道徳教材「二通の手紙」をめぐって

 道徳教材「二通の手紙」に関しての文章について、「二通のコメント」があったので、返信として、また新たに考えたこととして書いておきたい。返信としては、「ですます調」が適切なのだろうが、ブログの文章なので、「である調」にさせていただく。(また、コメントには氏名が書かれているが、以下はコメントとさせていただく。)
 コメントがまず問題にしているのは、この「二通の手紙」の単元の目標が「生徒にルールを守らせることの重要さを教える」となっていることである。実際に、教育実習でこの教材での道徳の授業をしたときに、むしろ機械的にルールから解雇したやりかたに批判的な生徒もいたという。だから、この教材は、単にルールを守るということではなく、「責任能力を育む」とか「臨機応変な対応力」というようにするほうが適切ではないかという。

 そもそも、私は、特別な「道徳」の時間を設定することに否定的であるので、最も根源的なところになると、議論ができないのだが、少なくとも現行システムでは、道徳を教えることになっているので、では、どうやることが、最大限子どもたちのためになるのか、という点では、大いに議論できると考えている。では、子どものためになる道徳教育とは何かといえば、「徹底的に、多面的に考えてみる」という作業を保障することだ。そういう点では、教材は、どういうものでも構わない。おかしな内容であれば、徹底的に考えて、そんな馬鹿なことはない、と生徒たちが考えてもよいわけで、要は、教師と生徒が、どれだけ柔軟に考えられるかにつきる。
 しかし、そうはいっても、教科書があり、そこには、単元目標が明示されているという問題はある。もし、教材の本文と、目標がずれているとしたら、どうするのか。原則は同じだが、主幹教諭とか、管理職が、目標通りにやれというような介入をするということもありうるが、「教育」的領域は、校長には、命令権はないので、あくまでも指導助言として受け取れるかということになる。
 
 前置きはこのくらいにして、たしかに、この文章の「目標」は疑問だ。コメントのいうように、「臨機応変な対応力」というのは、教材に相応しい理解だと思うが、それは「道徳」か?という疑問がわく。おそらく、否だろう。そもそも、「ルールを守る」ことが、道徳なのかという問題もある。古来、法と道徳の関係という問題がある。
 授業を実際に考えれば、例えば、入館時間を守らせるのが、職員にとっての「ルール」であるということなのだろうが、たぶん、考えさせる教師であれば、ここはルールを守って、子ども達を返すべきなのか、ルールはそうであっても、まだ閉館には時間があるわけだし、事情を考慮すれば、認めてもいいのか、というように論点を設定することもできる。また、その他のいい方法はないか。例えば、子どもが歩いてきたのだから、遠くではないはず。親に連絡して、親にきてもらうことはできないか、まず聞いてみて、可能なら電話して親も付き添ってもらう。そういう解決だってある、とか、議論をいろいろと展開させることは可能な教材である。
 「ルールを守ることの重要性」という目標設定されていても、いつでもそうなのか、例外はあるのか、この場合どうか、と様々な点検する授業も可能だろう。それは、最終的には教師の姿勢と力量にかかっている。むしろ、道徳教育については、教師に「臨機応変な対応力」が求められるのだと思う。
 教育実習の研究授業は、数えきれないほど訪問して見学したが、道徳教育の授業は、かなり少ない。でも、ほとんどは満足できないものだった。実習生だから、それは別に問題ではなく、現場にでて成長すればいいことだ。では、何が満足できないかというと、この「臨機応変な対応力」がまだ十分ではないという点にある。目標設定にそって授業をしているのに、違う意見が子どもから出ることがある。それは、その教材から必然的に出てくる意見である場合でも、指導書の目標設定にあわないと、ほとんどの実習生は、その意見を切り捨ててしまう。
 道徳教材として有名な「手品師」という文章がある。母が帰って来ないので悲しんでいる少年に、手品を見せると、明日もみせてとせがまれ約束する。しかし、その夜、手品師の友人から大劇場の代理出演の依頼が来るが、悩んだ末、少年との約束を果たすという内容だ。この少年との約束を果たすことが重要で、臨時の仕事などより大事だという主張であることを、作者自身が書いている。しかし、作品は、作者から離れて解釈されるものだ。この作品を素直に読めば、仕事を紹介してくれた友人とも、「約束」をしていたわけで、どちらも約束だ。だから、実はいろいろな意見が出てくる。私が見学した「手品師」の授業でも、ある子どもが、友人とも約束していたので、そっちだって重要だ、と主張したのだが、実習生は、それを無視してしまった。
 これは、やはり、臨機応変な対応でもあるが、また、教材を「指導書」からも自由に深く読み込むかということでもある。
 
 二番目のコメントについて、なぜ、最初に教師が朗読するのかという点だ。私が想像するに、道徳教材は、子どもたちが事前にはあまり読んでいないことを前提にしている。そして、内容について、そのときどきに考えさせたい。だから、子どもたちが教師の朗読だけによって内容を理解していれば、先を知らないで、その時点でどう考えるか、という課題を出せる。「手品師」でいえば、明日もお願いと言われた。さあどうするかな。おそらく、多くは、「いいよ」という立場をとるだろう。でも、もしかしたら仕事が舞い込むかも知れない、と悩む場合もあるかも知れない。
 いくつかの意見が出たところで、「じゃ、次を読んでみよう」ということになる。そして、電話がきた。さあどうする。
 こういう進行を可能にするために、教師が読むのだと、私は解釈している。
 たしかに、その場その場で、先を知らずに判断するという課題を設定できるが、どうしても、浅い理解での考えになる。だから、本当のところは、最初から展開を全部承知した上で、様々な時点で、様々な側面から考えるように、教師が刺激できるのがよいのだろうとは思う。
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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