「セクシー田中さん」問題は、論議が活発に続いているとはいえないが、まだなされている。そのなかで、弁護士の人が書いた
『セクシー田中さん』問題で注目される「著作者人格権」 アメリカよりも強力に保護されていた原作者の権利とは?」という文章があった。
https://news.yahoo.co.jp/articles/fa3692f2afbb29b64125eaf08f4624445ffc0f86
ここで注目したのは、著作者人格権は、欧米ではあまり法律としては厳格に規定されておらず、日本のほうが厳しいというのだ。しかし、だからといって、「同一性保持権」を欧米が無視しているとは思えない。これは、当たり前の常識として守られているので、特に法で規定することではないと思われているように思われる。パロディーなど問題にならないというが、(問題にあることもあるはずだが)パロディーは、二次的創作と考えられていて、別ものだという意識なのではないだろうかと思われるのである。
さて、この間議論の中心のひとつになっていることに「原作(者)への尊重」がある。そこで、この点について具体的事例で考えてみたいと思った。私は、漫画も読まないし、テレビドラマもみないので、現在問題になっている漫画とドラマという枠ではないが、問題としてはどんなジャンルでも同じことだろうと思われる。
ここでまずとりあげたいのは、トルストイ原作の『戦争と平和』の映画化である。『戦争と平和』は世界最高の文学作品という評価があるが、極めて長く、扱っている内容が社会全体にわたっており、原作に忠実に映画化することは、もちろん不可能である。9時間近い長さをもつソ連製の映画でも、省略されている重要エピソードはたくさんある。だから、そのことは問わない。問題は、些細なことだが、原作との異動である。
『戦争と平和』の映画化は、著名なものとしてハリウッド映画とソ連の国をあげての制作映画がある。その他にイギリスのテレビドラマがあるが、これは、出だしからあまりに酷い「同一性保持権」の侵害としかいいようがない、筋が改変された展開があったので、最後まで見ることがなく、今回は省くことにする。
二つの映画は、原作への尊敬は十分すぎるほどにあり、巨額の資金、圧倒的多数の人材投入等々、原作を尊重しつつ、原作が要求するスケールの大きさをできる限り追求しようとしている。作品には、アウステルリッツ、ボロジノという二つの大戦闘場面があるので、そこに投入されている兵士としてのエキストラだけでも、現在では絶対に実現できない程のものだ。CGなどなかったときの映画だから、すべて人が演じている。
ハリウッド映画は、オードリ・ヘブバーンがヒロインを演じていることでも、大きな話題になっている作品である。そして、できるだけ原作に忠実に作ろうとしている姿勢がある。しかし、重要な(と私は思うのだが)点で、原作というよりも、歴史的事実を歪めている。それは、ロシア帝国のふたつの首都であるペテルブルグとモスクワを区別していないことである。物語は、最初にペテルブルグの社交界であるアンナ・パーブロブナのサロンの場面から始まる。そして、そこに来ていたアンドレイとピエールがアンドレイ宅にいって雑談をするが、そのあと、ピエールは、アンドレイとの約束を無視して、ふしだらな生活をしている若者サークルのところにいって、乱稚気騒ぎをし、更に警官を縛って運河に放り込むという乱暴を働いてしまう。そして、ピエールはペテルブルグを追放になって、モスクワにやってくる。モスクワには、ロストフ一家やピエールの父親がいる。つまり、舞台がペテルブルグからモスクワに異動してくるわけである。
しかし、ハリウッド映画では、最初からこれらがモスクワで起きたことになっている。アメリカ人にとって、この二つを厳密に区別しなくても、特に気にしないかも知れないが、やはり、きちんとした教養をもっている人にとっては、またロシア人にとっては、相当腹立たしいことなのではなかろうか。
