文科省道徳教「二通の手紙」

 文科省の道徳教育資料の教材に「二通の手紙」という文章がある。これは、「権利と義務」「社会のルール」の大切さを学ぶという教材のようだ。毎回の断りだが、これは、この教材をどのように教えるかという考察ではなく、大人として、まずこの教材を読んで考えることについて書く。
 動物園の入場管理をしている二人の会話から始まる。高校生らしい二人ずれが、ほんの少し入園終了時間を超えた時点で、入場券を買おうとして、少しだからいいじゃないかという、たぶん若い山田と、だめだという年配の佐々木が言い争っているわけだ。そして、佐々木が、高校生に、「規則上いれるわけにはいきません」と断ると、高校生は不服な顔をしながらも、去っていった。そして、納得がいかない山田に、佐々木が若いころの体験を話す。
 定年間際に妻を亡くした元さんが、仕事ぶりをかわれて退職後に引き続き働くことができるようになる。毎日、小学3年くらいの女の子と、3,4歳の弟が、動物園のなかを覗いている。そんなある日、入園終了時刻を過ぎて、入り口を閉めようとしていると、その二人がやってきて、いれてとせがむのだが、元さんは、子どもたちに、「もう終わりだよ。それに、ここは、小さい子はおちうの人が一緒じゃないと入れないんだ」と断る。しかし、女の子が「今日は弟の誕生日だから、見せてやりたかった」と泣きださんばかりになったので、特別にいれてあげた。
 ところが、閉館時間になって、客が帰ったのに、その子たちは出てこない。職員をあげて探すことになり、一時間もたって、園内の雑木林の池で遊んでいるところを発見した。その後、二通の手紙を受け取ったというのが、この文の表題になっている。
 一通は、子どもたちの母親からでお礼の手紙だ。そして、もう一通は、懲戒処分の手紙で、停職処分を告げるものだった。結局、元さんは、職を辞めた。ただ、「私の無責任な判断で、万が一事故にでもなっていたらと思うと・・・。この年になって初めて考えさせられることばかりです。」」といって、晴々とした顔で去っていった。
 これが、佐々木が、今日のようなことがあると思い出すと、山田に語ったという話である。

 いかにも、「道徳」の教材らしい話だが、実は、あまり「道徳」を考える素材でもないように思われる。あまり道徳的なレベルで、意見が交わされるようにも思わなかった。この教材の次のページに「一人一人が守るべきものがある」として、「虚言をいう事はなりませぬ 卑怯な振舞をしてはなりませぬ 弱い者をいじめてはなりませぬ」という「教え」をあげているが、現在の内閣総理大臣にぜひ聞かせたい言葉である、と考えてしまうのは、私だけだろうか。嘘ばかりついているし、自分の失敗は他人の責任にするし、自分に批判的な仲間に対しては、10倍の資金を投入して対立候補を当選させる(その結果当選者が逮捕)、実に、首相に聞かせるべき言葉としてあるような気もする。

 それはさておき、いくつかの考えるべき点がある。
ア 入場を認める時刻を、絶対的に守る必要が本当にあるのか。
イ 入場の条件(この場合、大人の同伴がない子ども、おそらく小学生以下は、入園させない)は、厳格に守る必要があるか。
ウ ふたつの条件を無視したら、懲戒の対象にするのか。あるいは、子どもが退園時間も守らなかったために、職員を動員するという事態になったから、処分されたのか。もし、子どもが、退園時間を守って、何も起きなかったから、懲戒処分は不要だったのか。
 ただし、これらの考察は、「道徳」としてのものなのか、別のことなのかという点も、多様な見解がありうる。

