはできないのだ、と悲しい思いになったものだ。
だが、世の中、やはり多様な受け取りがあるもので、全盛期のポリーニは嫌いだが、テクニック的に衰えたポリーニの演奏は好きだという人が、少なくないのである。要するに、ロボットが演奏しているような無機的なものではなく、人間味を感じるというのだ。
海外の論調はわからないが、日本人のこうした晩年のポリーニの高評価は、おそらく、「歌心」がテンポや強弱の揺れによって感じられるという、一種の演歌的感性によるものではないかと思っている。たしかに、歌いこむときには、テンポを揺らすことが多いし、意図的に強弱をつける。しかし、ポリーニは豊かな感情表現で歌心を示すときにも、こうしたテンポの揺れなどを手段として使わない。曲そのものが要請するテンポの変化はつけるが、いささかも恣意的な感じはしない。にもかかわらず、ポリーニの演奏には豊かな歌がある。それは、おそらく、彼のピアノの音そのものが歌っているからであろう。歌の国イタリアの演奏家らしい側面だ。トスカニーニがそうだった。音そのものが歌っているので、テンポを揺らす必要がないのだ。しかし、その音そのものを感じ取りにくいと、ポリーニの演奏は、いかにも無機的にしか響かないのかも知れない。
故障後のポリーニは、どうしても前のめりになったりするテンポの揺れが目立つようになった。それを歌心として感じるのではないだろうかと思っている。しかし、残念ながら、そのときのポリーニは、音そのものの歌がかなり失われてしまったのである。
もうひとつ、若き全盛時代と、衰えた晩年で非常に目立った変化がある。それは、演奏後の表情だ。若いころは、どんなに圧倒的な名演をし、聴衆が沸き立っているのに、にこりともしないでお辞儀をしていた。いかにも、今の演奏には、自分が満足できないのに、このひとたちは何故こんなに熱狂しているんだろう、といわんばかりだった。
しかし、晩年のライブをみると、聴衆の拍手にうれしそうに、にこにことこたえている。もっとも、ドヤ顔ではまったくなく、拍手してくれてありがとう、という感じだ。晩年のインタビューで、何故高齢になってもピアノを弾くのかと問われて、楽しいからだ、と答えていたのだが、そういう心境になっていたということなのだろう。
しかし、あの完璧な演奏を聴き、それでもまだ高みをめざしていたポリーニを知っている者としては、あの全盛期に世界各地で行っていたベートーヴェンのソナタ全曲演奏の録音をぜひCDにしてほしいと思うのである。ドイツグラモフォンは、ポリーニの演奏会は、すべて録音していると雑誌で読んだことがある。いまこそ、その録音を活用してほしいものだ。