日本にあてはめれば、江戸時代末期の動乱を描くさいに、京都と江戸を区別せず、同じ場所で起きたことのように描いていたとしたら、日本人としてはとうてい許容できないのではないだろうか。京都の鳥羽伏見の戦いに敗れて、徳川慶喜は江戸に船で帰り、静岡に謹慎する。そして、朝廷軍が江戸に攻めてきて、西郷と勝の対談となるわけだが、そうしたことすべてが江戸で行われているように描かれているようなものだ。江戸と京都は、社会的政治的意味あいがまったく違うように、ロシアのペテルブルグとモスクワも違うはずである。
これは原作への尊敬だけではなく、歴史的事実への尊重という点でも疑問である。
ソ連映画はどうだろうか。さすがに、国家的事業として制作された、世界的大小説の映画化なので、そうした変更はほとんどみられない。原作の重要な要素が欠けていることがいくつかあるが(たとえばフリーメイソン関連の話)それは仕方ないだろう。
この映画の原作尊重姿勢は、俳優の選択に如実に表れている。主人公級だけではなく、隅々まで、原作から飛び出てきたような俳優が演じているのである。その典型が、アンドレイの妹のマリアであろう。原作ではマリアはとても醜い顔をしていることになっている。ところが、ハリウッド映画では、美人女優が演じている。しかし、ソ連映画では、ほんとうに醜いとしかいいようがない女優が演じており、動作なども原作を彷彿とさせる。ここまで原作に忠実にやるのか、と私は感心したものだ。
ところが、これだけ原作に忠実な俳優選択をしているにもかかわらず、2名だけ原作イメージとかなり違う重要人物がいるのである。それは主人公の一人であるピエールと、その最初の結婚相手であるエレンである。ピエールは30前後で背が高く、進取の気風溢れる人物である。しかし、若者らしく自由奔放な面がある。しかし、ピエールを演じている俳優は50代で背は低く、太っている。まったく若者らしさがないのだ。そして、エレンだが、そこにいればすべての人が目を奪われるような絶世の美女ということになっているのだが、この女優は、どうみても中年の普通のご婦人である。思わず目を奪われそうにはない。明らかに、この二人は、原作のイメージとかなり違っている。しかも重要人物だ。ナターシャ役は、何千人もの候補者のなかから、オーディションで選ばれたのだから、ナターシャと結ばれるピエール役も、ふさわしい役者を選ぶべきだったのではないだろうかと思うのだが、こうなった理由は、おそらくはっきりしている。ピエール役をした人が、実はこの映画の監督であり、エレン役はその夫人なのである。意地悪い見方をすれば、監督という地位を利用して、重要な配役を自らとその夫人に割り振ったといえる。だから、この二人が出ている間は、どうも見ていて、入り込めないのである。厳密に解釈しても、この二人の役配は、同一性保持権を侵害しているとはいえないが、しかし、原作の尊重には反しているように思うのである。
ニコライは、戦乱中の混乱で農奴たちに反乱されそうになったマリアを助け、その縁でマリアと結婚するのだが(そして、それは破綻した財産を立て直すためでもあった)、そうしたニコライとマリアの関係は、ほとんど省かれている。実は、この二人はトルストイ自身の父母がモデルだから、原作のなかでは極めて重要な筋なのだが。そして、ピエールとナターシャは、結婚後、幸福な生活をしている。物語はここで終わるが、ピエールがデカブリストの反乱に参加し、シベリア流刑になる。そして、ナターシャが夫の元にいき、刑期を終えたあとモスクワに戻ってくるという場面が始まるのが、未刊に終わった「デカブリスト」という小説の書き出しである。実際に夫婦でシベリアにいき、無事帰ったひとたちが何組かあったのだが、そうした人物を主人公に構想しながら、彼等の若きころに遡っていくうちに、「戦争と平和」という小説に結実したのである。「戦争と平和」の最後の場面は、ピエールがデカブリストの会合にでて、帰宅したあと、その話の内容をナターシャに語る場面で終わる。しかし、それが、デカブリストの会合であったことは示されない。こうしたエピローグまで含めれば、このソ連映画の印象もまたずいぶんと変るに違いない。