 アの「入場を認める時刻は、厳格に守るべきか」という問題は、他の事例でもたくさんあるに違いない。私が勤めていた大学では、(他の大学でもかならずある問題だが)卒業論文を規定の時間で厳格に切るかどうかが、切実な問題としてある。
 私がまだ若いころ、学部に有力教授がいて、非常に学生思いなので、卒論の締め切り日には、事務の前に陣取って、締め切りに間に合わないで駆けつける学生がいると、その場で事務と交渉して、受け取らせていた。30分遅れくらいまでは、その教授が世話していたと思う。毎年1,2名の恩恵を受けた学生がいた。事務は、教授にはだいたい弱いし、その教授は発言力がある人だったから、事務はしぶしぶしたがっていた。しかし、どういう経緯かは、私はまったく知らないのだが、たとえ1分でも、遅れた卒論は受け取らないという取り決めがなされ、実際に事務もそのようにした。そして、それ以降は、その教授のように、事務の前に陣取る教授も出なくなった。
 ところが、それ以来、何件か、遅れたが、学生が事務に事情を説明して、「預かった」事例が生じた。提出を認めるかどうかを、教授会で審議するということになったのである。理由は、それぞれであった。
 ひとつは、病気がちで卒論が進まず、ぎりぎりまで頑張っていたが、当日印刷等の関係と交通の乱れで、何分か遅れて事務にたどり着いたというものがあった。また、どういうわけか、事務受け取り時間は、毎年微妙にずれて、10分程度年によって違いが生じていた。そして、あるとき、学生が卒論担当の教員に締め切り時間を聞いたところ、教員自身が勘違いして、多少遅い時間を学生に教えたために、その学生は数分遅れることになった。
 教授会でも、これは意見が分かれた。確かにルールを守ることが論点だが、道徳と関係があるのだろうか。ルールといっても、「自然法」的なものではなく、かなり人為的に決めたルールである。
 昨年、ある大学で、レポート提出が遅れて、教員に交渉したが断られたので、その教員を刺した学生がいた。個々の授業のレポートは、大学や学部の規則として決まっているわけではないから、教員の裁量の範囲にある。私は、レポートの締め切りに関しては、かなり融通を聞かせるほうで、事情があれば、可能な範囲で締め切りを遅らせることは、普通にやってきた。私自身、論文の締め切りを遅らせてもらうことは、学部紀要に関しては、毎年のことだったので、他人に厳格な締め切りなど適応できないと思っていたわけだ。つまり、個人的に決めたルールは、事情によっては個人的に変えることかできるわけだ。
 しかし、公共の施設で、ルールとして決まっていることは、基本的には、機械的に切る場合が多いだろう。しかし、それは、「道徳的な感覚」とか、「ルールは守るべきだ」というような話よりは、もっとプラクティカルな対応としてではないかと思う。2分遅れて入場券を買おうとした人に売ったら、そのあと3分遅れの人に断れるか。10分までならいいのか。というような「区切り」が説明できなくなってしまう。きちんと説明できるのは、最初に決めたルールを適用することだけだ。動物園の入場などについては、そうすることに合理性があると思う。
 イに関しては、安全上の問題だから、施設としては守ることが、施設を守ることにもなるという判断になるはずだ。もし、子どもだけはだめというルールを無視して、子どもだけの入場を認め、事故が起きたら、当然責任を問われることになる。従って、これも、道徳の話ではないように思う。
 そういう意味で、二重にルールを破り、かつ、そのことによって、大きなトラブルを引き起こすことになったことについては、元さんに大きな責任があるというべきだろう。この教材を、議論するものとして位置づけているようだが、それならば、いきなり停職処分の通知がくるのではなく、処分委員会に提案され、そこで元さんを擁護する意見も出ている想定にすべきではないだろうか。 
 またこれらのルールについても、ルールを策定した側と、守らせる任務をもった人、そして、そのルールによって利用する人、それぞれの立場によって、ルールを守ることの意味は異なってくる。こうした点、教材として物足りない。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

「文科省道徳教「二通の手紙」」への3件のフィードバック

  1. 2019年卒業の成田です。道徳教育に関して思うところがありましたので、投稿させていただきました。と言うのも、この「二通の手紙」は、私が教育実習で授業を行った単元であるからです。現在は授業を行っていないので、教育実習時で教えた経験をもとに書いてみます。授業展開が上手くいかなかった部分や改善点などの反省は多くありますが、今回は割愛し、疑問に思ったことを述べていきます。

    一つ目は、この単元の目標が「生徒にルールを守らせることの重要さを教える」というように決められていることです。細かい目標は覚えていないのですが、教員用の指導書や学習指導要領に、そのような意味合いで書かれていたと思います。ルールを守ることは重要ではあると思うのですが、この単元でそのような目標を立てるには、説得力が足りないのではないか、と考えます。
    なぜルールを守るのか、ということを理解するためには、なぜそのルールができたのか、そのルールによってどのような効果があるのか、ということを理解することが前提となります。実際に授業でもそのような話をしたのですが、物語の中ではそのようなことはほとんど語られないため、あまり理解できていなかった生徒もいました。
    また、母親からの手紙については、詳しく書かれているにも関わらず、元さんに渡された解雇通知は、詳しい内容が書かれておらず、なぜ解雇なのかはっきり明言されていません。同僚も納得がいかないという描写であり、授業後の感想用紙で理不尽だと感じた、と書いた生徒もいました。これでは、ただ言われたルールを守れ、というように感じる生徒もいるかもしれません。それを理解できるようにさせるのが教師の力量だと言われれば、それまでの話かもしれませんが、どうしても説得力に欠けると感じました。

    二つ目に、元さんの行動や人物、動物園の職員の制度や運営の問題についてです。元さんは、子ども達を入園させることについて、誰にも相談せずに独断で入園させていました。ここで、誰か他の職員と相談していたら、違った結果になったのではないか、と考えられます。また、子ども達に元さんか他の職員が同行すればよかったのではないか、といったことも考えられます。ルールを守らなかったことよりも、元さんの行動に問題があったように感じられます。また、元さんは退職後に再任用されたとありますが、再任用だから、責任感が希薄になっていたのではないか、というようにも考えることができます。いくら経験があり、信頼のある人物であっても、正規の職員でないと責任感は薄れてしまうことがあります。
    仮に、元さんが(もしくは子ども達に対応した職員が)新卒の職員だったら、責任の重いベテランの職員だったら、など人物の背景が違えば、結果も異なっていたと考えられます。
    このような事に注目すれば、生徒たちの議論も活発になるのではないか、と考えます。また、このように議論するとしたら、目標は「ルールを守ること」ではなく「責任能力を育む」や「臨機応変な対応力」などになるのではないか、と考えます。

    三つ目に、この単元を中学生が学ぶべきか、という点です。自分の学生時代に、どの学年でこの単元を扱ったかは覚えていませんが、教育実習時は、中学3年生に対してこの単元を扱っていました。中学3年生に対して、「ルールを守る」といったことは、学校や家庭であっても、何度も教えられてきたことではないかと思います。それを、わざわざ授業で扱うことに意味があるのか、と考えます。
    前述した疑問点などを議論するには、学習する意味があるかと思いますが、「ルールを守る」ことにこだわると、どうしても一元的な考え方、教え方になってしまうのではないか、と考えます。扱うのであれば、社会について学び始める小学校高学年や、小学校から環境が変わり様々なルールや約束事が増えてくる中学1年生が良いのではないか、と思います。

    以上3点が、教育実習を通じて私が疑問に思ったことです。特に三つ目の扱うべき学年(年齢)については、個人的に一番疑問に思いました。実践が一度だけで、道徳教育を特別に学んだわけではないので、反論もあるかと思いますが、思ったことをまとめてみました。

  2. 2019年卒業の成田です。道徳教育に関して思うところがありましたので、投稿させていただきました。と言うのも、この「二通の手紙」は、私が教育実習で授業を行った単元であるからです。現在は授業を行っていないので、教育実習時で教えた経験をもとに書いてみます。授業展開が上手くいかなかった部分や改善点などの反省は多くありますが、今回は割愛し、疑問に思ったことを述べていきます。

    一つ目は、この単元の目標が「生徒にルールを守らせることの重要さを教える」というように決められていることです。細かい目標は覚えていないのですが、教員用の指導書や学習指導要領に、そのような意味合いで書かれていたと思います。ルールを守ることは重要ではあると思うのですが、この単元でそのような目標を立てるには、説得力が足りないのではないか、と考えます。
    なぜルールを守るのか、ということを理解するためには、なぜそのルールができたのか、そのルールによってどのような効果があるのか、ということを理解することが前提となります。実際に授業でもそのような話をしたのですが、物語の中ではそのようなことはほとんど語られないため、あまり理解できていなかった生徒もいました。
    また、母親からの手紙については、詳しく書かれているにも関わらず、元さんに渡された解雇通知は、詳しい内容が書かれておらず、なぜ解雇なのかはっきり明言されていません。同僚も納得がいかないという描写であり、授業後の感想用紙で理不尽だと感じた、と書いた生徒もいました。これでは、ただ言われたルールを守れ、というように感じる生徒もいるかもしれません。それを理解できるようにさせるのが教師の力量だと言われれば、それまでの話かもしれませんが、どうしても説得力に欠けると感じました。

    二つ目に、元さんの行動や人物、動物園の職員の制度や運営の問題についてです。元さんは、子ども達を入園させることについて、誰にも相談せずに独断で入園させていました。ここで、誰か他の職員と相談していたら、違った結果になったのではないか、と考えられます。また、子ども達に元さんか他の職員が同行すればよかったのではないか、といったことも考えられます。ルールを守らなかったことよりも、元さんの行動に問題があったように感じられます。
    また、元さんは退職後に再任用されたとありますが、再任用だから、責任感が希薄になっていたのではないか、というようにも考えることができます。いくら経験があり、信頼のある人物であっても、正規の職員でないと責任感は薄れてしまうことがあります。仮に、元さんが(もしくは子ども達に対応した職員が)新卒の職員だったら、責任の重いベテランの職員だったら、など人物の背景が違えば、結果も異なっていたと考えられます。
    このような事に注目すれば、生徒たちの議論も活発になるのではないか、と考えます。また、このように議論するとしたら、目標は「ルールを守ること」ではなく「責任能力を育む」や「臨機応変な対応力」などになるのではないか、と考えます。

    三つ目に、この単元を中学生が学ぶべきか、という点です。自分の学生時代に、どの学年でこの単元を扱ったかは覚えていませんが、教育実習時は、中学3年生に対してこの単元を扱っていました。中学3年生に対して、「ルールを守る」といったことは、学校や家庭であっても、何度も教えられてきたことではないかと思います。それを、わざわざ授業で扱うことに意味があるのか、と考えます。
    前述した疑問点などを議論するには、学習する意味があるかと思いますが、「ルールを守る」ことにこだわると、どうしても一元的な考え方、教え方になってしまうのではないか、と考えます。扱うのであれば、社会について学び始める小学校高学年や、小学校から環境が変わり様々なルールや約束事が増えてくる中学1年生が良いのではないか、と思います。

    以上3点が、教育実習を通じて私が疑問に思ったことです。特に三つ目の扱うべき学年(年齢)については、個人的に一番疑問に思いました。実践が一度だけで、道徳教育を特別に学んだわけではないので、反論もあるかと思いますが、思ったことをまとめてみました。

  3. コメントを送信してから少し時間が経っても反映されなかったため、同じ文章を2度送信してしまいました。申し訳ありません。

    前回のコメントの追記です。単元の話から離れるので、一度区切らせていただきました。

    道徳の授業に関して常々疑問に思っていることがあります。それは、「授業の最初に教員が物語を全文読み上げる」ということです。この作業がなぜあるのか、実際にやってみて、時間の無駄だと感じました。読み上げるのに、約5分~10分程度かかります。そのため、実質的な授業時間は約40分です。この作業をなくして、授業時間に当てるべきだと考えます。
    生徒に読ませれば、音読や文字を読む、といった国語の授業で育むような能力は身につくかもしれませんが、教員が全文読むより時間がかかることが考えられます。
    私が学生の時もそうでしたが、道徳の教科書は常に学校に置いてあります。教育実習時もその風習は残っていました。この教科書を、授業の前日に持ち返り、読み込んでおけば、授業でスムーズに学習することができるのではないでしょうか。
    道徳の教科書や、道徳の授業で使う書き込める冊子(私の学校では「心のノート」という名前でした)は置いていくのに、歴史の資料集や地図帳などは持ち返らせるのか、といった別の疑問はありますが、脱線しすぎるので割愛します。(私個人はいわゆる置き勉は、生徒の負担を考え、してもよいという考えです。)

    教育実習を通して一番感じたことは、中学生は自分が考えていたよりずっと頭が良く、深く物事を考え、自分の意見を確立することができる、ということです。
    授業中の発言や、感想などを書くプリントを読むと、生徒のうち何人かは人と異なった意見を書いています。大多数の意見や目標に導くため、取り上げられないものも多くありましたが、このような意見こそ大切にすべきだと考えます。
    色々と意見を書きましたが、私自身がよりよい道徳教育を実践できるように、これからも考えていきたいと思います。

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